第3話 入水
ばしゃぁん、ごぽごぽ……と水に思いっきり飛び込んだ時のような衝撃。
音を立てて体が沈んでいく感じがして、胸倉を掴まれたような息苦しさが僕を襲う。しかしそれはすぐさま消えて、メントールのようなすーすーした気体が肺を満たしていった。
ゆっくりと目を開けると、そこは海の中だった。
いつかテレビで見た絶景のひとつのような、図書館でみた写真集の、ページいっぱいに載せられた写真の中のような、雄大な世界だった。
僕の周りからは炭酸のようなしゅわしゅわした泡が弾け出している。見つめる先、エメラルドグリーンの揺れる
Tシャツはなびいているが、不思議と服が濡れた感じはしない。風に吹かれている感覚がする。自転車で坂道を下った時のようだ。
くるりと体勢を変えてずっとずっと向こうの、地平線とも呼べるような海底の稜線を見ると、深緑や濃い紫、水色のサンゴがいっぱい。樹木のように立ち並んでいる。僕はその景色にただただ圧倒されるばかりで、なにも思い浮かぶ言葉はなかった。孤独感で海と一体になる。
僕は海底に空いた大きく黒い穴に沈んでいった。
ぼんやりと思いだすのは、遠い昔に聞いた、僕の住む街に伝わる深海伝承の一つ。想太にも説明したものだけど。
『僕が昔住んでた街は港町で、漁も盛んなんだけど、昔この街の漁師が漁に出かけた時、百年に一度あるかないかという暴風に巻き込まれて船が遭難したことがあるらしいんだ。』
『方位磁石は狂うわ、積んでいた大半の食糧の大部分が流されてしまうわで、船内は大パニック。ついに沈没してしまったらしい。この街も豪雨で大きな被害を受けて、漁師はもう戻って来ないかと思われた。』
『でも驚いたことに、彼らの半数は生きて戻ってきたんだ。どうやら生還した彼らの話によると、船員がそれぞれ衰弱しきった頃、電気をまとった怪しげなクラゲがどこからともなく現れて、触手を耳や頭に巻きつけられ、願いは何か、と尋ねられたらしい。』
『クラゲって喋るのものかい?』
『喋らない…とは思うけれど。それを聞き遂げるやいなや、クラゲは自分たちをどこかに連れて行った。そして気が付くと大きな都市のようなものがある場所に来たと』
『へえ、実に興味深い』
そんなやり取りをした。
昔はそんなの全然信じてなかった。さすがにお伽噺だと思ってた。どうやって帰ってきたのかもうやむやになってるし。
ちょっと調べてみたこともあるけど、文献もないし新聞にも載ってない。もしかしたらクラゲの毒で幻覚を見ただけかもしれないとも思っていた。
だけど僕はもう、それに縋るしかなかった。
しばらくすると、空洞から抜けて広い空間に出た。やっと地面に足が着くようになったので、それからはひたすら暗い海底をさまよい続けた。どこも黒色のカーテンがかかっているようで、どこから歩いてきたのか、どこに向かってるのかも分からない。
どれぐらい歩いたのだろうか。疲労で足がふらついてきた。息は問題なくできているはずなのに、なぜかどうしても息苦しくて、ぎゅっと目を瞑る。何も言葉にならない。疲労だろうか、徐々に、蝕まれていくように体に力が入りにくくなってゆく。無力感が襲ってくる。漂うように揺らぐ足を引きずって歩く。げほげほっと吐き出されるのは泡ばかり。
そんな時だった。ピリピリとした雰囲気を纏う触手の長いクラゲに出会ったのは。
どこからか警報音のような重低音が聴こえる。脊髄が拒絶している。明確に〝狙われたんだ〟と思った。直感がそう告げた。クラゲはじりじりと近づいてくる。でも足がすくんで動けない。
クラゲはその長いを触手を僕の腕に、肩に、首に、耳に這わせてきた。耳の中に入ってきて鼓膜を突き破ってきた。とんでもなく近くでごそごそ……という音が聞こえる。
〝@※#’*※“〟
それが言語かすら分からなかったが、何を言っているのかは理解できた。
「もう一度…そうたに会わせて…」
脳を弄ばれて、よくわからない液体が注入されている感覚がした。
液体を注入されて気持ちよくなって、視界がぼやけてくる。肩から下が脱力してしまって力が入らない。そっと目を閉じると、黒と赤と黄色のぼやけた同心円がちかちか現れた。そこで僕は宇宙のすべてを見た。瞬間、体がふわっと浮くような感覚がした。僕の心はすーっと軽くなって自然と幸せな気分になってきた。
細い触手が沢山巻き付いて僕をどこかへと運んでいく。電流のようなものを流されて僕は動けなくなった。全身が麻痺している。意識がどんどん朦朧としていく。
そして次に目が覚めた時。僕を覗き込んでいたのは。
想太だった。
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