【番外編】もう一つの未来、その後(前編)

 

 大人になれば、キラキラしたものが手に入ると思っていた。


 学生時代がいくらダメダメであろうとも、真っ当な大人になりさえすれば俺だってひとかどの男となれる。


 立場とか恋とか男としての自信とか、そういう自分を確立させるための輝きが手に入るのだと――学生時代終盤の俺は、そう根拠もなく信じていたのだ。


(まあ、手に入ったのは輝きどころかドブ沼の社畜生活だったんだけどな……)


 元社畜の――俺こと新浜心一郎は車のハンドルを操作しながらかつての最悪な日々を振り返って苦笑した。


 あの鬼畜な世界で苦痛に喘いでいた頃、俺の心は深い闇に覆われていた。

未来への希望どころか明日の笑顔すら得られず、暗く冷たい沼へと沈み続けているような絶望だけがあった。


 けれど、今は――


「わあ! 山が綺麗に見晴らせます! やっぱりお天気がいいと景色も輝いて見えますね!」


 助手席に座る絶世の美女――紫条院春華のはしゃいだ声が車内に響き、俺の心はそれだけで浮き立った。


(可愛すぎる……どんな女優でも敵わないほどに美人なのに、こんなにも無邪気で……ああもう、頭がクラクラする)


 彼女の名前は紫条院春華。

 高校時代のクラスメイトであり、現在は同じ職場の同僚である女性であるが――本来なら俺なんて声をかけることすら躊躇われる高嶺の花だ。


 だが、紆余曲折あった末に俺たちの間には一定の関係が築かれた。

 どれほどの関係かと言えば……頻繁にスマホでメッセージを交わし合い、よく一緒に食事に行ったりする間柄だ。


「ふふ、とっても気持ちいいです! 自然の中のドライブってこんなに心がほぐれるものなんですね!」


「ああ、俺も初めてきた場所だけど……本当に眺めがいいな」


 さも余裕があるように振る舞う俺だが、ハンドルを握る手は緊張で若干汗ばんでいた。何せ、車という密閉空間で紫条院さんが俺のすぐ隣に座っているのだ。


 チェックスカートと白いスリムセーターという秋らしい装いをした彼女はそのままファッション誌の表紙を飾れそうなほどに可愛くて、待ち合わせの時もその愛らしさにしばし呆然となってしまった。


 そんな可愛いの化身がすぐ隣に座っていて、子どものように楽しそうにしている。 ただそれだけで、女性に慣れていない俺の男心は激しくかき乱されてしまう。


(でも、やっぱり誘って良かったな……こうして一緒に野山を走るだけで心が豊かになっていく)


 紫条院さんと何度か一緒に食事している俺だが、いつまでも相手から誘わせては申し訳ないと思い立ち、先日からは自分からお誘いするようになった。


 そして今回は、思い切って郊外の自然豊かなところにあるカフェまでドライブしようと提案したのだが……紫条院さん予想以上に喜んでお誘いを受けてくれた。


 俺と過ごす休日を、心からの笑顔で『とっても楽しみです!』と言ってくれたのだ。


「この間も思ったけど……やっぱり新鮮だな」


「え? 何がですか?」


「その、さ……恥ずかしながら、助手席に女性を乗せるなんて紫条院さんが初めてなんだ。密かに憧れていたシチュエーションだから、何だか嬉しくてさ」


「そ、そうだったんですか!? そ、それはその……光栄です……」


 ふと感じた感慨を口にすると、紫条院さんは若干赤面しながらも嬉しそうに口元をほころばせた。


「恥ずかしながら今までそういうことに縁がなかったからなぁ。なんだか急に大人っぽいことをやってる気がする」 


「あはは、大人っぽいも何も新浜君は立派な大人じゃないですか。あんなにも自分を見失っていた私を、正しい方向に導いてくれたんですから」


「いやまあ、あの時は無我夢中だったと言うか……でも、そうだな……」


 本当は無我夢中だったどころか、あの時の自分が何故あそこまでの灼熱の意志を宿していたのかさっぱりなのだが、俺が以前の自分とは違うのは確かだった。


「ブラック企業に勤めていた時に比べると、自分でも確実に変わったとは思う。今となってはあの頃はあまりにも受け身すぎたっていうか……これからは本当に自分が望むもののために頑張ろうって、ようやくそう思えるようになったよ」


 そこで俺は、安全運転を妨げない程度にちらりと隣に座る紫条院さんを見た。


 俺にとっての青春の宝石。

 偶然によって再会し、新しい縁と絆を築けた女性。


 その綺麗な横顔を見るだけで、心に羽が生えたような浮き立ってしまう。


(俺が、本当に望むもの……か)


 家族との絆を再構築することや、心豊かに生きるために真っ当な職場へ転職することが望みかと言えばもちろんそうだった。


 だがそれらが叶った今、俺の心に残ったのは他の願いとは一線を画す熱量を持つ渇望だった。

 それを、俺はもう自覚してしまっている。


(うぅ、恋愛感情で頭がいっぱいになるなんて二十五年間生きてきて初めてだ……もういい大人なのに、子どもみたいに赤面しちまう……)


 あの時、俺は紫条院さんの苦しみを知り、迷い傷ついた慟哭を聞いた。

 そして俺もまた、紫条院さんがどれだけ素晴らしい存在なのかを心のままにまくしたてた。

 

 その後、紫条院さんと同じ職場に通い、プライベートでもたびたび同じ時間を共有し、彼女の色んな表情を見た。


 そして気がつけば、俺の想いは自分でもビビるほどに巨大かつ灼熱に育っており、隙あらば紫条院さんのことを考えている始末だった。


 その身を焦がしそうな熱が、陰キャな今の俺を激しく突き動かす。

 想いのままに今を走り出せと、心がしきりに叫んでいるのだ。


「その、さ……だから今日も紫条院さんを誘ったんだ。実は結構緊張したけど……とにかくそうしたかったからさ」


「……!」


 俺が心の熱のままに言葉を紡ぐと、紫条院さんは驚いた顔で微かに頬を赤らめた。

 

「こうやって、紫条院さんと一緒に休みを過ごしたかった。景色がいいって評判だったこの場所も……一緒に見たらもっと綺麗に感じるだろうと思ったからさ」


 頭の熱が冷めて素面に戻らぬ内に、俺は素直な気持ちを口にした。

 恥ずかしがって何も言わなかった過去の自分から、決別するように。


「来れて良かった。こんなにも景色を綺麗だと思ったのは……今日が初めてだよ」


 都会の喧噪から離れた自然の中には、見事な田園風景が広がっていた。

 風が吹くと稲穂が揺れて、黄金は波紋となって景色を彩る。

 

 彼方に見える山は鮮やかに色づいており、まるで絵画のようだった。

 彼方に紅葉がひらりと舞い落ちる様が、とても風情を感じさせる。


 だけどその美しさも、紫条院さんが一緒にいてくれるからこんなにも綺麗なのだと、俺は暗に告げていた。


「ええ……本当にそうです」


 隣に座る紫条院さんは、俺の遠回しな好意の言葉を受け止めてくれたのか、さっきよりもなお頬を朱に染めていた。


「新浜君と二人で見る景色だからこそ……こんなにも綺麗だと思えるんです」


 噛みしめるようなその言葉に、いよいよポーカーフェイスを装っていた俺もオーバーフローを起こして顔を真っ赤に染めてしまう。


 どことなく大人っぽい遠回しなやりとりを交わしつつも、こういう雰囲気に慣れていない自分たちを自覚し、俺たちはどちらともなく苦笑した。


 そうして、車は野山を進む。


 特別になるかもしれない今日という日に焦がれる想いを乗せて――晴れ渡った空の下を真っ直ぐと。



【作者より】

 皆様お久しぶりです。

 「陰キャだった俺の青春リベンジ」6巻(完結巻)が明日3月1日発売です!

 どうかお手にとって頂ければ幸いです!

  特典SSの4冊「香奈子と想いの深い春華」、「春華、病院のベッドでジタバタする」、「もう一つの未来で令嬢は恋患う」、「紫条院家の激震」はいずれも春華が恋愛脳全開になっている話ですので、是非読んでみてください。

 

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