第152話 問題はここからだ


「ああ……とても気持ちいいですね」

 

 青々と茂った木々が緑の香りを醸し出す中で、俺達は公園の南にある高台を目指して歩いていた。


 春華は思ったよりもリラックスしている様子で、池で鴨が水浴びしている様子や綺麗に育てられた花の香りを楽しんでいるようだった。


「しかし驚いたよ。俺が昨晩の事を謝りたいって連絡したら、逆に紫条院さんの方が謝りたいって言うんだからさ」

 

「それは……本当に失礼な態度だったと反省したんです。そういう時は、やっぱりちゃんと謝らないといけません」

 

「生真面目だなあ……本当に紫条院さんって感じだ」


「……そう、ですか? 私は高校の頃からそんな感じでしたか?」


「ああ、そうさ。真面目でちょっとぽやっとしてて、けど皆に優しい。そういう女の子だったよ」


「……そ、そうですか……」


 俺が正直な感想を述べると、春華は少し恥ずかしそうに顔を逸らした。

 ……む、いかん。ちょっと高校時代の春華を相手にするノリで正直に言いすぎたかもしれん。


 話しながら、俺達はこの海浜公園の最大の人気スポットである高台に足を踏み入れて、長い階段を昇っていく。


 次第に潮の香りが混じり始め、周囲から木々が消えていく。

 そして、長かった階段を上りきった先には――


「わぁ……!」


 その先に広がっていた景色に、春華は歓声を上げた。


 俺達の前に広がっているのは、果てのない蒼海だった。

 今日は天候にも恵まれており、燦々と輝く太陽に照らされた海原はキラキラと輝き見る者を圧倒する。


「綺麗、ですね……」


 まるで初めて海に連れていかれた子どものように、春華は憧憬と感嘆が入り交じった表情で海を見つめる。


 俺自身が体験した事だが、山や海といった雄大な自然は大人の心に響く。


 そのあまりにも巨大なスケールの美しさは、人間のちっぽけさを浮き彫りにすると同時に――俺達が抱える悩みもまた自然の前では小さな事だと癒やしてくれるのだ。


「……変ですね、私……見ようと思えばいつでも見られたはずの景色なのに……何だか泣きたいくらいに綺麗だと感じてしまいました」


「なら良かった。コンクリートジャングルで毎日疲れているだろうから、こういう景色を見たら少しは気持ちが落ち着くかと思ってのチョイスだったけど……そう言って貰えてホッとしたよ」


 アイデアの元は、二周目世界で海に行った経験だ。

 子どもの頃に比べて社会で疲労した大人は自然に癒やしを見出す――俺自身がそれをよく実感したのだ。


「ふふ……本当に気遣いが上手になりましたね新浜君は。あの頃を知っている身としては感慨深いです」


「なんかその言い方、しばらくぶりに会う親戚みたいだな……」


「あはは、でも、新浜君は本当にカッコよくなりましたよ。私が保証します」


 太陽の輝きと寄せる波音がそうさせたのか、大人の春華は相好を崩してこれまでで一番柔和な笑みを見せた。


 この笑みだけを見ていたら、彼女が抱える問題なんて何もないように見える。

 けれど――


「その……今日はまた会ってくれてありがとうな。昨日はいきなりお節介な事を言い出して悪かった」


「……いいえ、メッセージでも伝えた通り、謝るのは私です」


 俺が本題を切り出すと、春華の顔から快活な笑顔は薄れ――昨日も見たあの哀しそうな陰が顔に滲む。

 俺が嫌いなあの顔に、戻ってしまっていた。


「新浜君が真剣に私の事を想って強く言ってくれたのはわかっていました。それなのに私は反射的にバッサリと拒絶した上にあの場で席を立ってしまって……本当に礼儀知らずな行動でした」


 俺からすればそんなに謝られる事ではないのだが、春華は深々と俺に頭を下げる。

 こういう所は本当に春華っぽいが――


「けれどそれでも……仕事から離れるという新浜君の提案は受け入れられません」


「…………」


 頭を上げた春華は、さっきまでの柔和な表情が嘘のように陰のあるひどく冷たい顔をしており、交渉の余地はないとばかりに冷然と告げた。


「今日私が新浜君に直接会いたいと提案したのは、二つの理由があります。一つは顔を合わせてきちんと昨日の事を謝るべきだと思った事。そしてもう一つは、新浜君の提案は受け入れられないと改めて伝えるためです」


 それが本題とばかりに、春華はスラスラと言葉を紡ぐ。

 感情を込めずに、ただ淡々とした声で。


「新浜君は、本当に仕事で潰れる人を見てきたんでしょう。だからこそ、私の話を聞いて、ひどく心配してくれたのはわかります」


 春華は冷たい決意で覆われた瞳で俺を見ていた。

 好意も善意も要らないと、そう言わんばかりに。


「けれど、私は大丈夫ですし今の自分を変える気はありません。だから、新浜君も私なんかにこれ以上時間を割く必要はないと、顔を合わせてはっきり伝えたかったんです」


 言葉遣いこそ礼儀正しくて整然としていたが、それは昨日よりもさらに明確な拒絶の言葉だった。

 この話に関して、これ以上は話し合う余地がないという絶縁宣言だ。


「……そうか。言いたい事はわかったよ」


 俺の目的を真っ向から否定する宣言に、ショックを受けていないと言えば嘘になる。だが俺は務めて平静を装って静かに応じる。


(春華がそういうスタンスなのはわかっていた。問題は……ここからだ)


 俺は紫条院春華という人間をよく知っている。

 天然で、ド真面目で、自罰的で、柔らかい雰囲気を持つが意思は強い。


 だから、ここで焦って強く説得するなんてのは悪手。

 

 目指すべきは――春華にこう言わせている要因にヒビを入れて砕いてしまう事だ。

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