第147話 夢の中で君に会う(前編)
「くそ……! 失敗した、失敗した……!」
自宅である狭いアパートに帰ってきた俺は、布団に倒れ込んで激しい自己嫌悪に陥っていた。上手くやれなかった自分が不甲斐なさすぎて、ストレスから頭を激しくかきむしってしまう。
「あそこで頷いてくれれば、それだけで春華は救われたのに……! どうしてあそこまで苦しんでいて、仕事を辞めないなんて言うんだ!?」
やるせなさのままに布団を殴りつけ、俺はなおも説得の失敗を悔やむ。
なにせ、この一周目世界において俺と春華はそう何度も会える仲じゃない。
(ここからもう一度春華に会える機会を作るのは相当に厳しい……)
会って話して、核心を切り出した末に明確に拒絶されたのだ。
春華からしたらもう話す事はないだろうし、そんな状態で何度も会ってくれるとは思えない。
どう知恵を絞っても……後一回が限度だろう。
(あと一回……あと一回だけの接触で、春華の考えを変えて会社を辞めるように説得する……そんな事が本当に可能なのか?)
だが、それを成し遂げなければいよいよ春華の破滅は確定する。
タイムリープから始まった俺の青春リベンジは、考え得る最悪な形で結末を迎える事になる。
(大人の春華は運命通りに精神崩壊して……そして二週目世界にいる高校生の春華も、ずっとあのまま……)
そう考えただけで、全身の毛穴から冷汗が噴き出る。
頭の芯が激しくぼやけて、押し寄せる絶望に涙すら溢れそうになる。
「駄目……なのか……?」
結局のところ、俺は根が陰キャで意思力に乏しいどこにでもいる弱い男だ。
そんなその他大勢みたいな奴が、映画の主人公よろしく時に逆らってでも想い人を救うなんて、あまりに大それた望みだったのだろうか。
「春華……俺は……」
失意によって緊張の糸が切れたのか、身体が急に重くなっていく。
そして、疲労によって俺の意識は徐々に薄れていき――
深い眠りへと、落ちていった。
■■■
「あー……」
見慣れた教室の、いつも自分の席に俺は座っている。
夕暮れの教室は俺以外に誰もおらず、校舎は不気味なほどの静寂に包まれていた。
「夢か……」
夢だと認識できる夢――すわなち明晰夢の中で俺はぼんやりと呟いた。
そう、これはただの夢だ。
ただ昨日の宇宙空間のような殺風景極まるものとは違い、その光景はとても見慣れたものだった。
「はは……ご丁寧にシチュエーションに合わせた姿か」
つい先ほどまでスーツ姿で街を歩く大人だった俺だが、今は学生服に身を包んでおり見た目も十六歳の頃になっているようだった。
「しかしなんで学校なんだろうな。まさか、俺の逃避したい気持ちの表れか?」
自分の夢を読み解く考察は、的を得ているように思えた。
ああ、そうだ。俺はここに帰りたい。
二週目のこの青春溢れる学校へやってきて――俺自身と俺を取り巻く人達から悲しみが消えていくのが嬉しかった。
一周目世界ではただ息を潜めてこそこそと卒業を待つだけだったこの学校にこそ、今やかけがえのない様々な喜びの記憶が詰まっている。
(……その記憶の全部に春華がいる。俺は、どうしても彼女を救いたいのに……)
だが、このままでは春華も彼女を想う俺も破滅は免れない。
まるで奇跡の対価を取り立てにきたかのようなタイムリープの試練を、俺は未だに乗り越えられない。
絶望を覆さないといけないのにそれができない自分が不甲斐なさ過ぎて、胸の内を悲嘆とやるせなさだけが占めている。
「はは……それにしても全然人の気配がないな。我が夢ながら怖いっての」
誰も聞く者がいない感想をボソリと呟き――
「――そうですね。でもちょっと不思議な雰囲気で、私は嫌いじゃないです」
「え――」
振り返ってその姿を認め――俺の思考は真っ白になった。
何故なら、そこには俺が今最も会いたかった人がいたからだ。
シルクのように艶やかな長い髪、乳白色の肌に、宝石のような瞳――
天使と見紛う美貌に、清廉な心を合わせ持つ俺の想い人。
制服に身を包んだ高校生の春華が、そこに立っていた。
「……はる、か……? 春華……っ!」
「きゃ……!」
感情が暴走した俺は、恥も外聞もなく春華へと駆けだしてそのその細い身体を抱き締めた。
夢だというのに、少女の身体からは確かな体温が感じられる。
ただそれだけで、乾いた俺の心に潤いがもたらされていくのがわかった。
ああ、春華だ……!
例え一時の幻であろうとも……今俺の目の前にあの春華がいる……!」
「あ、あわわ……! し、心一郎君!? ど、どうしたんですか!?」
「どうしたもこうしたも、あるか……!」
俺はともすれば漏れそうになる嗚咽を堪えながら、力を込めて彼女を抱き締めた。
高校生の春華が倒れてから、俺はしつこく見舞いに行って彼女の生きながら死んだような顔を毎日見続けた。
これが夢なのはわかっているが――それでも、元気な春華が俺の側にいてくれる事が、俺を心一郎君と呼んでくれるのが胸を突き破る程に嬉しい。
そして、俺はしばしそのままに抱擁を続け――
「あ……もうやめちゃうんですね」
「…………悪い。つい勢いで抱き締めてた」
子どものように縋り付く俺を春華が微笑ましそうに見ているのに気付き、急速にこみ上げてきた羞恥心に従って俺は春華から身体を離す。
そんな俺を見て、春華はくすりと笑った。
「あはは、夢の中でも心一郎君は紳士的なんですね」
「いや、夢とはいえいきなり女の子に抱きつく奴は紳士的じゃないだろ……」
そんな、懐かしさすら感じるゆるいやりとりに、つい涙ぐんでしまう。
ああ、そうだ。俺はこれを取り戻したい。
この温かさを、夢でなく現実のものとして失われないようにしたいのだ。
「いいえ、ちょっとびっくりしましたけど、心一郎君なら全然嫌じゃないですよ。それよりも――」
にこやかにそう言うと、春華は不意に俺の首に腕を回してきた。
ふにゃふにゃと柔肌の感触と少女の甘い香りが俺を包み、夢とは思えないほどの生々しい体温までもが伝わってくる。
「は、春華……!?」
「心一郎君、なんだかとっても疲れていますよね?」
春華は優しく俺を抱擁したまま、その白魚のような手で俺の頭を撫で始めた。
まるで母親が子どもに愛情深くそうするように。
「いくら夢の中でも、心一郎君がそんな顔をしていたら放っておくことなんてできません。だから……せめてこうさせてください」
俺に温もりをもたらしながら優しい言葉をかけてくれる春華は、まさしく天使としか思えなかった。
そうして、天使の慈愛によって俺の心は深い安らぎがもたらされていく。
黒く濁った泥水じみた澱みが、澄んだ清流になっていくようだった。
(自分の夢に春華を登場させてハグしてもらったとか、あんまりリアルの本人には言えない事だけど……でもやっぱり癒やされる……)
「ふふ、自分からこんなことをしてしまうなんて私もちょっとはしたないかなと思いますけど……でも夢なんだからいいですよね」
「……ん?」
ふと見れば、春華は俺を腕の中に収めながらも頬を染めてめったに見せないイタズっ子のような笑みを浮かべていた。
「ふふー……実を言えば、最近ずっと心一郎君に触れてみたいって思っていたんですよ」
まるで誰もいない自室でそうするように、春華は頬を朱に染めながらとんでもない事を独白し始めた。
「最近、アルバイトとかで心一郎君と一緒の時間が増えましたけど……なんだかもっと女の子同士でするみたいに、ふざけて抱きついたりほっぺたとかもペタペタ触りたいなって……」
……なんかこの春華、俺の深層意識にある妙な願望が混じっているのか?
夢の登場人物とはいえ、なんか妙なんだが……。
「こ、こんな事を言ったら絶対に現実の心一郎君には嫌われてしまいますから夢の中だけのオフレコですよ!」
「あ、いや……現実でカミングアウトしても俺は嫌うどころか喜ぶぞ」
「そ、そうですか!? いくら夢の心一郎君でも私に都合良すぎる事を答えていないですか!?」
俺にとってはこの春華こそ夢の人物なのだが、その本人は俺を夢の人物と言う。
なんだか本当にややこしくて奇妙な状況だった。
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