第145話 春華とお酒を酌み交わす

 

 落ち着いた居酒屋の店内で、俺と大人の春華は向かい合って座っていた。

 スマホでさっと検索して最寄りにあった店だが、落ち着いた雰囲気がなかなかいい。


「ふふ、同級生同士で名刺交換をするなんて、なんだか変な感じですね」


「ああ、お互いに大人になったんだなって、不思議な気分になるな」


 二人で同じ席に着くと、俺達は自然と名刺を取り出すという社会人のクセを発揮してしまい、お互いに苦笑した。


 おかげで上手くお互いの緊張はほどけて、場の空気は思ったより柔らかいものとなっているのだが――


(しかし、春華の名刺……か)


 小さな紙片に印字されている会社名と部署名、そこに続く『紫条院 春華』という文字が、あの少女が完全に社会人になった証明であるかのように踊っている。


 高校生だったあの時から七年――否応なくその年月を感じてしまう。


 と、そんな事を考えていると居酒屋の店員さんが「お待たせしましたー」と配膳に来て、テーブルに料理と飲み物を広げてくれた。


「じゃあ……乾杯するか」


「ええ、新浜君もお仕事お疲れ様です」


 唐揚げ、だし巻き玉子、ワカメサラダ、つくねの照り焼きなどのいくつもの料理が並ぶテーブルの上で、俺達はグラスを軽く合わせて乾杯した。

 

(大人の春華とお酒を飲むなんて、なんか変な感じだな……)


 プライベートで女性と飲みに行った経験なんて皆無な俺は、やや緊張しながらひどく久しぶりのビールを呷った。


 口に広がる苦みとシュワシュワした喉越しは、しばらく触れていなかった大人の味だ。不思議な事に、心に余裕がなかった社畜時代と比べて今は味がよくわかるようになった気がする。


「ふぅ……美味しいです……」


 春華はカンパリオレンジに口をつけて満足気な表情を見せていた。

 透明なグラスにピンク色の唇が触れる様がなんとも扇情的で、改めて現在の春華の成熟した魅力を思い知る。


「紫条院さんは……普段から結構お酒を飲むのか?」


「ええ、恥ずかしながら社会人になってからはそれなりに飲むようになっちゃいましたね……」


 すでに三分の二ほど減ったグラスを手に、紫条院さんはやや自嘲的に言う。


「子どもの頃はどうして大人はあんなにもお酒が好きなのかわかりませんでしたけど……今は痛い程理解できます。お酒を飲むと、気分が少しだけ楽になるんですよね」


「…………」


 楽しむためではなく、ストレスを紛らわせる目的での飲酒が増えたと語る春華に、俺は胸の痛みを覚える。

 それは……あまり良い酒の飲み方ではない。

 

「そっか、飲む時は一人なのか? それとも友達や……その、彼氏とかと……?」


 その単語を発するのは胸を抉り取られるような苦悶を覚えたが、必要な情報を聞き出すために口から絞り出した。


 一周目世界において、俺は春華が最後に至るまでに歩んだ人生の詳細は知らない。


 だが……春華の美貌を考えれば、恋愛が活発になる大学時代や社会人生活においては数え切れないほどにアプローチがあっただろう。


「友達は……高校時代は全然だったので大学ではいっぱい作ろうと意気込んだんですが、散々でしたね。最初は上手くいきかけていたんですけど……」


「……あ、もしかして、男が沢山寄ってきたとか?」


「ええ、そうです。大学に入ってからもう、本当にいっぱい……とにかく沢山の男性から声をかけられました。口幅ったいですが……その人達曰く、私の容姿が飛び抜けているから口説かずにはいられなかったらしいです」


(なるほど、男に声をかけられまくるようになって、流石に自分の美人さについては自覚したのか)


 だが、語る春華の声に自分の美貌とモテ度を自慢するような響きはなく、むしろひどく億劫な記憶を語るような様子である。


「けれど、私は本当にお子様で……今に至るまで恋人を作った事がないんです」


「そう……なのか?」


 それは浅ましい独占欲を抱く俺にとっては歓喜すべき事だったが、普通はあり得ない事である。自分が多くの異性に恋愛感情を抱かれていると認識した時点で、高校時代にあった天然バリアはなくなっただろうし……。


「私に声をかけて来る人は、決まって異性から人気がある人です。スポーツマンだったり、顔立ちが整っていたり、ハイレベルな大学の人だったり……それは勿論長所です。けど……そういう人達は何故か誰もが自信に溢れすぎていて……」


「あー……」


 その構図はすぐに理解できた。

 春華は絶世の美人であり、恋愛の自由度が上がる年齢になれば高校時代とは比べものにならない程のアプローチが殺到しただろう。


 だが、美人すぎる社長令嬢であるからこそ、多くの男は気後れしてしまい、声をかけるのは自然とハイスペックでプライドが高い自信満々系の奴のみとなる。  


「それで、そういう奴らはむしろ紫条院さんの苦手なタイプだったと」


「あの人達には申し訳ありませんけど……はい。中には私がお付き合いを断ると激しく罵ってきたり掴みかかってくる人もいました。幸い、ウチの運転手さんに助けられて被害とかはなかったですけど……」


「うわぁ……そこまでしてくる奴もいたのか」


 自信のありすぎる陽キャ特有の暴走なんだろうが、キレる意味がわからん。

 フラれて傷ついた自分のプライドこそが何よりも大事なんだろうな……。


「そんな事が続いて……私は少し男性が苦手になってしまいました。そして、私の事が気に入らない大学の女子生徒からも『男を取っかえ引っかえしている悪い女』みたいな噂を流されて、友達も全然……」


「そ、そうか……それはまた、なんとも……」

 

 期待していたであろう大学デビューも、どうやら無残な結果に終わったらしい。

 この一周目世界では風見原や筆橋という友達もおらず、さぞ寂しい思いをしただろう。


「あれ、でも……男がちょっと苦手になっているのに、よく今日は俺の誘いに付いてきてくれたな」


 話の持っていき方を工夫はしたが、男である俺が食事に誘った事には変わりない。

 それこそ拒否反応が出そうなものだが……。


「それは……新浜君には驚く程に〝熱〟がなかったからです」


「〝熱〟……?」


「はい、私は男の人から数え切れないお誘いを受ける中で……その人が私に向ける熱っぽさの度合いがなんとなくわかるようになりました。恋愛感情とはちょっとだけ違う、ギラギラした気持ちのことです」


 春華が言っているのは、なんとなくわかる。

 おそらく天使の如き可憐な春華に向ける、男の所有欲や異性への欲がない交ぜになったものだろう。


 すなわち『好き』よりもなお色濃い『欲しい』の感情だ。


「私に声をかけてくる人は、その殆どが強い熱を向けてくる人でした。表面上の誘い方がどれだけ穏やかでも、それは隠しきれません。でも――」


 春華は、本当に不思議そうな表情で俺を見た。


「新浜君がさっき私を食事に誘ってくれた時は……顔にまるで熱っぽさがなくて、むしろ今にも泣いてしまいそうな強い心配の色しかありませんでした。まるで、お母様やお父様がそうしてくれる時みたいに」


「……そんな顔になってたか、俺」


 正直を言えば、俺はこの大人春華に見惚れているし、この居酒屋デートのような状況に一ミリもドキドキしていないと言ったら嘘になる。


 だが、今俺の頭を占めているのは、春華を救わなければ全てが終わるという激しい焦燥感だ。確かに色も熱もなりを潜めているだろう。


「どうして……そんなにも私を心配してくれるんですか? 昔クラスが一緒だっただけなのに」


「それは――」


 反射的に言ってしまいそうになる。

 それは、君が俺にとって世界で一番大切な女の子だからだと。

 

 高校生の春華を救うという目的ももちろんだが、今目の前にいる大人の君も救いたいのだと――そう口に出してしまいたかった。


「……以前にさ、職場で潰れてしまった人がいたんだ」


 真実を隠しつつも俺の想いを伝えるべく、俺は口を開いた。


「俺とはあまり接点がなかったけど、綺麗で優しい人だった。間違いなく幸せな人生を歩むべき人だったよ」


 俺の独白を、春華は固い面持ちで静かに聞いてくれていた。


「けど……その人は職場イジメで心を病んでしまって、一言も喋れない人形みたいな状態になってしまった。それが俺は未だにトラウマなんだ」


「……酷い話です」


 ああ、本当に酷い話だ。

 この話が、君にとっての予言になっちゃ駄目なんだよ。


「……その人にはどこにもはけ口がなかった。同僚や上司、もしくは友達か誰かに苦しみを吐き出していれば、その人はそこまでの状態にならなかったかもしれない」


 真面目な人ほど愚痴を口にせず黙々と日々の苦しみに立ち向かう。だがそれは、ダメージを軽減できずに延々と蓄積し続けるという事でもある。


「だから、俺は度を超えたストレスを抱えている人には敏感になったし、しつこいと思われてもお節介を焼きたい。久しぶりに会った元クラスメイトにズカズカと踏み込んでいるのは、それが理由だよ」


「……優しいんですね。新浜君は」


 俺がつい言葉に込めてしまった感情を感じ取ったのか、春華は俺の動機について納得してくれたようだった。


「まあ、俺自身がブラック企業勤めで、他人事じゃないってのもあるけどな」


「それは……さっきも言っていましたけど、どんな感じなんですか? 自分以外の職場は知らないから興味あります」


「はは、まあ酷いよ。まず残業代って概念がない。月に百時間残業しても全部サービス残業だ。休日の電話呼び出しも当たり前で、離職率が高いから引き継ぎもマニュアルもどこにもないなんてのもザラだ」


「それは……もう犯罪でしかないですね……」


 俺が自社(本当はもう辞めたが)の内情を語って見せると、春華は少し顔をひきつらせたが、まあ無理もない。パワハラや業務過多の面を語るのなら、弊社はブラック企業の中でもなかなかの強豪だろうからな。


「けどな、それ以上に辛かったのは……やっぱり人間だよ。人を人とも思わない人でなし共からの与えられる心の苦痛だった」


 俺の実感が入りまくった言葉に、春華はぴくりと反応した。


「先輩とか上司ってだけで、簡単に馬鹿、アホ、死ねのオンパレードだ! 酷い時は親も無能なんだろとか言い出す始末だし! ぶっちゃけ人間として心が死んでる奴ばっかだよ!」


「……! わかります! 本当に、信じられない程に酷い言葉が飛び交うんです! それもごく当たり前みたいに……!」


「だろう! 職場ってだけでどれだけ罵詈雑言を吐いても許されるのはおかしいよな! 大人なのに中身はガラの悪い学生と殆ど変わんないんだよこれが!」


「そうそう、そうなんです! もっと大人の世界って厳しくても理性的なものだと思っていました! けど、全然そんな事ありません!」


 俺の情念が滲み出てしまった愚痴に、春華は我が意を得たりとばかりに熱烈な反応を返してくれた。


 その顔に滲んでいた陰りは極めて薄まっており、声も弾んでいる。

 やはり、今までこんなふうに抱えるストレスを吐き出す機会がなかったのだろう。


(不謹慎かもしれないけど……俺も凄く楽しいな……)


 大人になってからずっと俺を苦しめてきた社会の闇。

 それを意中の女性に愚痴って、共感されて、それを肴に酒を飲んで――というループがとても心地良い。


(俺も……過労死する前に春華と再会してこんな話ができていたら……)


 そうすれば……タイムリープという奇跡に頼るまでもなく俺は破滅を回避できたのかもしれない。


 そんな事を夢想しながら――俺と大人の春華は職場への不平不満で盛り上がりつつ、酒の席の空気は中々に温まりつつあった。

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