第144話 儚げな美女を言葉巧みに連れ出すミッション
「…………新浜、君?」
「え……」
俺の事を……憶えている……?
二周目世界ならともかく、一周目世界ではほんの微かにしか接点がなかったボソボソ声の陰キャ男子を?
「俺の事、わかるのか……?」
「ええ、もちろんです。一緒に図書委員をやっていた時に……おすすめのライトノベルを教えてもらいましたね」
俺にとって最も美しい思い出の時を、春華は懐かしむように口にする。
「最近はめっきり読めてませんけど……あの頃はかなりハマったので、きっかけをくれた新浜君には感謝していたんですよ」
そう言って、春華は静かに微笑んだ。
それは高校生の時の快活な笑顔ではなく、どこか憂いを湛えた笑みだったが――
(憶えていて……くれたんだな……)
俺は思わず涙ぐんでしまいそうになった。
記憶のフォトフレームに飾ってあるあの大切な思い出を、俺だけじゃなくて春華もまた憶えていてくれた。
その事実は、あの灰色の青春においての何よりの救いだった。
「その……さっきは申し訳ありませんでした。知らない人が誘ってきたと思って凄く素っ気ない対応をしてしまって……本当にお久しぶりです」
「あ、いや、それは仕方ないって! つい〝偶然〟見かけて声をかけちゃったけど、こんな夜に男から声をかけられたら警戒して当たり前だし!」
路上で声をかける以外に方法がなかったとはいえ、悲鳴を上げられても仕方がないシチュエーションだったのは自覚している。
あと、当然ながら偶然は真っ赤な嘘である。
「ふふ……なんだか明るくなりましたね新浜君。でも、焦った時の顔はあの頃のままです」
あの頃とはまたひと味違う大人の美貌で、春華はくすりと笑う。
「それにしても本当に偶然ですね……新浜君はこの辺に勤めているんですか?」
「ああ、この近くじゃないけど同じ市内だな。ただまあ、ちょっと酷いとこでさ」
今日まさにそこを辞めた事はあえて口にせず、俺はフッと自嘲気味な笑みを挟んで続けた。
「恥ずかしながら結構なブラック企業なんだ。それも俺って上司に嫌われてててさ、わざと仕事間際に仕事を押しつけられたり、人格を否定するような事を言われまくったりで毎日げっそりだ」
「…………」
そう告げると、春華はぴくりと大きな反応を示した。
その理由は想像するまでもない。
春華は俺が今述べたような事で日夜苦しめられているのだから。
「だからさ……わかるんだよ紫条院さん。今、仕事でかなり酷い目に遭っているんだろ?」
「……っ!?」
声のトーンを落として真剣に問いかける俺に、春華は大きく息を飲んだ。
「身体も色々とおかしくなっているんじゃないか? 座っているだけで息苦しくなったり、疲れているはずなのに全然寝れなかったり……」
「え……ど、どうして……!?」
「職場で疲れすぎている人を散々見てきたから、顔色を見れば大体どれくらいマズいのかわかるんだよ。今日や昨日だけが辛かったんじゃない。辛い事が日常化しているだろ」
もちろん、俺が自信満々に断言できるのは春華の身に起こった事をつぶさに知っているからだ。
だが、そうでなかったとしても俺は春華が纏う陰鬱な空気からおおよそを察する事ができただろう。
彼女の顔に滲む悲痛は、俺のよく知る精神を切り刻まれ続けている者のそれでしかないのだから。
(さて、ここからだな――)
俺は緊張に汗を滲ませながらも、まっすぐに大人の春華を見つめた。
今この時だけは、虚実を織り交ぜて彼女と縁を結ばないとならない。
ここで『昔のクラスメイト』のまま別れてしまえば、もうその先はないのだ。
「なあ、紫条院さん。本当に突然で申し訳ないけど……これから俺とメシに付き合ってくれないか?」
「えっ!?」
さらりと言い放った俺に、春華は目を見開いて驚いた。
それは当然だろう。学生の頃ならまだしも、お互いが大人になった今ではこのお誘いは相当に踏み込んでいる。
「……つい懐かしくて声をかけてしまったけど、別に俺は立ち入った事を言う気はなかった。元気そうな紫条院さんと会えれば、あの頃の事を少しだけ話してさよならするつもりだったさ」
これは嘘だ。俺は春華の現状を知っていた。
だけど……もしここが俺の知る未来ではなく春華が幸せに暮らしている世界だったのであれば、最終的に俺はその幸福を尊重しただろう。
「でも……今の紫条院さんを見たらちょっとそのままにはできない。そう思ってしまう位に、酷い顔をしている」
「え……」
「さっきも言ったけど、俺は同じ表情をした奴が何人もおかしくなってしまったのを見た。どいつもこいつも……末路は悲惨だったよ」
これは心からの本音だ。
俺はどうあっても、陰鬱な闇に囚われたこの大人の春華を救いたい。このまま破滅の未来に彼女が浚われてしまうのは、絶対に許せない……!
「それに……紫条院さんは自分一人で抱え込んでいるんじゃないのか? 家族にも誰にも真剣に自分の苦しみを伝えていないだろ」
「……っ」
図星を衝かれた春華が息を飲むが、これも俺としてはすでに知り得ていた事だ。
もし春華が自分の苦しみを家族に伝えていたのなら――あの春華を想う両親が娘をそのままにしておくはずがないのだから。
「俺はたまたま道端で再会したクラスメイトで、明日には他人に戻っている奴だよ。だから――何を吐き出してもいい。お節介なのは重々わかっているけど、今の紫条院さんには、それが必要だと思う」
「新浜、君……」
春華は、呆然と俺の名前を呼んだ。
その声音には、俺という存在の認識に変化があったような響きが感じられた。
「だから、頼む紫条院さん。あの頃のよしみで、どうか今日だけは俺に付き合ってくれないか?」
暗闇に満ちた夜の路上で、俺は街灯に照らされながら極めて真剣にお願いする。
言葉を重ねてはみたが……どうあっても俺達は大人の異性で、俺が言っている事はナンパの手管と思われても仕方がない。はたして春華がどう反応するか――
「…………して、そんな顔……」
「……?」
警戒と拒絶こそを最も心配していた俺だったが、春華が漏らした声にはどちらでもないひどく不思議そうな響きがこもっていた。
な、なんだ? 春華は結局、今どんな気持ちを抱いてるんだ?
「…………では、お言葉に甘えさせて頂きます」
「え――」
それは願った通りの返答ではあったが、意外でもあった。
こうも早くその言葉を引き出せるなんて―――
「私は……もう少し新浜君と話してみたくなりました」
大人の春華の顔に浮かんだ微笑みは、やはり見惚れるほどに美しい。
だが同時に――拭いきれぬ陰が差したような、ひどく儚げなものだった。
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