第117話 お忍び社長の業務調査
私こと紫条院時宗は、固い面持ちでその店の前に立っていた。
今し方社用車のドアからその場に降り立った私は、サングラス、ポーラーハット、薄手のトレンチコートという出で立ちであり、普段のビジネススーツ姿ではない。
つまるところ簡易な変装だ。私にとってあらゆる意味で問題となったこの店――『ブックカフェ楽日』への視察を慣行するには必要な準備だったのだ。
「あの、社長……本当にお一人でよかったのですか? わざわざそんなお忍びのような真似をせずとも、視察なら他の者にまかせれば……」
私を送ってここまで社用車を運転してくれた若い社員がおずおずと尋ねてくる。
確かに新店舗の調査なんて部下に命じれば事足りるのに、社長が直接一人でお忍びでやるなんて普通はまずありえない。
だが――
「いいや、これは私がやるべきことなのだよ。社内にはまだ認識が浅い者も多いが、この店やその他の新事業の成功如何によって我が社の未来は大きく変動する……言うならば社運がかかっている」
これは偽りのない私の本音だった。
全国規模の書店会社となった私の会社だが、まず間違いなくこれからのこの業種は衰退の一途を辿る。
生き残るためには従来通りの事をしていては駄目で、その改革の重要な一歩がこの店のような新しいビジネスの開拓なのだ。
「その現場調査となれば、社の舵取りをする人物がありのままの状態を見なければならない。そのための私であり、そのための変装だ。まあ、少々コミカルな出で立ちなのは否めんがな」
「しゃ、社長……この新事業にそこまでの熱意を持っていらっしゃったんですね。わかりました。では、連絡頂ければすぐにお迎えに上がりますのでゆっくり調査されてください」
言って、若手社員は車の窓を閉めると本社へと車を走らせていった。
一人になった私は、改めて問題の店へと向き直る。
(そう、これは歴とした視察という仕事だ。……まあ、ちょっと別の目的もないと言ったら嘘になるがな!)
さっき新事業の重要性について述べた事は本心であり、この店の視察も本来近々行う予定だったのだ。
だが、急遽その予定を前倒しにしたのは、他ならぬ我が最愛の娘がこの店でアルバイトを始めたからである。
(春華……)
娘がアルバイトをしてみたいと言った時、私はつい反射的に反対してしまった。
あまりにも純粋な春華が、大人に交じって働くなんてあまりにも心配だったからだ。
だが、そんな私に対して、春華は予想を超える反応を見せた。
『お父様、私だってもうそろそろ大人になって自分の力で生きていく事になります。その時が来たらどちらにせよ何かしらの仕事はしないといけません』
その場にいた妻の秋子や家政婦の冬泉君が驚く程に、春華の物言いは堂々としたものだった。
『なら、今の内に少しでも職場というものに慣れておくのがそんなにいけない事ですか? それともお父様は、私が紫条院家のお金をあてにして一生この家に引きこもるように暮らしていけばいいと言うんですか?』
しっかりとした論法と想いを交えた言葉に、私は反論の術を持たなかった。
そもそも私としても、春華を永遠にこの家に縛り付けておこうなどとは毛頭思っていない。よく過保護だと揶揄される私だが、娘には家に囚われずに自分の人生を掴みに行って欲しいのだ。
そんな訳で、最終的にアルバイトの許可は出した訳だが――
(春華……おお、春華よ……! お前の成長は嬉しいがお父さんは心配なんだよ! お前がバイトに行く日はいつも落ち着かなさすぎて、メシも喉を通らんのだ……!)
当初、私は春華のバイト先が自社の一部である事を利用し、店長に『特別扱いはいらないが酷い事がないように目を配って欲しい』とお願いするつもりだった。
だが、そんな私の考えは先読みされていたようで、春華は強く念を押してきた。
『お父様。アルバイト先に何か言っておくとか、そういう権力を使った真似はやめてくださいね? あと、心配してくれるのは嬉しいですけど、間違っても店に様子を見に来たりしないでください。いくらなんでも恥ずかしすぎます!』
かくして私の動きは完全に牽制されてしまい、それからは悶々とした日々が続いていた。
娘の自立心は素晴らしい。ここ数ヶ月であの娘は急成長している。
だが……春華のあの美貌ではナンパなどのトラブルは高確率で発生する。
それを上手くいなすスキルを養う機会とも言えるが、やはりどう理屈をつけても心配で心配でたまらない。
(バイト先に様子を見に来たりなんかしないとは言った……言ったがこれは純然たる視察だ春華! 社長として仕方なく新事業を担う店をじっくり見に来たんだ! 何らやましい事はないぞ!)
娘がバイトから帰ってきた時の表情を見るに、今のところ上手くやっているようだ。だが、そろそろ心配が過ぎて私の激痩せがヤバい。
それを解消すべく、娘が健やかに勤務できているかどうかを確認し、さらに社長として視察もこなす。それが私の出した最適解である。
(さて……では行くぞ!)
自分の目的を再認識した私は、色んな意味で確かめないといけない事が多い店舗の自動ドアを通り、店内へと足を踏み入れた。
(ふむ、思ったより客入りがいいように見えるな)
店内の様子を見て、私は微かに頬を緩めた。
報告では目標数から数段下のラインを保つのが精一杯とあったが、今日が日曜日だという事を加味しても、この客数はなかなかだ。
主な客層は高齢者や二十代~四十代女性だとも聞いていたが、若い男性客もかなり多い。その点は特に意外だ。
(……む、春華の姿はないな。今日は勤務日のはずだが書店スペースの方か? まあいい。とりあえず一通り店のサービスを体験してみるとするか)
カウンターに赴いてコーヒーを注文すると、大学生とおぼしき男性店員はすぐに注文の品を提供してくれた。
しばし観察していたが、重要な役割を果たすカウンター内のスタッフは全員がバイトながらもよくやっているように見える。
その後、適当なビジネス雑誌を書店スペースから借りて席へと着席した。
一息ついたところで、じっくりと店の中を観察し始める。
(テーブルの上に置きっぱなしの本などが見当たらないという事は、客にマナーがきちんと浸透しているようだな。そして、やはり女性はデザートドリンクやスイーツが殆どで、男性はシンプルなコーヒーが多いか。ふむ、予想より忙しそうな環境だがバイト君達はよく回して――)
目に飛び込んでくるありのままの情報をチェックし、正しく現状を把握する。
流石に細かい部分は後で調べないとならないが、経営状況というのは店を一目見ればおおむね理解できるものだ。
(ふむ、まあパッと見である程度内情は把握できたな。後で店長代理の三島君ともじっくり話す必要があるが、とりあえずはしばらく客としてこの店のありのままを味わせて――むっ!?)
店内観察を続けていると、カウンター内に見慣れた姿を見つけた。
長く美しい髪を翻してバックヤードから現れたのは、間違いなく娘の春華だった。
どうやら昼の時間に突入するにあたってカウンター内の業務を手伝いに来たようで、慣れた様子で業務用ドリップマシンを操作し始める。
(お、おお……春華が、あの春華が本物の職場でしっかりと仕事をしている……)
やはりまだバイトには慣れていないようで、春華の手つきは決して熟達しているとは言い難い。
だが、それでもエプロンに身を包んだ娘は懸命に自分の仕事を果たしていた。
その表情に暗澹たる気持ちや過度のストレスは見受けられず、むしろ充実感が感じられる。周囲の先輩アルバイト達ともちゃんとコミュニケーションが取れているようで、きちんと業務的な会話が出来ていた。
(ふふ……いつまでも子どもと思っていたあの子がな。月日が経つのは早いものだ……)
しんみりとした気持ちになりながら、私はコーヒーを啜った。
さし当たり、春華がバイト先で強いストレスを感じているという様子はない。その最重要事項を確認して私はホッと一息を吐き――
(…………ん? んんん?)
そこで、店員の制服を着た高校生ほどの少年が、カウンター越しに春華へ何事か話しかけたいるのが見えた。
すると、驚くべき事に春華はぱぁっと心が弾むような表情を見せた。あまりにも親しげで嬉しそうな様子であり、明らかに他の店員への反応と異なる。
そして――私はその少年バイトにとても見覚えがあった。
(なあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? に、新浜少年!? な、なんで貴様がここにいるうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!?)
娘の職場に突如現れたある意味最も危険な存在を目の当たりにし、私は胸中で叫んだ。
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近況ノートに書いた通り作品の存続が怪しいので、1~3巻の内お手持ちじゃない巻を購入して頂ければ幸いです……!
近況ノート↓
https://kakuyomu.jp/users/keinoYuzi/news/16817139558998592505#comment-16817330647515275530
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