第110話 ホワイトな職場と予期せぬエンカウント
「さて、店長室は……っと」
土曜日の昼からバイトに入っている俺は、書類の束を抱えてブックカフェ奥にあるオフィス区域の廊下を歩いていた。
ここは俺達バイトではなく正社員たちが事務仕事やら書店部分のバックヤードとして使われているスペースである。
そんな場所を俺が歩いているのは、さきほど正社員さんたちから書類の束を預かったからだ。
これを店長代理の三島さんの部屋に持っていくという、いかにもバイトらしい雑用を命じられたという訳である。
(でも、正社員の人達も色々と苦労してそうな雰囲気だったな……やっぱり売上げが下がっているのが新事業のスタッフとして心苦しいんだろうな)
ただでさえこの店は本屋がカフェ業に手を出すというテスト店な上に、どうやらカフェ業コンサルタントも兼ねて外部から呼んだ店長が長期入院するという不運に見舞われたらしい。
さらにバイトの大量離職という泣きっ面に蜂な事態により、企画力・サービス力の低下が発生してこの店の売上げは以前よりも落ちた。
それをなんとかしようと頑張っているようだが、今のところ現状維持よりちょっとマイナスを保つのが精一杯らしい。それらの問題に取り組む店長代理の三島さんの負担は相当なものだろう。
「失礼します。バイトの新浜ですけど……三島さん?」
ノックしても返事がない事を妙に思ったが、キーボードを叩く音はしっかり聞こえていたので、やや躊躇いながらも俺はゆっくりとドアを開けて入室する。
そしてそこには、やはり机に向かってひたすらにタイピングしている店長代理の姿があるのだが――
(うわぁ……)
一見地味だが、普通に着飾れば街で周囲の男性の視線を集めそうなメガネ美人は死んだ魚のような目でただひたすらに手を動かしていた。
クリーニングの機会が少なくなっている服や、手入れが完全ではない髪などがここ最近の忙しさを物語っており、注意力が散漫になっているのかすぐそばに立っている俺にも気付いている様子がない。
「あの……三島さ……」
「ビール……」
「へ?」
虚空に向かって前触れもなしに呟かれた単語に、俺は目を瞬かせてしまう。
「ハイボール……梅チューハイ……ブリカマ焼き……モツ煮……エビマヨ……アン肝……うふふ……エビのアヒージョはオイルまで飲んじゃう……」
(お、おおう……渇望が口から漏れてしまっていらっしゃる……)
疲労感マシマシの顔で微かにニヤリと口の端を広げて呟く様は、不気味ながらも大人経験者としてはなんとも痛ましい。
お酒もゆっくり飲めてないんだろうなあぁ……。
「うへへ……アサリのバター焼きは冷酒でキュッとしてぇ……塩サラミでウイスキーのロックをガッポガッポ……シメに豚ヤサイラーメンのアブラマシマシニンニクメガトン増しで――へ?」
薄笑いを浮かべながらわかりやすい欲望を唱えていた三島さんだったが、その虚ろだった瞳が俺を視界に収めたままピタリと止まった。
どうやらようやく俺の存在を認識してくれたようだ。
「ちょっ!? え、あ、に、新浜君!? い、いいいい、いつからそこに!?」
「いや、ついさっきからですが……」
気の毒なほどに慌てふためく上司に、俺は申し訳ない気持ちで言葉を返した。
そこまで狼狽しなくても……。
「い、今の聞いてた? 私の心がオアシスを求める呟きを全部聞いちゃってたの!?」
「その……まあ、はい」
「いやああああああああああああっ!?」
メガネの上司はカップ麺を流しにぶちまけた時のように悲痛な叫びを上げ、顔を手で覆った。
俺としてはさほど恥ずかしいことではないと思うが……どうやらこの人は思ったより女性らしい人なのかもしれない。
「う、うう……最悪……これで明日にはバイトたちの間で『あのアラサー店長ってば不気味に笑いながら延々と酒と塩っ辛いツマミのメニューをブツブツ言ってたらしいぜ? アル中のおっさんかよギャハハ!』って噂が回っちゃう……!」
「んな噂流しませんって!? というかこれまでいたバイトたちはどんだけ心ない奴らだったんですか!?」
疲労でちょっとテンションがおかしくなっているのか、さっきから三島さんの情緒がちょっと不安定である。
一応職場の方針もあり残業は常識的な範囲で収まっているらしいが……それでも年若い身で店長をやる心労はどうしても蓄積してしまうのだろう。
「だ、だって高校生って何でもネタにしてアホみたいに盛り上がったりするじゃない! しばらく前にも友達にウケるためとか言ってコーヒー豆の入った袋の上に寝そべって写メ撮ってた子とかいたし!」
「俺にそんなアホなノリはありませんって! あと、今後その馬鹿と同じようなことをやる奴がいたら即クビにしたほうがいいですよ!? これはもう本当にマジで!」
今がガラケー時代で良かった……。
これがスマホ時代だったら写真をSNS投稿されて大炎上になり、この店はガチで閉店になっていたかもしれない。
「そもそも、好きなものに救いを求めるのは全然恥ずかしい事じゃないですよ」
俺は純粋に労りの気持ちだけをこめてゆっくりと言った。
「辛い仕事の中にいる時こそ、身近にある生きる意味……温泉に浸かって一杯とか、ポテチをかじりながらの動画三昧とかを強く意識して、心に希望っていうガソリンを与えるのは何より重要なんですから。それさえ頭に浮かんでこなくなったら、もうそれは人として壊れかけている証拠です」
「いやその……言ってる事はわかるんだけど、君ってなんでそう陰のある表情で毎回謎の重苦しい説得力を醸し出すの……??」
疲れた社会人を労りたい気持ちが溢れて、つい子どもらしくない物言いをしてしまった俺に三島さんが困惑顔でツッコんだ。
答えとしては『貴女より年上だった時期があるからですよハハハ』なのだが、当然ながらそんな事を口にできるはずもない。
「ふぅ……まあ、確かにちょっと慌てすぎたわね。また店長代理としての威厳が下がっちゃうかと思ってあたふたしちゃったわ」
ようやく普段の調子に落ち着いた三島さんは、俺が持ってきた書類を受け取ると「はい、恥ずかしいとこを見せたお詫びよ」と部屋に設置してある冷蔵庫から缶ジュースを俺に手渡した。
そして、三島さん自身も、事務椅子に深くもたれながら缶コーヒーのプルタブを開けていた。どうやら自らの疲労を自覚したようで、少し休憩するらしい。
「ありがとうございます。その、俺みたいなバイトが心配するのはおこがましいかもしれませんが……三島さんちょっと疲れすぎじゃないですか?」
過労死という人生の意味を考えざるをえない死に方をした身としては、何だかんだで真面目な彼女はつい心配してしまう。
「ま、大丈夫よ。考えることが多いのが辛いけど、休みは普通に取ってるしね。最近は君っていうやたらと何でもこなせる子も入ったし……。どう? もう勤務して一週間経つけど、この職場の感想は?」
「この店の感想……ですか」
そう問われたら、自然と心に浮かんでくる言葉がある。
「一言で言うなら……光ですね」
「は? ひか……?」
俺の素直な感想がよほど意味不明だったのか、三島さんは目を丸くした。
だがそれ以上に俺の想いを的確に表す言葉はない。
「まず物理的に明るいんです。日光が店外から燦々と入ってきて、薄暗い陰気な感じがまるでない。しかも店内には本やコーヒーを楽しむ穏やかで優しい雰囲気……なんというか人間の善な感じが満ちています」
この職場には醜悪な闇を殆ど感じない。
品性下劣な怒鳴り事も、悪意と嘲笑による人格否定もない。
叱責にもちゃんとした理由があり人間としての常識と品性が大事にされている。
正社員の人もバイトを使い潰す前提の消耗品として扱わないし、人格への尊重が存在する。
知性のない怒鳴り声も、悪意に満ちた人格否定も、陰湿な陰口も、今のところ俺は耳にしていない。
客の笑顔と、店員の奮闘と助け合い、コーヒーとスイーツの落ち着く香り。
前世の職場が闇ならこのブックカフェは光、あそこを生ゴミの掃きだめとすればここは春風のそよぐ花畑だ。
「正社員のスタッフさん達もバイトも……とにかくまともなんです。普通の事を言えば常識的に答えてくれますし、その日の気分でキレたり、息をするように他人を貶めたりしません。こんな環境もあるんだなって……もう、俺は……本当に嬉しくて……うう……」
「え!? な、なななんで泣いているの!? ちょ、勘弁してよ! まるで私が泣かせたみたいじゃない!?」
焦がれ続けたホワイトな職場が本当に実在したという感動に、俺はつい目頭を熱くしてしまっていた。
前世のあの職場で涙なんて流そうものなら、あのクソ上司たちは揃って激昂した。彼らの中では涙というものは根性無しが流すものであり、甘ったれで怠惰で、仕事を舐めている証拠だと言うのだ。
それに比べて目の前の女性店長は、こうしてバイトの涙程度を心配して慌てふためいてくれている。これだけでも今自分がいかに恵まれた環境に身を置いているのかわかろうというものだ。
「いや、すみません。まあともかく、この職場は忙しくはありますが、ホワイトな部分が素晴らしいと言いたかったんです。流石時宗さんの会社だなと」
「は? トキムネって……ウチの社長? 何よその親戚のおじさんみたいなフレンドリーな呼び方は」
「ああ、それは――」
『新浜ー! お前どこいるんだ!? レジがエラー起こしてどうすりゃいいのかわからんから戻ってきてくれー!』
答えかけたとき、店舗の方から同じシフト時間の先輩がヘルプを求める声が耳に届いた。
ふと時計を見ればもう午後過ぎでありカフェにお客さんが増える時間帯である。
この部屋に留まっていた時間は十分くらいだが、そろそろ戻らないとまずそうだ。
「現場でもうすっかり頼りにされてるわね……適当に手を抜いて君こそ潰れないように気をつけなさいよ?」
「はは、まあ気をつけますよ。それじゃ失礼します!」
三島さんへ会釈し、俺はカフェの現場へ戻るべく店長室から早足で立ち去った。
誰かに呼び出されても恐怖で胃がきゅっとしない――ただその一点だけとってもこの職場は素晴らしいと俺は切に感じていた。
「おお、レジ直った! サンキューな新浜!」
「いやまあ、エラーコードを見て取説通りに対処しただけです」
思ったより簡単な案件だったトラブルを解決すると、レジカウンター内で長身茶髪の先輩――高鳥さんが大袈裟に礼を述べた。
「いや、忙しいこの時間にいきなりレジが止まってパニックになっちまってな……取説を見るっていう当たり前の事を思いつかなかったわ」
「わかります。自分のキャパが溢れそうな時にどうしたらいいかわからないトラブルがあると頭真っ白になりますよね」
「お客に急かされるとどうしてもなあ……っと、無駄話してる場合じゃなかったわ! 悪いけどこの三色マカロンパフェを五番テーブルに頼む!」
「ええ、了解です!」
このカフェは基本的にフードもドリンクもカウンターで渡す方式だが、調理に時間がかかるものについては配膳の必要がある。
カウンター奥のキッチンからはすでに三個のパフェがトレイに乗せられており、俺はそれを手に該当のテーブルへと向かう。
(ふう、まあなんだかんだ言ってこのバイトも大分慣れてきたな。いい人ばかりで本当に良かった……)
前世の死因である職場という場所に対して少なからず忌避感はあったが、それでもこうもスムーズに馴染めているのはホワイトな意識を持つ店長やスタッフ達のおかげに他ならない。
(かなりよくしてもらっているし、三島店長の頭を悩ませているこの店の売上げ低下とかも何とかしてあげたいけど……まあ俺一人でどうにかなる話でもないわな)
俺は単なる元社畜であり、普通の高校生バイトよりかはマシなくらいの能力があるくらいだ。
だから大それたことは何もできないが……だがせめて、自分にできる範囲でこの店の助けになっていこうと、そう思えた。
まあ、それはともかく今は目の前の仕事を片付けよう。
「お待たせしました! こちら三色マカロンパフェ三つになりま――へ?」
「あ、はい! ありがとうございま――え?」
俺がとびっきりの店員スマイルでパフェを運んだ先のテーブルには、とても見慣れた少女がいた。
大和撫子な黒髪美少女で、最近ようやくお互いの名前を呼び合う関係にまで到達した俺にとって世界で一番大切な女の子が。
「は、春華!? ど、どうしてここに!?」
予期せぬ知り合いとの遭遇に、俺は上ずった声を上げてしまった。
【作者より】
皆様の応援のおかげで「陰キャだった俺の青春リベンジ 天使すぎるあの娘と歩むReライフ」(スニーカー文庫)書籍版3巻の刊行が決定しました!
ついては現在書籍化作業中につき、大変申し訳ないのですがWEB版の更新がまたもペースダウンしてしまっております。
たくさんの読者の方に見て頂いている事を考えると心苦しいですが、どうかご承知おきください。
……今年中に完結できたらいいなあ。
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