第73話 お泊まりしていいですか?
私は紫条院秋子。
最近娘と仲が良い男の子が現れて、とても微笑ましく思っている一人の母親だ。
いつもぽやぽやしていると言われがちな私だけど、家政婦の冬泉さんからの報告を受けたこの時ばかりは夫と一緒に顔を青くしていた。
「え!? まだ春華は帰ってないのぉ!?」
「な、なんだと!? もうバスも止まっているぞ!?」
今日の雨はちょっと異常で、暗雲に覆われた空から降り注ぐ滝のような雨で窓から見える外はすこぶる視界が悪かった。
冬泉さんが言うには春華はこんな日にうっかり出かけてしまい、まだ帰ってきていないらしい。
「それは……さすがにちょっと心配ねぇ……」
社長である夫の秘書のような役割を担っている私は、早めに帰ってきた時宗さんと一緒に持ち帰った仕事をさっきまで書斎で片付けていたのだけど……難しい書類との格闘に集中していて、リビングに戻った今この時まで雨の激しさに気付いていなかったのだ。
「す、すみません! 今日はずっと地下倉庫で掃除をしていて、お嬢様が帰っていないことに気付くのが遅れました……!」
冬泉さんが半泣きになりながら何度も頭を下げる。
確かに冬泉さんには春華に気を配ることもお願いしているけど、この広すぎる屋敷の中だとそういうこともある。
「あ、ああああ春華……! い、いかん! こうしている間にもあの子が雨に打たれて震えているやもしれん! いや、それどころかこの視界が最悪な状況だと川に転落したり交通事故に遭っている可能性も……! うおおおおおおおおお! 今行くぞ娘よおおおおお!」
「もう、落ち着きなさいって時宗さん! 会社にいる時はクールなのにどうしてそう娘が絡むと知能指数が下がっちゃうの!」
今にも飛び出して行きそうな夫の肩をガッチリ掴んで引き留める。
まったく! こういう時に男親が冷静にならなくてどうするの!
「こういう時は慌てずにまず携帯に電話を……!?」
手に取った携帯電話に娘の番号をコールしようとしたまさにその時、着信メロディが鳴りだして、そのモニターに『春華』という名前が表示される。
「はい、もしもし!」
『あ、春華ですお母様! 心配かけてすみません!』
「もう本当に心配したのよ! でも何事もないようでよかったわぁ!」
その普段通りの声からして特にトラブルに巻き込まれている様子はなく、私は心からほっとする。
「ああ、お嬢様、良かった……」
「ふう、どうやら大事ないようだな。まったく心配させおって」
私の様子から問題なさそうだと見た冬泉さんが胸を撫で下ろし、時宗さんはさっきまであれほど慌てふためいていたくせに『やれやれ仕方のない奴だ』みたいなクール顔になっていた。
「それで今どうしているの? うん、うん……え、ええ!? あなたって今新浜君の家にいるの!?」
「………………は?」
私の驚きの声がリビングに響き、時宗さんが呆けたような声を出した。
自分が聞いた言葉の意味を頭が咀嚼しきれていない様子で、怒るというよりあまりのわけのわからなさに呆然となっている。
「え? どういう経緯でそんな……ふん、ふん、え、そんな偶然が……? え!? 新浜君の家でお風呂まで入ったのぉ!?」
瞬間、放心状態だった時宗さんの身体がぐらりと傾き、そのまま糸の切れた操り人形のように床にバタリと倒れた。
「きゃあああ!? だ、旦那様ー!?」
どうやら過度のショックに心が耐えられなかったみたいで「ふ……ろ……? あ……う……?」と魂が抜けたみたいな呻き声を出しながら、虚ろな視線を宙空にさまよわせている。
『それで今、雨が強すぎるからとお泊まりの提案をして頂いて……心苦しいのですけど、私としてはご厚意に甘えようと思っているんです』
「そ、そんな話になってるの!? で、でもそうね! ちょっと驚いたけど母さんも時宗さんもこの状況ならそうさせて頂くのが一番と思うわ! 向こうの家に失礼がないようにね!」
新浜君のことはすでによく知っているし、この記録的な豪雨が降り注いでいる状況だとどちらにせよその場から動くことはできない。であれば、この場合は向こうの家に甘えるしかない。
『ありがとうございますお母様! あ、それとちょっと新浜君のお母様が代わりたいそうなので……』
「え? 新浜君のお母様!?」
『どうも初めまして……心一郎の母の新浜美佳と申します』
電話の向こうから聞こえてきたのは、やや緊張した女性の声だった。
『いつか新浜君の親御さんともお会いして見たいわね~』とは思っていたけど、こんなに早くその機会が巡ってくるなんて……!
「あ、はい、どうも春華の母の紫条院秋子と申します! このたびは娘が大変お世話なったばかりか、とてもありがたい提案までして頂いて何とお礼を言ったらいいか!」
『い、いえ、そんな……! 元はと言えばウチの娘のお財布を春華さんが届けてくれたことが話の始まりなので……!』
新浜君のお母様はとてもできた人で、こちらのお礼に恐縮するばかりか『普通なら息子のいる家に娘さんを泊まらせるのはどうかと思いますが……緊急避難ということでご理解ください』と非常に気を遣ってくれていた。
「いいえ、とんでもないです! 息子さんはとても誠実な男の子だと知っていますし、お宅に春華をお預けさせて頂くことに何の不安もありませんわ!」
実際この状況では迎えに行くリスクがとても高いので、明日まで預かって貰うのが最善だし、それが信頼できる新浜君の家なのはむしろとても幸運だ。それに……節度の範囲であれば二人にちょっとした『仲が進展する接触』があってもいい。
「ふふ、むしろ春華がはしたなくも新浜君とベタベタしたがっても、どうかある程度許してあげてくださいな♪」
『え、え、え!? 秋子さんはそういう感じなんですか!? 私としては春華ちゃんはちょっと言葉にし難いほどの良い子だったので、そうなったらいいなと思っていたところですが……息子はそちらでは良く思われないとばかり……!』
「ふふふ、それどころか私は新浜君のことをとても気に入っていますよ~。まあ夫は過保護なので少々アレですが……私としては強く『応援』していると思ってくださって結構ですわ! はい……ええ……はい! ではそちら様もじっくりと『見守って』あげてくださいませ!」
どうやら春華は向こうの家でかなり気に入られたようで、新浜君のお母様も応援モードに入っているようだった。娘の恋愛事情にまた一つ進捗があったことに私はつい笑みを深めてしまう。
「至らない娘ですがどうかよろしくお願いします! もし天気が回復したら迎えに行くこともありえますけど、この雨の勢いだとおそらくこのままお泊まりをさせて頂くことになると思いますので――」
「オ……ト、マ、リ……?」
床に倒れたまま現実に魂が追いついていない様子だった時宗さんが、その言葉を聞いた瞬間にピクリと反応する。あ、まずいわこれ。
「オトマリ……おとまり……? お、おおおおお、お泊まりだとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
がばっと身を起こした夫がこの世の終わりみたいに絶叫する。
しまった。さらに衝撃的なワードを聞いて正気に戻ってしまったらしい。
「え、今の声ですか? うふふ、何でもありませんわぁ! ではそういうことでひとまず失礼します!」
「待て! 待て秋子おおおおおおおおおおおおお!」
私に大声で訴える時宗さんを無視して通話を終了させる。
このままだと夫の余計な声が向こうに聞こえまくってしまう。
「おいいい!? どうして切った!? 春華があの小僧の家に泊まるなんて絶対阻止しないとダメだろう!? 女友達の家に泊まるのとはワケが違うんだぞ!」
「まあ、時宗さんの言うことも一理あるわ。私も高校生の身で男の子の家にお泊まりするのは少々はしたないと思うもの」
何もない時に春華が『新浜君の家に泊まってきます』と言ったらさすがに私も許可していない。新浜君との仲は応援しているけど、そこは親としての線引きの問題だ。
「だろう!? だったら……!」
「けどこの状況じゃ話が別でしょ? 迎えに行けそうだったらもちろん行くけど、
こんなに視界が悪い中で春華を迎えに行くのは、車を運転する人も乗せて帰る春華も危ないじゃない。しかももうすっかり遅い時間だし、お泊まりを前提にしないといけないのはわかるでしょう?」
まあ、不可抗力とはいえせっかくのお泊まりなんだから、高校生に許される範囲でしっかり仲を深めてきなさいとは思ってるけどね♪
「うぐ……! そ、それはそうだが……ぐぐ、ぐううううううううう……!」
窓の外に見える土砂降りの光景を指さして言うと、時宗さんは痛恨の呻き声を上げた。私の言葉が正論だと理解はできても、感情は血の涙を流すレベルで納得できていないようだった。
「し、しかし、このままじゃあの小僧と娘が一つ屋根の下で一晩過ごすことになってしまう……! 春華の湯上がり姿を見てあん畜生が興奮して、夜中に獣になったりしたら……! あああああああああああああああああああああああああああああああ……!」
「それを実践したあなたが言うと生々しいわねー」
まあ、あの時は私たちも大人だったけどね。
若かったわー。
「ううう……そもそもどんな偶然で春華はあいつの家に……は……!? まさか……あの小僧計ったか!?」
「はい?」
「この大雨を見越して春華を呼びつけて、ビショ濡れになったあの子に風呂を入らせ、そのまま親に会わせる。天使な春華を見て気に入らない親なんているわけもなく、雨の強さも手伝ってお泊まりという話になり、そのまま夜に家族の目を盗んで……!」
「いや、新浜君がどうやって天気予報大ハズレの大雨を見越すのよ。あの子は超能力者か未来人なの?」
私のツッコミもどうやら聞こえていないらしく、時宗さんは脳内妄想をヒートアップさせて勝手に盛り上がっていく。
「させるかあんにゃろおおおおおおお! おい、ちょっと今から私が車を出して迎えに行ってくるぞ! 帰りはいつになるかわからんが必ず春華を連れて帰る……!」
「はあ!? ちょ、ちょっと時宗さん! このメチャクチャな天気で何言ってるの!? 冬泉さん! ちょっとこの親馬鹿社長を取り押さえるの手伝って!」
「は、はい! 落ち着いてください旦那様! 社長がこの雨で事故にでもあったら会社はどうするんですか!?」
「は、はなせえええええええ! は、春華が! このままでは春華が悪魔の計略のままに餌食になってしまうんだああああああ!」
組み付いた私に顔面を締め上げられつつ、世間で『天才社長』とか『時代の成功者』とか言われてる時宗さんは駄々っ子のように叫びもがいた。
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