第68話 着替えのシャツ


 私は紫条院春華。


 知らないお宅のお風呂を頂いていたと思ったら想像もしてない事実が発覚して、今私はとてつもなく驚いていた。


「じゃ、じゃあ……貴女は新浜君の妹さんなんですか……?」


 ちょっとにわかには把握できない状況に陥った私たちは、お互いに自分の知っていることを順番に説明して、ようやくこの凄い偶然を理解できたところだった。


「うん! 改めて自己紹介するけど、新浜香奈子だよ! いつも兄貴がお世話になっています!」


 湯船の中で向かい合っている香奈子ちゃんが、イタズラっ子のような笑顔を浮かべて、小さくお辞儀をする。 


「新浜君の……妹さん……」


 兄弟は妹さんが一人いるとは聞いていたけど、こんなに可愛い子だとは知らなかった。その快活な笑顔はとても愛らしくて、つい抱き締めたくなる。


「けどまさか、昨日兄貴と買い物に行った時に紫条院さんもいたなんてねー。ま、休日はみんな街中に集まるからある意味当たり前なんだけど」


「あ、はい……その時は一瞬見ただけで、香奈子ちゃんの髪型もツインテールだったからさっきまでそうとは気付かなかったですけど……」


 言いながら、私はその事実がもたらした心の変容に驚いていた。


(彼女は妹さんで……昨日のあれは兄妹で一緒に出かけていただけ……)


 そのことを知ると、自分の胸が驚くほど軽くなっていくのがわかった。

 昨日から心の奥底に沈殿していた何かが、綺麗に消え去っていた。


(ああ……すごく、すごく、ほっとしました……)


 胸に刺さっていたトゲが抜けたかのように、救われるような安堵感が満ちていく。

 あの重苦しい気持ちが、雲一つない快晴のように晴れ渡っている。


(それにしても……新浜君に自分より親しい友達がいたわけじゃないと知ってこんなに安心するなんて、我ながら浅ましい独占欲です……あれ?)


 ふと、何か違和感を憶えた。

 自分の気持ちが友達の少なさからくる独占欲であるなら、舞さんと美月さんが私以外の女友達と親しくしていても同じ感情を抱くはずなのに――想像しても特に心が乱れたりはしない。


(?? どういうことでしょう……? 独占欲であること自体はそのとおりだとしても、友達を取られる恐怖とは少し違うような……?)


「あれ、どうしたの紫条院さん? のぼせちゃった?」


「あ、いえ、私も自己紹介がまだでしたね。改めまして紫条院春華です。こちらこそお兄さんにはお世話になっています」


 つい考え込んでしまっていた私は、慌てて自己紹介しつつ湯船の中で軽くお辞儀をした。


「うん、よろしくー! いやー、綺麗なお姉さんだと思ったけどまさか噂の紫条院さんだったなんて! いつか会ってみたいと思ってんだー!」


「噂って……新浜君が私のことをそんなに話していたんですか?」


「そりゃもう! ライトノベルの読み過ぎで成績が下がってお父さんに禁止令を出されそうになったこととかね!」


「ええ!?」


 も、もう、新浜くんっ! 一体妹さんに何を喋っているんですか!?

 香奈子ちゃんとは初対面なのに、最初っからお姉さんとしての威厳が台無しです……! 


「でも基本的にいつもベタ褒めだよ」


「え……」


「本当に素敵な子だっていつも言ってるよ。一緒に勉強できて嬉しいとか、文化祭を一緒に回れて楽しかったとか、私は耳にタコができるほど紫条院さんのことを聞かされてるんだよ?」


「そう、なん、ですか……?」


 新浜君が家でそんなにも私のことを話しているなんて全然想像もしていなかった。気恥ずかしさや嬉しさがない交ぜになって、つい頬が熱くなってしまう。


「聞かされる女の子としてのスペックが凄すぎて、写真見てもまだ微妙に実在を疑っていたけど……土砂降りの中で見ず知らずの私のために長距離ダッシュするとか

本当に中身が綺麗な人だなーって」


「も、もう。からかわないでください。落としたお財布を届けるくらい別になんでもないことですし」


 本当に大したことじゃないのだけど、香奈子ちゃんは「アレが何でもないことなんだ……」と何故かちょっと驚いた様子だった。


「それにしても新浜君にこんなに可愛い妹さんがいるなんて……その、すいません。私って一人っ子なので妹という存在がとても新鮮で……とても不躾ですけど……少し頭を撫でさせてもらっていいですか……?」


 小柄でとても元気な香奈子ちゃんはやんちゃな子猫みたいでとても可愛く、ついその小さな頭をナデナデしたくなってしまう。


「うん、全然OKだよ! 私のことを妹だと思って存分に愛でて――ひゃっ!?」


 許可を貰った私は香奈子ちゃんの髪に触れて静かに撫でた。

 小動物にそうする時と同じように、ただそれだけの行為が私に蠱惑的な幸福感を与えてくれる。


「ふふ、やっぱり香奈子ちゃんは髪が綺麗ですね」


「ん、ひゃっ、ちょ、ちょっと待って……! これ思ったよりヤバい……! 素っ裸で同じお湯に浸かりながら、んっ、お、お姫様みたいな美少女からゆっくり頭を撫でられるの……ひゅ、の、脳がとろけちゃう……!」


 猫や犬と遊んでいる時は時間を忘れるように、私はこの時とても幸せな心地で香奈子ちゃんの頭を撫でることに没頭していた。


 だから、香奈子ちゃんが乱れた声で何か言っているのも、その顔がどんどん真っ赤になっていくのも、すぐには気付けなかった。


「こ、これが天然お嬢様の力……きゅう……」


「……はっ!? か、香奈子ちゃん!? こんなに真っ赤になってどうしたんですか!? 長湯しすぎましたか!?」


 茹でタコのようになってしまった香奈子ちゃんがお湯に沈みそうになり、私は慌てて助けに入った。




「さっきはすいません……香奈子ちゃんを撫でるのが楽しくてつい夢中に……」


 バスタオルに包まれた状態で、私は香奈子ちゃんに頭を下げた。


 十分すぎるほどに温まった私たちはお風呂から上り、今脱衣場(兼洗面所)に立っていた。

 

 香奈子ちゃんはお風呂から上がったらすぐに回復したけど、お姉さんなのに完全にのぼせてしまっていた年下の女の子の状態にすぐ気付かなかったのは、本当に情けない限りだ。


「あー、いや、のぼせた原因はお湯じゃないんだけど……まあ、いいや。着替えここに置いておくからねー」


「すいません何から何まで……」


 一足先にTシャツとショートパンツ姿に着替えた香奈子ちゃんが、持ってきてくれた着替えをカゴに入れてくれる。


 下着はお風呂に入っている間に乾燥機で乾かしてもらったけれど、傷つきやすい上着やスカートはそういうわけにはいかないので、ご厚意に甘えざるを得ない。


「それじゃ私はお茶を淹れてるから、着替え終わったら居間に来てね!」


 そう言い残すと、香奈子ちゃんは廊下の向こうへ消えていった。


(……あれ? 今更ですけど……香奈子ちゃんが新浜君の妹さんなら……ここって新浜君の家ってことじゃないですかっ!?)


 本当に今更すぎるそのごく当たり前の事実に思い当たると、洗面所の鏡に映る自分が真っ赤になっていくのがわかった。


(つ、つまり私は新浜君の家で裸になってお風呂に入って……わ、わあああああああああ……)


 普段新浜君も使っているお風呂で、裸になって湯船に浸かった――

 その事実がとにかくとても恥ずかしい。

 

(今は香奈子ちゃん以外の家の人はいないみたいですけど……と、とにかく早く着替えましょう……!)


 乾いた下着を身につけ、着替えとして渡された大きなシャツに袖を通す。

 胸は少しきつそうだけど、苦しいというほどじゃない。


「あれ……?」


 シャツの袖のボタンを留めていると、カゴにメモが入っているのが見えた。

 香奈子ちゃんのものらしい丸っこい字で何か書いてある。


『春華ちゃんの胸的に私のじゃ絶対ムリで、ママのもキツそうだったから兄貴のシャツを入れておくね♪』


「っ!?」


(こ、これ……新浜君のシャツなんですか!?)


 そのことを知ると同時に、またしても顔が紅潮してしまう。

 それもさっきの比じゃない。


 新浜君が普段袖を通しているシャツが、今全身を包んでいる――そう思うだけで感情が熱く乱れ、とても平静でいられなくなる。


(あ、でも確かに女の子とは違う……男の子の匂いです……)


 ショーツとブラジャーだけの下着姿の上に、前が開いたシャツを羽織っている状態で私の手は止まっていた。


 新浜君のシャツを着て、彼の匂いの中にいる。

 そう考えると、思考が熱く溢れて他のことが考えられない。


 そう、だからきっと――その後の行動も普通でないからこそのことだった。


(文化祭のプラネタリウムで肩を寄せ合った時と同じ……確かに新浜君の匂いがします……)


 その行動は無意識だった。

 本当に、本当に無意識だった。


 けど事実として私は新浜君のシャツの袖を通した腕を口元まで持って行き――


 彼の匂いを、鼻孔を通して確かめてしまっていた。

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