第92話 番外1 随身の呟き

 お館様がおかしい。


 いや、そこまで言っては失礼か?

 今まで通り朝稽古は厳しいし、領主としての働きぶりは鬼のようだ。

 朝の書類仕事が終わったら、弁当を持ってあちこちの村や街道を見て周り、時には山奥にまで入ることもある。人々の話を聞いたり、代官に指示を出したり、近頃は鉄樹の植林にも力を入れている。

 一日中働いて、陽が暮れる頃ようやく城に戻るという、理想的かつ、これ以上ないほど良き領主っぷり。

 かつての仲間も少しずつ呼び戻され、兵士としてだけでなく、良き領民となってお館様を支えてくれている。

 おかげでイストラーダは、少しずつ豊かになってくる。

 なにも不満はないはずだ。

 ──なのに。

 城へ戻る道中はアスワドを駆り立てて、一目散。俺たちは置いて行かれないように必死だ。一日の疲労と空腹で、俺は軽く目眩めまいがした。

 今日はかなり遠出をした上に、俺は結構きつい仕事を任されたんだ、今すぐに飯を食いたい。

 それなのに、お館様は城に戻ったらすぐに小広間で仕事をしている奥方様に会いにいかれるから、俺だけ大広間で飯を食う訳にもいかない。

 お館様だって、腹が減っているはずなのに、村娘たちとともに、陶器の絵付けで忙しい奥方様の横に黙って座られ、その仕事が一段落するのを待っておられるのだ。その横顔をじっと見つめながら。

 その視線の圧が凄まじい。飢えた狼のような、蜂蜜を目にした熊のような、つがいを失ったおしどりのような。

 ね? 俺がおかしいと思うのはそこなんだよ。

 あのね、今朝の朝食の席で会ってますよね? というか、昨夜からずっと一緒だったんでしょ?

 なんですか。まるで一月も会わなかったような顔をして。独身の俺にはわからないとでも思ってるんですか?

 奥方のリザ様も、もう慣れっこで、チラリと視線を向けて微笑んだだけで仕事の手を止めない。それだけ真剣でいらっしゃるのだ。

 容積で言えばお館様の半分くらいのリザ様は、毛先の細い筆で、皿に蔦の葉紋様を美しく描いていかれる。その白い横顔は俺たちが戦う時同様、真剣そのもので、長いまつ毛はぴくりとも動かない。

 初めて会った頃は短かった黒髪も、今ではうなじのあたりで綺麗に編み込んでとても可憐だ。垂らした脇髪が揺れて……あ、どうやら作業が終わったようだ。筆を置かれて、やっと隣のお館様にお帰りなさいの挨拶をしていらっしゃる。

「ごめんなさいね、エル。お迎えもしないで。この模様は絶対に失敗できないものだから」

「ああ、知っている。だから黙っていた。ただいま、リザ」

 そう言ってお館様は、リザ様の手を取って指先に口づけられた。

 あの〜、周りの村娘たちがうっとり眺めているの、気がついています?

「今日はここまでにしましょう。皆、ありがとう。お夕食をここで食べられる人は食べていってね。家に帰る人は、厨房でパンと干し肉をもらって」

「ご苦労だった。気をつけて帰るのだぞ」

 二人は村娘たちをねぎらい、用意された手桶で手と顔を洗うと、晩餐の準備の整った大広間へと寄り添って退出される。

 やっと食事にありつける!

 皆で食べる食事は楽しく賑やかだが、この間もお館様は奥方様が食べやすいように肉を切ったり、魚の身をほぐしたり甲斐甲斐しく世話をされる。それはもう、侍女のニーナやアンテが呆れるほどで。

 王都育ちで食の細い奥方様はそんなには食べられないから、すぐに満たされて今度はお館様の世話をされる。と言っても、酒の杯を満たしたり、スープのおかわりを入れるくらいだけれど、お館様はそれは嬉しそうにその給仕に応じておられる。

 なんだよその腑抜ふぬけた顔は! コルさんがアンテと肘をつつき合っているぞ。

 今朝方、俺を吹っ飛ばした、べらぼうに強い剣士はどこ行ったんだよ!

 ──お、目が合った?


「なんだセロー、だらしない顔をするな」


 一番言われたくない人から言われましたー。

 あんた、鏡で自分の顔を見てみなよ、と言いたいのを堪えて俺は食事を続ける。まだまだ腹一杯になんてならない。この城の食事は最近一段と美味しくなった。

 目の前に、大きな仔牛の頬肉の皿が置かれる。

 飴色に煮込まれたそれは、ものすごく旨そうだ。深鉢には奥方様が絵付けをされた小鳥の模様が可愛いが、ともかくはその肉汁たっぷりの頬肉だ。

 俺はかぶりついてから、皿を置いてくれた人の方を見上げた。

「たくさん食べてね」

 ニーケさんはそう言って、腰を揺らしながら奥方様の席と戻られる。

 主席では、主夫妻のいちゃいちゃっぷりがまだ続いていた。無論その多くはお館様によるものだ。

 あれはもう絶対、今夜のことを考えてる!


「あ〜あ、俺も嫁さん欲しいなぁ」

 うっかりこぼれた呟きは、思いがけず奥方様の耳に届いたようで、不思議な色の瞳が俺を捉えた。

 途端に花が咲いたように微笑まれる。そして隣のニーケさんと内緒話をしている。そのニーケさんもこちらを見て笑った。

 お館様は面白くなさそうに俺を睨み、ぐいと杯を煽った。

 こりゃリザ様、あとで大変そうだわ……。

「セロー、シャツの前がべとべとだぞ。そんなに汚す奴には嫁なんか来ない」

 先輩のザンサスさんが、にやにやしながらナプキンを俺の顔に押し付けてきた。

 はいはい、そうですよ。俺ってこんなにいい奴なのに、何故かモテないんだよなぁ。

 俺はしょんぼりとシャツに垂らした肉汁をぬぐい始める。

 ってあれ? なんだかこのナプキン上等すぎないか? いつもは分厚いごわごわの布なのに。

 変に思った俺はナプキンを広げた。


「……あ」


 それは婦人用の手布ハンカチで、隅っこに名前の頭文字が刺繍してある。この頭文字はここでは一人だけだ。

 俺は慌てて目を挙げると、リザ様と顔を見合わせたニーケさんが俺の胸をさした。

 気にせずぬぐえってことか?

 急にどきどきしはじめた胸を意識しながら、シャツをふいた。

 横でザンサスさんが肩を震わせている気配。口の中に残っている頬肉の味が急にわからなくなった。

 だから、つまりその……えっと……これは……。


 明日からも俺は頑張れるってことだ!

 

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