第63話62 宴の夜 1

「リザ様、本当に大丈夫ですか?」

 ニーケが心配そうに鏡の中のリザに声をかける。虚像だけでなく、実際の女主も顔色もいつも以上に白い。

「ええ。平気よ。でも気になるなら、紅を少しだけいてちょうだい」

 リザは鏡に向かって微笑むふりをした。自分ながら、その顔色は蝋人形のようだと思ったのだ。


 狩りの後、広場では取った獲物の解体作業が行われた。

 血抜きをした獣からはなんとも言えない匂いが立ち上り、生まれて初めて見た、開かれた動物の体に、ニーケはたちまち気分が悪くなってしまった。パーセラもだめだったようで、夫に付き添われて一足先に城に戻っている。

「あらあら、さすがに都育ちのお嬢様はお気が弱くていらっしゃる」

 アンテは親切そうにニーケを木陰で休ませてやった。

「大丈夫か?」

 ニーケの様子を見に来たエルランドは、ニーケよりもリザの顔色に驚いた。

「リザ! 真っ青だぞ!」

「……そうですか?」

 リザは差し出されたエルランドの手が触れぬように一歩下がった。それに気がつかぬエルランドではない。

「どうした、リザも気分が悪いのか?」

「いえ……でも、確かにそうかもしれません。動物を解体するのを見たのは初めてなので……」

 リザはエルランドの腕を見つめている。さっきウルリーケを抱いていた腕だ。今はその腕に触れられたくなかった。

 この言葉は説得力があったようで、エルランドはすぐに頷いた。

「確かに、王宮から出たことのないリザには恐ろしいかもしれないな。今まで解体を手伝っていたから、俺の手からも血の匂いがするだろう。食欲はあるか?」

「しょくよく?」

 リザは彼が何を言っているのか、意味がわからないように繰り返したが、力なく首を振った。

「申し訳ありません。女主として情けないのですけれど、ニーケと一緒にお城に帰ってもよろしいでしょうか? パーセラさんのことも心配ですし。今夜の宴までには必ず、を立て直しますから」

「……リザ?」

 エルランドはリザの口調に眉を顰め、口を開きかけたが、すぐにアンテが心配そうに遮った。

「リザ様、是非そうなさいませ。コルに送らせましょう」

「ありがとう、アンテ」

「……俺がついてやればいいのだが」

「エルランド殿! 皆が待っておりますぞ! どの鹿か一番重いか賭けようということになりましてな!

 ナント侯爵が、向こうから大声でエルランドを呼ばわった。

「お客様を待たせてはなりませんわ。私ならへいきです……いつもそうでしたし。では失礼いたします。エルランド様」

「……」

 何か言いたげなエルランドを残し、リザはニーケと城に戻ったのだった。


 それから五時間以上が過ぎて、ニーケはすっかり元気を取り戻している。

 彼女は新しい服に身を包んでいて、すっかり身支度を整えてから、ターニャと共にリザの着付けを手伝っているのだ。

 今夜のリザのドレスは、パーセラが描いた意匠デザイン通りに、仕立て屋姉妹と指先自慢の村の女たちが仕上げた、リザの初めての夜会用のドレスだった。

 それはウィルターが、一巻きだけ商品の中に入れていた真珠色の絹。

 大袈裟な飾りはないが、リザの姿を映させる上品な仕上がりになっていた。真っ白ではないので温かみがあり、周りの色を反映させる布地だった。リザの黒髪も柔らかく影を落としている。

 言われたようにニーケはリザの頬と唇に紅をさす。パーセラのおかげで化粧品もようやく整ったので、リザの肌は最近ますます艶めいてきた。

 ただ、顔色だけが優れなかった。

「お美しいですわ。さぁ、お顔をお上げになって」

「……」

 黒髪は脇だけを耳の前に垂らし、あとは首の後ろで結っている。本来なら、もっと高い位置で結い上げれば華やかさが出るのだが、残念ながらリザの髪はまだそこまで伸びてはいない。

 短い髪が豊かに見えるように、巧みに張り出しを作ったのは、最近髪結いを頑張っているターニャの仕事だった。後ろから見ると、まるで髪が重なり合った花びらのように見える。

「リザ様、エルランド様からのお届けものです」

 そう言って入ってきたパーセラは綺麗な小箱を開けると、中には真珠の装飾品が入っていた。

「パーセラ様、もう大丈夫ですか?」

 ニーケが心配そうに声をかける。

「ええ、すっかり。獣の匂いに参っただけですから。それよりご覧ください! こちらは髪に刺す櫛で、これはお耳に、連なったものは首飾りですよ。今朝、都から届いたものだそうです。見事でしょう? お付けいたしますわ」

「いらない!」

 思わず声を上げてからリザは自分に驚いた。

 ニーケもターニャも、初めて聞くリザの大声にびっくりしている。

「リザ様?」

「いえ、ごめんなさい。急に声を上げてしまって。でも……こんな高価な真珠は私に似合わないと思ったの」

「何をおっしゃいます。黒髪に真珠が映えない訳がありませんわ」

 リザの言い訳に耳を貸さず、パーセラとニーケはリザをどんどん飾り立てていった。

 そして月が昇り始める。

 秋の澄んだ夜気に、それはとても大きく見えた。

「さぁ、ご領主様、リザ様を見てください!」

 ターニャがエルランドを連れて入ってきたが、リザはそちらを向くことができなかった。

 だから、エルランドは見たのはリザの後ろ姿だった。そして侍女達はいつの間にかいなくなる。いつものように。

 だが、リザは今ほど、エルランドと二人きりになりたくないと思ったことはなかった。

「体調はもういいのか?」

「はい。いつもご迷惑ばかりかけて申し訳ありません」

 話しかけられて、リザはようやく振り返った。それでも真正面から彼を見るのは難しく、斜め前の床を見つめている。

「リザ」

 リザが必死の思いで取った距離を、エルランドはたった一歩で詰めてしまった。

「どうした、何があった」

 その問いは疑問形ではなかった。

「どうしてそんな話し方をする。言ってみなさい」

「……こんな服も飾りも、私には似合わないと思って」

「誰かにそう言われたのか?」

「いいえ。今日、カラス百合という花を見たのです。黒に近い花びらをしていて、私そっくりだなって思って……」

「カラス百合? 知らないな」

 花などに興味を持ったことのないエルランドは首を捻った。リザは彼から離れる機会ができたと思って、昼間写生した手帳を見せる。

「これです」

「へぇ。こんな花があるのか……知らなかった。しかしよく描けている。リザは本当に器用だな」

「……」

「どこに生えていた?」

「……森の入り口近くの高台です。お昼前に登ったのです。皆さんが戻ってくるのが見えましたわ」

 リザはその説明で、エルランドが何か気がつくかと思ったのだが、彼の態度は予想外のものだった。

「あんなところに登ったのか!」

 叱りつけるような口調に、リザは思わず半歩下がった。

「結構急斜面だったろう? 危ないじゃないか」

「あ、アンテが連れていってくれたの」

「あのぅ……そろそろお時間でございますが……」

 ニーケが遠慮しながら顔を出した。

「そうか。リザ、顔を上げなさい。大きな声を出して悪かった。あんなところに登って怪我をしたら大変だと思ったんだ」

「……」

 リザはほんの少し顔を上げた。

「今夜のリザもとても綺麗だ。だが、そんな目で見上げるのは俺だけにしてほしい。舞踏もあるが、俺以外の男とは踊らないように」

「踊りませんわ。だって私、踊れないんですもの」

「ああ、そうだったか」

 エルランドは、リザの不安の原因がわかったような気がした。

 あの離宮で、ほとんど人にも会わずに暮らしていたリザに、舞踏ができるとは思えない。宴の話になるたびにリザが少し暗い顔をしていたのは、そのせいでもあったのだ。そこを考えつかなかった自分の配慮のなさに腹が立った。

「俺も舞踏は苦手だ。傭兵だった頃、貴族に招かれ、何度か夜会に行った程度だからな。それも、資金を供出してもらうために渋々行ったのさ」

「ナント侯爵様のお屋敷にも?」

「ああ。何度か招待されたことがある」

 自分の言葉がリザをさらにひるませたことに、エルランドは気がついていない。

「私は見ておりますので、エルランド様は、どうぞウルリーケ様と踊ってくださいませ」

「客人のご婦人とは踊らなければならないのは、主の務めでもあるから仕方がないが、俺はリザと踊りたい」

「でもだって、踊れないから」

「心配ない。それよりも」

 エルランドはリザの顎を捉えた。口づけたいが、せっかくの紅が取れてしまう。彼はいつもより白い額に唇を落とすだけに留めた。

 触れた瞬間、リザの肌に震えが走る。それがエルランドの眉をひそめさせた。


 きっと、まだ何かある。俺が知らない何かが。

 話し方も固い。


「この瞳に見える憂いの方が心配だ。リザ、必要以上に自分を卑下するな。不安もあるだろうが、俺がついている。この花もきっと美しいに違いない」

 エルランドは傍の写生を指さす。

「不慣れなリザに、いろいろ無理をいているのはわかっている。だが、明日には客達も帰るだろう」

「大丈夫。私はこの城の女主の役目を果たしてみせます」

 そう言ってリザは毅きぜんと顔を上げた。

 この上、惨めに落ち込んだ顔をウルリーケやアンテに見られたくないと思ったのだ。

「この宴が終わったら、少し時間ができる。ゆっくり話をしような……リザ」

「行きましょう。宴が始まりますわ」

 そう言ってリザは、差し出された腕を取った。



 *****


また一つ、リザちゃんの特徴が、明らかになりました(実は作者も同じです)。

Twitterにリザのドレスと髪型のイメージがあります。


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