第46話45 辺境騎士と妻 2
「あ! リザ様! あれに、ご領主様が!」
ニーケの声を背中に聞きながら、リザは跳ね橋を走り抜けた。とっくに気づいていたのである。
「エルランド様!」
「リザ!」
エルランドはするりと馬を降り、駆け寄ったはいいが、手前で
「遅くなった。すまない」
「いいえ。聞いていたのより早くてびっくりしたわ」
大きな胸に抱きこまれていることを強く意識しながらも、努めて平静にリザは言った。
「アンテもコルも、お着きは昼過ぎになると言ったのに」
「リザはそう思わなかったのか? 鳩も飛ばさなかったのに」
「思ったけど、ちょうどいつもの散歩の時間だったから、たまたま跳ね橋を通りかかったのよ」
リザは、なんとか自分の頬を分厚い胸板から引き剥がそうと頑張っていた。でないと、飛び跳ねる心臓の音に気づかれてしまう。頬がちりちりするのは分厚い上着に
「たまたま……なのか?」
がっかりしたような声にリザは少々罪悪感を感じた。嘘はついていないが、いつもより長い時間うろうろしていたのは事実だからだ。
「でも会えてよかった……会いたかったから」
「そうか。俺に会いたいと思ってくれていたか?」
エルランドは緩めかけた腕を再びリザに絡めた。
「ええ。お話ししたいことがたくさんあるの。でもあなたはきっとお疲れね」
「いや、リザの顔を見ると元気が出る。さぁ見せてくれ」
そう言ってエルランドは、リザの顎を軽く持ち上げ、陽の光が映り込ませる。リザの黒い瞳が光を吸い込み、透き通るような藍に染まった。
「ああ、綺麗だ。これが見たかった……」
エルランドは満足そうに言うと「ただいま」と囁いてリザの眉の間に唇を落とした。
「今のって、ただいまの口づけ?」
「ああ。そうだよ」
「なら、私も。お帰りなさいエルランド様」
リザはエルランドの袖を引き、腰を屈めた彼の頬にとん、と自分の唇を触れさせた。
「私もあなたの目を見たかったの。これでおあいこね」
リザ様、ちょっと違う気がします……。
一見仲睦まじく見える二人だが、実に微妙にすれ違っていることに、ニーケは気がつき始めている。リザは明らかにエルランドの帰宅を意識して、朝からそわそわしていたからだ。その目は何度の跳ね橋の向こうへと向けられ、小さなため息をこぼしていた。
「しかし、リザ。あなたは少し痩せたな? こちらの食事が合わないのではないか?」
「エルランド様!」
城の入り口から駆け下りてきたのはコルだ。後ろにアンテも続いている。
「お迎えに出られずに申し訳ございません! お早いお戻り、ようございました。さぁ、お休みください」
アンテは思いがけず早く帰ってきたエルランドを、いそいそと屋内に連れて行こうとした。リザのことは無視である。
「ああ、馬を頼む。コル」
コルがエルランドの馬の手綱を受け取った時、セローが城門から駆け込んできた。
「もう! エルランド様、早すぎます! 結局追いつけなかったじゃないですか〜」
「そうか? お前も意外に早かったな」
「もうへとへとですよ。尻が痛い」
セローは崩れるように馬から下りた。リザが心配そうに駆け寄る。
「まぁ大変! 冷たいお水でお尻を冷やしてみたらどうかしら? 井戸に行く?」
「ああ、いいですね! でもはらぺこだから、急がないと!」
そう言ってセローはリザの手を取った。
「おい」
怒気を発しながらリザとセローの間に割って入ったのは、エルランドである。
「その手を離せ! 俺の妻にお前の汚い尻の心配なんかさせるんじゃない」
「じゃあ、二人で一緒に冷やせばいいわ」
空気を読まないリザは少しでも役に立とうと、明るく言った。
「え? いや、俺の尻は大丈夫だから……」
「私は食事を用意するようにコルに伝えてくる! 少し早いけど」
主人の帰城を知ってたちまち多くの召使達が現れ、手洗いの水を持ってきたり、忙しそうに荷物を運んだりと、大騒ぎになった。
リザは邪魔にならないよう、ニーケと一緒に部屋に戻った。
二人がいつものように昼食をとり、今日は邪魔にならないように部屋にいようかと話し合っていた時、再び階下が騒がしくなった。
「何かしら?」
「きっと、後の方々が到着されたのかと。ちょっと見て参ります」
出て行ったニーケはすぐに戻ってきた。
「やっぱり残りの騎士様もご帰還されたみたいです。あとお客様も」
「お客様?」
「ええ。若いご夫婦で旅の商人のようでした」
「そう言えば、もうすぐ秋の収穫の市が開かれるって聞いたわ」
その内ターニャが食器を下げに入ってきたので、リザは様子を聞いてみることにした。
「お客様がいらっしゃっているのね?」
「はい。ご夫婦でしばらく滞在されるって、アンテさんが」
絵をあげてから、ターニャは少しずつ打ち解けてくれるようになったのだ。絵は隣村に住む両親に贈ったと言っていた。
「多分。この近くにお部屋をご用意されると思います」
「私もお会いしていいのかしら?」
リザは嬉しそうに言った。
本来の領主夫人の立場なら客人の出迎えや、もてなしをするのが役割だが、リザはそういう教育を受けていない上、アンテも教えようとしないので、自分がどう振る舞っていいのか知らないのだ。
「さぁ。私にはわからないけど、もう少ししたらいらっしゃいますよ。奥様は少し具合が悪いようでしたし」
「まぁ、それは心配だわね。お医者様はいるの?」
「はい。内壁の村にいらっしゃいます。とてもお年寄りですが」
「私はまだお会いしたことがないわ」
「リザ、入るぞ」
開いていた扉から入ってきたのはエルランドだ。
「昼飯はここで食っていたのか。下にこないから」
「いつもご飯はここで食べているのです」
一階には大広間がある。そこにはテーブルや台がいくつも並んでいて、兵士や召使たちはそこで食べるようになっているのだが、リザはアンテの指示に従って、今まで入ったことはなかった。
「ああ……そうか。だが、今日はお客人がいる。巡回の途中で保護した商人夫婦だ。今夜はちょっとした宴になるから、リザもその……妻として、同席してほしい」
「いいの?」
リザは嬉しくなって言った。
「いつもニーケと二人だけのご飯だったから嬉しい!」
「そうか。それからこれは土産だ」
エルランドは上着のポケットから陶器の瓶を差し出した。
「ここから少し南の集落で作っていた。果物の煮込みだそうだ。砂糖は貴重品だから使えないが、果実が甘いので十分美味しいらしい」
「まぁ! 嬉しい。早速明日の朝ご飯のパンに添えてみるわ」
「そうですわね。これで固いパンも美味しくなりますわね」
「……固いパン?」
ニーケの言葉にエルランドが不思議そうに首を傾げた時、コルが顔を出した。
「おくつろぎのところ申し訳ありません。
「子馬ですって⁉︎」
立ち上がったのはリザだ。
「見てみたいか?」
「ええ! とても!」
「では一緒に行こう」
そう言ってエルランドはリザに腕を差し出した。
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