第40話39 東の領地 5

「食事はすんだか。どうだった?」

 エルランドは空になったテーブルに肘をついて顎をのせた。彼は大きいが、卓面は小さいので吐息すら感じられそうな近さだ。

 二人だけになるのは、ラガースの村以来だった。

 改めて見ると、彼はいつもよりほんの少しくつろいでいるようだ。

 いつも厳しく引き結ばれた口元がほんの少し柔らいでいる。夕刻を過ぎているからか、上唇の上や顎にうっすらと細かい髭が見えた。

 男の人の顔だ、とリザは思った。

 豊かな金色の巻き毛に縁取られた兄の顔は、王宮では美男だともてはやされていたが、エルランドに比べるとのっぺりとしまらないように思る。

「あんまりたくさんで、食べきれないほどだったわ」

「味が悪かったのか?」

 彼は額に落ちかかる前髪をかき上げながら言った。その手指もまた、大きくて長くリザの手の倍くらいはある。

「味はあんまりわからなかった。初めて食べるものもあって」

 リザは正直に言った。

「この城はどうだ? 古くて大きいだろう?」

「ええ。たくさん廊下や階段があって迷いそう」

「昔は砦だったからな。敵を誘い込んで惑わせる目的もあったようだ」

「そうだったのね。明日から見て回ってもいい?」

「ああ。だが、本当に迷ってしまうから、アンテに案内してもらった方がいい」

「アンテは忙しそうだったけど……」

 リザは遠慮がちに言った。アンテに好かれていないと遠回しに伝えて見たのだ」

「彼女は俺がここに来た頃からこの城で働いてくれている、有能で頼もしい。城の奥向きのことは全て任せている。俺からも頼んでおくから」

「……お風呂も良かった。あんなにたくさんのお湯は初めて見たわ」

 リザは巧みに話を変えた。

「あの水は地下から湧き出しているんだ。地下には牢屋や、更に奥には洞窟もある」

「洞窟? 一度絵で見たことがあるわ! 行ってもいい?」

 リザはひどく興味をひかれて言った。

「それはだめだ。リザが入ったら二度と出てこられないぞ。あなたが好奇心旺盛なのを忘れていた。でも地下に行くのは許可しない」

 それは穏やかだが断固とした言葉だった。リザはそれ以上は言わなかった。この城の主は彼で自分は従うものなのだ。

「基本的にはリザが行っていけないところはないよ。だが、地下と……そうだな。男のいる部屋はだめだ」

「男のいる部屋?」

「ああ、召使いは男と女は分けて部屋がある。だから男の使用人の部屋、騎士の部屋などは入っちゃだめだ」

「……どこにあるかがわかれば行かないわ。教えて?」

「うーん、そうだなぁ。防衛上、幾つにも分かれているからなぁ。コルに教えるように言っておこう。コルなら安心だ。でも、この辺境でリザのような存在は珍しいし、あなたはどうにも男の目をいてしまう」

「カラスだから?」

「醜いと言う意味で言うのなら違う。カラスは美しいし賢いからな」

 エルランドはリザの醸す不思議な色香を、なんと言って表現したものか言葉が見つからなかった。

 雄弁な大きな瞳、つややかな黒髪は短くて、優美な首から肩の線を隠し切れていない。

「できるだけ、ニーケやアンテと一緒にいて、一人きりにならないように」

 エルランドはふと手を伸ばし、テーブルの上の白い手に触れた。

「来たばかりだから、ゆっくり慣れてけばいきなさい。風呂が気に入ったのなら毎日入るがいい。この城でできる唯一の贅沢かもしれないから。そう伝えておこう」

 大きくて固い掌がリザの手に重ねられる。白い指の間に彼の指先が入り込んでそっと撫でた。

「何か必要なものは? 一応アンテに女に必要なものをそろえるように伝えたんだが」

 リザの意識は、愛撫のように触れる彼の指先に傾いていく。

「え? えっと……特には。たくさんの服があって嬉しい。ありがとう。あんなにたくさんの服を見たのは初めて」

「そのうちもっと買ってやろう。もう少ししたら王都から行商人の一行がやってくる。収穫の市が立つんだ。街道筋もだいぶ落ち着いたから人も物も、もっと増える」

「ありがとう。でも大丈夫よ」

「リザは欲がないな」

「街道筋が落ち着いたのは……エルランド様のお仕事の成果なのね」

「そうだといいとは思うよ。だが、そのために犠牲にしたものも多い……リザ、あなたがそうだ」

 エルランドの手はリザの小さな拳をすっぽりと握り込んだ。熱さがどんどんリザに注がれ、とても不思議な気分になる。

「あ、あの……欲しいものはないけれど、私も何か仕事をしたいと思うの」

「仕事?」

「ええ。教養はないけど、勉強するわ」

「そうだな……慣れたら城の管理を手伝ってもらうかもしれない。アンテが色々教えてくれるだろう」

「……」

 それは無理だろうと、リザは考えた。これはただの推測だが、アンテは自分の領域に自分を入り込ませたくないはずだ。

「そういえば、エルランド様のお部屋はどこにあるの? この部屋はは多分三階にあるのね」

「ああ。三階の南の方だ。俺の部屋は四階の東にある。敵がきたらすぐにわかるように」

「敵が来るの?」

「ここ十何年かは国を挙げての敵は来ないな。いま危険なのは、以前リザを襲ったような、ならず者の集団だ。奴らはどこにでも湧く。だが、この城ができた時から、城主の部屋は四階の東と決まっているんだそうだ」

「あなたの部屋には行ってはいけないの?」

「……いや、そうじゃない」

 エルランドはどういう訳か、やや口籠った。

「俺の部屋にはほとんど何にもないが……その、なんと言うか、もう少しリザの準備ができたら、来てもらいたいと思っている」

「私の準備? なんの? 何をしたらいいの?」

 リザは小首を傾げた。

「リザが俺のことをもっと知って、信頼してくれたら」

「信頼なら……してると思う」

「それは騎士や領主としての顔だろう。俺にはもっといろんな顔がある。例えば……」

 エルランドはリザの手を握っていた手を離して、そっとリザの頬に触れた。

「男として、とか」

「いくらなんでも、エルランド様が男の人だということくらい知ってるわ」

「そりゃあ、ありがたい」

 エルランドは小さく笑った。

「まぁとりあえず、この頬をもう少しふっくらとさせないとな。たくさん食べるといい。そうすれば髪も直きに伸びる」

「こんな真っ直ぐなカラス色の髪が伸びたって綺麗じゃないわよ」

「カラスじゃないし。それにカラスの羽は美しいんだぞ。光にあたると緑色に光って」

「……緑色?」

 リザはエルランドの瞳を見つめた。それは好きな色だった。

「俺だってこんなネズミ色の髪色だ」

「それは鉄色っていうのよ」

「へぇ、鉄色か。それはいいな。ここは鉄樹の産地だから」

「ほんとね」

「リザ」

「……はい」

「戻ったばかりで申し訳ないが、明日から数日だけ、俺は城を留守にする」

 緑色の目が曇っている。

「留守の間に溜まったお仕事があるのね」

「そう。リザは賢いな。だが、帰ってきたら城壁の外を案内しよう。それまで大人しく待っていてくれるか?」

「ええ。わかったわ、お城の中にいる」

 リザは答えた。

 待つのはリザにとって、当たり前のことだったのだ。


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