第32話31 二度目の夜 2

「……わが、つま?」

 リザは言葉の意味が理解できないまま、同じ言葉を繰り返した。吐いて気分は幾分ましになったが、まだ体が揺れ続けているようで目が回る。

「だが、まずはあなたを休ませないと」

 女が案内したのは広場から程近い、だが、狭い通りにある家だった。

「このハーリ村には宿が二軒しかない。一つは大きいんだけど、ウチは狭くて三組しか客は取れないんだよ。だけんど、ちょうど今は誰も客はいない。あんた達の部屋は二階の東の部屋だよ。うちで一番いい部屋だで。水桶を持って行くから休んでたらええ」

 そう言って女──宿の女将は厨房に入って行く。エルランドはリザを抱いたまま、階段を上がった。

 その部屋には寝台が二つあり、窓際の方にリザは下ろされた。

「気分は?」

「……まだ少し」

 どんな風に接したらいいのか、さっぱりわからないリザの言葉は少ない。しかしエルランドは気を悪くした様子はなかった。

「横になるか」

「……」

 リザが頷くと、エルランドは身をかがめてリザの靴に手を掛けた。

「え⁉︎」

「靴が足に合ってない。こんな靴で旅をしていたのか」

 リザが慌てて足を引っ込めようとするのを止めながらエルランドは呟いた。

「……」

 オジーの古い靴なのだから仕方がない。リザは旅行用の靴など持っていなかったのだ。

 その時初めて気が付いたが、リザはエルランドの大きな上着をまだ被ったままだった。その下には引き裂かれたシャツだけだ。

 

 私、さっき……。

 

 バルトロに放り投げ出された時、ほとんど半裸でエルランドに受け止められたのだ。自分がどんな格好でいたかと思うだけで身が竦む。同時に、急に自分の体がどうしようもなく汚く思えてぞっとした。

「どうした? 震えている。寒いか」

「……」

 リザはふるふると首を振った。

 勝手にラガースの宿を逃げ出して、怪我をしたニーケの負担を重くした。その上愚かにも、ならず者の甘言に騙されて、思い出すのも汚らわしい仕打ちを受けたのだ。

 

 ここも、ここも、ここもあいつに触られた!

 汚い。気持ちが悪い!

 そしてこの人は私があの男に何をされたのか、気がついているに違いないのだわ。


 両のこぶしでリザは顔をおおって、リザは体を丸める。

 今、一番いてほしくない男に世話をされていることに耐えられないのだ。再会してから醜いところしか見せていない。


 もう、このまま消えてしまいたい……どうして私、こんなことになってるの?


「まだ、気分が悪いか?」

 靴を脱がし終えたエルランドは、心配そうにリザを覗き込む。 

「ほ、放っておいて! 見ないで!」

 リザは体を伏せたまま、身をよじった。指の間から涙がぽろぽろこぼれる。

「触らないで! 私は汚いの! 汚いのよう! あああ!」

「汚くなどない!」

 エルランドはリザの肩を掴んで前を向かせる。リザは涙に濡れた顔を見られたくなくて、必死で首をよじった。

「リザは綺麗だ。悪いのは全部俺だ! すまない、すまなかった!」

 その声があまりに真剣だったので、リザはうっかり彼の顔をまともに見てしまった。記憶にある金緑の瞳が、恐ろしいほど真剣に自分を見つめている。

 その時ノックもせずに女将が手桶を持って現れた。

「ほらお水だよ。冷たいよ」

「ありがとう女将さん。それからすまないが、この娘が着られるような服はないか? 金は払う」

「ああ。嫁に行った娘のお古ならあるかね? 見てくるよ」

 女将が出て行ってから、エルランドは手桶に添えられていた清潔そうな布を絞ってリザに渡した。

「さぁリザ、これで顔や体を拭きなさい。俺は向こうを向いているから。それとも手伝おうか?」

 リザは黙ったまま布を受け取った。

 エルランドの最後の言葉は冗談だったらしく、彼は入り口近くの椅子の向きを変え、こちらに背中を見せて腰を下ろした。

 リザは布で顔をぬぐった。それからバルトロに舐めまわされた頬や首筋を強くこすった。いったん拭きだすと止まらない。何度も何度も布を絞り、彼に触られた部分を全て赤くなるまで擦り続ける。

「あまり、強く擦ると肌が痛むぞ」

 背後の激しい水音をなんと聞いたか、エルランドが扉の方を見ながら注意する。しかし、リザはその言葉を無視して、気がすむまで体を清めた。

「ほら服だよ。それから、飲み物を持ってきた」

 女将が再びが首を出す。その手には生成きなりの木綿の服と、湯気のたつカップが二つ乗った盆があった。

「感謝する。すまないが着替えを手伝ってやってくれないか」

「ああいいよ。おや、シャツがぼろぼろじゃないか。怪我は……ないようだね。でも、肌が真っ赤になってるよ」

 女将は何か察したようだが、やはり何も聞かずにリザの着替えを手伝った。

 本当なら自分でできると言いたかったリザだが、体力と気力がもう尽きてしまったのか、ふらふらで大人しく女将に従った。女将は慣れた手つきで、リザの手の届かないところも全部拭き清めてくれた。

「ありがとう。おばさん」

 体を拭って服を着替えると、よほど気分がよくなった。生成りの服は少し大きすぎて肩が落ちかけたが、かえって体を締め付けなくていい。

「ああ、これは別嬪さんだ。さっきは坊ちゃんなんて言って悪かっただよ。あ、お兄さん、あんたもお茶をお飲みよ。生姜入りであったまるよ。ほいで食事はどうするね」

「俺は頼む。リザはどうする?」

「……」

 まだ何も食べられそうになかったので、リザは小さく首を振った。

 女将は愛想よく頷いて、下に下りて行った。二人は視線を交えずに黙ってお茶を飲んだ。お茶は濃くて熱く、飲むと体が温まってふんわりと眠気が下りてくる。

「たくさん話をしなければならないが、まずはリザが元気になってからだ」

「……あなたはここに?」

 俯いたままリザは尋ねる。

「いるよ。さぁ横になりなさい」

「……」

 質素だが、寝心地がよさそうな寝台の誘惑に勝てそうにない。リザは素直に身を横たえると、たちまち眠りに落ちてしまった。

「おやすみ」

 布団をかけてやった エルランドは、リザの首や肩にいくつも付いた赤い跡を見つけていた。布でこすったときについたものもあるが、色の濃いものは明らかに男の指の痕だ。

「おのれ……悪党」

 今頃は牢に入れられただろうバルトロに、激しい怒りがこみ上げる。

 しかし、この娘に長い間酷いことをしていた男は、他でもない自分であると言うことに思い至る。エルランドは拳をきつく握り締めた。

「……本当にすまなかった……こんなになって……俺のせいで」

 胸が絞られるように痛んだ。こんな思いは父が亡くなったとき以来だった。

「リザ……リザ」

 短く美しい響きを持つ名が唇から溢れる。

 宙を飛んだ体を受け止められたのは幸いだった。

 あと少し到着が遅れていたら、大怪我をしていただろう。しかし、彼の腕の中で気を失いかけながらも彼女は勇敢だった。侍女を助けるために刃を持つ男に向かって行ったのだ。

 軽い体を受け止めた時、エルランドは見開かれた瞳の色に一瞬目を奪われた。それは五年前の儀式の折に覗き込んだ瞳。一瞬で彼を魅了したあの深く透明な藍。

 その瞳は今、びっしりと密生した睫毛に閉ざされている。

 エルランドは乱れた黒髪をそっと撫でた。その指は髪から頬、そして唇に触れていく。

「……」

 不意に体の奥に火が灯る。それは辺境統治の多忙さで、久しく忘れかけていたものだった。

 

 ……あなたは俺にとって、相変わらず危険な存在だな。


 五年も前に一晩一緒に過ごしただけの娘。あの頃でさえ、リザには彼を引きつける魅力があった。

 今でも華奢で小さいが、その体は確実な成長を遂げている。すんなりとした首筋になだらかな肩。だぶだぶの襟元から覗く丸みは確実に女のものだ。抱き上げた拍子にシャツから覗いた、うっすらと色づいた部分は一瞬で目に焼き付いてしまった。

「馬鹿な!」

 エルランドはかなりの努力をして、白い肌から目を逸らせた。自分には触れる権利などないのだ。彼女が起きていたら、こんな風に見つめることも許してくれないだろう。

 リザはエルランドの懊悩おうのうなど知らず、ぐっすりと眠っていた。あの夜と同じように、甘い吐息をこぼしながら。


 いつか、夫としてあなたに触れられる日が来るよう、俺はあなたに償い続けよう。

 それまで、どうか心やすらかに……リザ。

 

「……ん」

 小さく身動いだリザがうっすらと目を開ける。だが、布団の上からエルランドにぽんぽんと叩かれて、その瞼は再び閉ざされた。安心したように深い吐息を漏らし、深い眠りに入っていく。

「俺はあなたを守るから」

 心の中に熱いものがこみ上げるのを、エルランドは止めることはできなかった。


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