第31話30 二度目の夜 1

 馬上はどうにも居心地が悪かった。

 一昨日、初めて乗った時はまだ、だく足だったからそれほど揺れなかったが、今、高速で移動するこの動物の背中は、上下に大きく揺れて非常に乗り心地が悪い。進行方向に向かって横抱きにされているのもあるが、体を支える人物にどうしても身をゆだねられないのだ。

「リザ、体が固い。力を抜いた方が楽になる。うつむいていないで前を向いていなさい」

「……うう」

 しかし、どうしてもそうできないのだ。それにしゃったら舌を噛みそうで返事ができない。

 リザはどんどん気分が悪くなってきた。先ほどの男に首や胸をめられた時もそうだが、今度は逃れようがなく、連続して振動が続いている。

 次第に胃が絞られて、苦いものがせり上がってきた。


 だけど、この人の前で醜態は見せられない!

 

 それは、なけなしの矜持プライドだった。

 口中に広がる嫌な味を必死で飲み下す。冷や汗が止まらない。きっとひどい顔になっているだろう。

 そしてさらに悪いことに、上半身はほとんど裸なのである。バルトロに上着を脱がされた上に、シャツはびりびりに引き裂かれてしまった。前身ごろは肌を隠す役目をほとんど果たせていない。

 リザは両手で胸を隠して体を丸めたが、気分はどんどん悪くなるばかりだった。

 

 ああ、もうだめ! 吐いちゃう!

 

 ついにリザが両手で口を押えたとき、だしぬけに激しい揺れが停止した。馬が止まったのだ。

「着いた」

 いつの間にか村の広場に出ていた。時刻はちょうど昼頃だろうか。裏街道とは違って、人数は少ないが、人々が行き交っている。

 リザは先に下馬したエルランドに腰を救い上げられ、地面に下された。しかし、目が回って足が立たず、その場にへたり込んでしまった。

 同時に我慢していた吐き気がぐぅっとこみ上げる。もうどうしようもなくて、リザは土を踏み固めた広場に嘔吐してしまった。朝から何も食べていなかったので、出てくるものはただの苦酸っぱい胃液、そして生理的な涙だった。

「ううう〜」

「大丈夫だ。全部吐き出してしまいなさい。楽になる」

 丸めた小さな背中に、大きくて温かい手が添えられ、ゆっくりさすってくれている。

 しかし、その時のリザは、ただただ苦しく、酷い目眩めまいに打ちのめされていた。

 こんな情けなくも惨めな姿を誰にも見られたくない、消えてしまいたい。今の醜態は、リザの小さな自尊心を木っ端微塵にしてしまった。

 だから、背中に何か暖かいものが掛けられたことにも気がつかなかった。

「あれま、坊っちゃん。大丈夫かね?」

 近くで女の声がする。

「ああ、ただの馬酔いだから直ぐに治る。さ、これを」

 胃の中のものを吐ききったリザの口元に差し出されたのは、皮袋の水筒だった。

「苦しければ飲まなくていいから、口をすすいでごらん。気分が良くなるから」

 そう言ってエルランドは口金をリザの唇に含ませる。

 水は冷たかった。一度口を濯いでから、もう一口含んで飲み下す。気持ちの悪かった口腔や喉に、一筋の水脈が通って行くのがわかった。

「お二人さん。旅人でござろう? 今夜の宿はこのハーリ村かい?」

「ああ。まだ日が高いが、そのつもりだ」

「なら、あたしのところにござれよ。このすぐ近くだよ。私一人がやっているだで、宿としては小さいが、うまいものを食わすよ」

「そうか。なら世話になろうか。早くこの娘を休ませたい」

 リザが息を整えている間に、頭の上でそんな取り決めがなされていた。ちらりと見上げると、白髪混じりの中年の女だった。北方のなまりで喋っている。

「娘っ子? 坊ちゃんじゃなかったのかいね」

 大きな黒い上着がかけられているリザを見て、女は意外に思ったようだが、ほっとすることに、それ以上は聞いてこない。

「じゃあ、すまんが女将さん、案内してくれ」

 いうなり、エルランドは上着ごとリザを抱き上げる。

「う……あ、歩けます」

「そんな顔色で言うことじゃない。俺の方が馬よりは乗り心地はいいと思うぞ」

 エルランドは大股で女の後をついて行く。よく慣れた馬は手綱も引かれずに後をついてきた。

「ニーケが……」

「ああ心配するな。あいつらならすぐに俺たちを探し出す。それよりも」

「……?」

「今は俺たちのことだ。我が……我が妻よ」


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