第一章:やさしい内側
1ー1
「二葉ちゃーーん‼ 朝ですよーー‼」
「――……うっ」
そんなに大きな声を出さなくても私はとっくに目覚めている。私は生まれてこの方寝坊をした事が無い。前日にどれだけ疲労がたまっていても、午前六時きっかりに目が覚めるようになっている。二度寝なんて言わずもがなだ。
私のそんな自己主張を裏付けるように左腕のスマートウォッチはデジタル表示で5:57分を表示していた。どうやら中途半端な時間に起きたのが原因なのか寝起きがスッキリしない。何か強烈な衝撃が走ったように感じたけど、この世界では日常においてショッキングな事はそうそう起きない。あらゆる刺激にリスクは安全の範囲内において「楽しめる」娯楽と化している。そして私はそんな悪趣味な物に興味は無い。昨日も政府が推奨する就寝時間ギリギリまで受験勉強に身をやつしていた勤勉な学生なのだ。
「二葉ちゃーーーーーーん‼」
「ああうるさい! カズハ! ただでさえ狭いシェルターなの! 近所迷惑になるからモーニングコールはやめてって言っているでしょうが!」
私の声が真四角の屋内を反響する。壁を隔ててもよく通る彼女の声に比べるとどちらが騒々しいのやら……。でも睡眠時間くらいは独占したい。それはこの世界で許された唯一のプライバシーと言っても過言ではないのだから。
「……」
私の一言でピタリとおとなしくなる辺りカズハは忠実に役割を果たしている。できれば彼女には一生黙ったままでいて欲しいけど、それはそれで不便だ。
「……はぁ」
私はため息一つついて自室のドアを睨みつける。部屋に踏み込んで来ない辺りは日ごろの教育が功を奏したと言えるだろう。モーニングコールはどうしようか。それは彼女に課せられた「姉」としての役割を放棄させてしまう事に繋がるのだろうか。
スマートウォッチが振動で六時ちょうどを知らせる。意を決して私はスライドドアの前に立ってそのロックを解除した。
「二葉ちゃん‼」
「うげぇ……」
開幕、全身が甘くやわらかな感触に包まれる。約十センチの身長差、首から下はひしっとカズハに抱き着かれているのだ。
果たしてこれも「姉らしい」行動の一環なのだろうか。濃厚接触という言葉が前時代から現役で持ち越され、今や感染症をもたらす一番の要因が家族とされる中でこの手のスキンシップは推奨されない。
それでもカズハは……姉は「おはよう」と「おやすみ」の時にハグを欠かさない。私の存在を自身に刻みつけるように、私を手放すまいとその矮躯で縛り付けてくる。
「……ねえ、もういいんじゃないかしら。いい加減着替えたいのだけど」
「ああ、そうだったね。朝のお着替え、いい事だよね。気分をスッキリ変えて気持ちいい朝に。気を引き締めて今日も勉強頑張ろうね!」
そう言うとカズハは私からパッと離れてリビングへ向かう。トテトテと軽い足音を弾ませ、鼻歌交じりに歩く様は本当に自分の姉なのか、一五〇センチ前後はシェルターで重宝される背丈だけど姉妹間でこうもギャップがあると彼女の方が子供にしか見えない。
「まあ、厳密には姉じゃないし……」
私は言い訳を実行するべくバスルームに、パジャマを洗濯機に放り込む。そうしてまた同じパジャマ――正確には政府が室内着として着用を推奨している防菌・防汚機能の高い灰色のスウェットの上下――に着替えた。
「あーまたそんな可愛くない服着ている」
リビング兼ダイニングに着くなりカズハは私の服装にいちゃもんをつけてくる。
「別にいいでしょ。今日はまだどこかに出かける予定もないし、どうせ九時五時は勉強の時間。中学までは制服も無いんだから。それにこの格好だってある意味制服みたいなものじゃない」
「いくら政府で推奨されているからって、二葉ちゃんだって年頃の女の子なんだから流行のお洋服着た方が良いよ。二葉ちゃん可愛いから可愛い格好も絶対に似合うと思うし」
そんなカズハだって青いエプロンの下に着ているのはなんの変哲もない白のワンピース。資源の制約のあるシェルター社会において洗濯の負担が少ない、推奨される格好の一つだ。
そして地味な格好の彼女はガサゴソとどこからか流行のお洋服を取り出して私に突きつける。
「どう、これ、絶対に似合うと思うんだけど」
「……」
胸元や肩に押し当ててはサイズが間違っていない事を確認するカズハ。触れる度に金属やゴムの硬質な感触がするそれは見た目こそカズハが着ているワンピースの形状をしているけれど、材質は紙の如く薄い「画面」と呼ぶべきもので、スマートウォッチや通信環境と連動させることで表面の柄はもちろん、錯覚を利用してボリュームまで自在にあらゆるパターンを表示できる最新技術の結晶。映像紙を用いた服が流行である事は厭世を地で行く私でも知っている。
「重いからいや」
「えー。これ一着で二葉ちゃんをたっくさん可愛く出来るのに」
「欲望がダダ漏れじゃねーか」
ばれたか。カズハはてへへと呟くとようやくキッチンの方に向かう。全く朝食を食べるまでにどれだけ時間がかかるやら。
まあ、彼女が私よりも、人間よりも着飾る事はありえないのだけど。服装に凝るのであれば私よりもカズハの方がよっぽど似合うだろう。腰元まで伸びるつややかな絹のような黒髪、くりくりと愛嬌のあるタレ目、常に絶やさない天使のような微笑みに、年齢を感じさせない小柄な体型と行動。ほんと、精巧に作られた人形と呼ぶのがふさわしい。彼女であれば映像紙製の服を身に纏ってそこに表示される流行・役割通りの姿を問題なく演じることが出来る。
「ん、どうかした?」
「……なんでも」
ちょうど、私の姉を演じているように。
カズハは、そう、とそっけなく言うとテーブルに朝食を並べ始める。自分でも言うのはアレだけど、私の表情は、とりわけ目つきは常に相当に不機嫌だ。睨む事に慣れてしまってベリーショートの髪型と相まった迫力を知り合いから「肉食獣」と形容された事がある。彼女は私の怒りを知っていてなおニコニコしているのだろうか。だとすれば、相当に演技派だ。
「じゃあ食べようか。いただきまーす」
「……いただきます」
なんて両手を合わせているけれど、朝食といってもそれはお粗末なもの。皿の上に次々と「出力」されるのはトーストもどきに目玉焼きもどき、ベーコンもどきにレタスもどきの姿だ。かろうじてオレンジジュースはパックから注がれたものだけど、それだって私は原材料がオレンジでは無い、合成された何かである事を知っている。前時代の味覚アーカイブから味を再現したプリント食物。資源の少ない日本のシェルターで食物の合成技術は画期的なものだったけど、狭いテーブルに広がる料理は8Kでみた映像と比べても色あせていて――
「……味が薄い」
「あれ? 二葉ちゃんは味が薄い方が落ち着くと思ったんだけどなぁ……」
それはリサーチ不足だ。私は確かに味が濃い食事にトラウマを刺激されない訳じゃない。でも、薄味よりも濃い方が好みだ。
「昨日も、もう何度か薄いって言ったのだけど。いい加減プレートの調整間違えてない?」
「ううん。今日も通常モードで出力したはずなんだけどなぁ……おかしいなぁ……」
だとするとプレートそのものが薄味に出来るように作られているとしか考えられない。そう言えばあの時に食べたのは見た目が焼き物のような高級そうなプレートだった。なるほど、普段はあの人達も私のための薄味に付き合ってくれていたわけだ。
「だったら遺産にそれも残してくれれば良かったのに」
「ええっと……お醤油かける……?」
「別に、もったいないから食べるわよ」
飽きているだけで、もう十四年は食べ続けているのだから抵抗は無い。シェルターの資源が限られているように、両親の遺産も限られている。一人と一体が成人するまで生活する分には社会福祉の手助けもあって充分ではあるけど、無駄な出費は抑えた方が点数的にも好ましい。
「もっつ、もっつ……」
私は半ばやけくそに食べ物を突っ込んでゆく。味なんて胃のなかに収めてしまえば全て一緒だ。トーストに目玉焼きとベーコンとレタスを挟んでオレンジジュースを流し込む。全く味気ない食事があっという間に終わる。
「ふふっ」
「……何がおかしいの」
「二葉ちゃん子リスみたいで頬袋かわいいなあって」
「うっさい!」
私は視線から逃げるようにカズハから顔をそむけるとスマートウォッチを捜査して壁にニュース番組を表示させた。映像紙が作る一面の大画面、そこには続々とあらゆる情報が表示されてゆく。私はその中から興味のありそうなチャンネルをザッピングしては画面を分割して貼り付けてゆく。テレビ局が解体されてもう何百年、いまや個人が運営するチャンネルが何千と存在しているのだから、見る物を一つ決めるのだけでも一苦労だ。
「……」
作業の片手間にチラとカズハの方を見る。彼女は私とは対照的にトーストは両手で、目玉焼きにベーコンはナイフとフォークを使って丁寧に食べている。その様子は食べ物を慈しんですらいるようで、この人形は母性だけで出来ているのではと呆れる。
「……! えへへ」
「……」
目線が合ってしまった。一々笑顔なんて向けないでよ……。
「はぁ……」
前時代には家族の、社会からの愛情を受けられなかった事もあったそうだ。それに比べると私の人生というのは愛情に全く事欠かないのだろう。
でも、朝からここまで濃密だと……プリント食物は完全食で栄養バランスは完璧なのに胃もたれしてしまう。
結局、壁には何十というウインドウが敷き詰められたまま、朝の時間が積み上げられてゆく。
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