第18話 ありがとうと

「花火をするから出てこいよ」と少年から声がかかった。読みかけの本を放っぽり出して出かけようとする兄に、わたしが金魚のふんよろしく後に続いた。それを見咎めた父に、「近くでやりなさい」と止められた。

 しかし少年は、国道の向こう側の松林の中でやりたいと言った。途端に父が血相を変えて「だめだ、国道を渡るなんてとんでもない」と声を荒げた。わたしの自動車事故がトラウマになっているのだ。兄に対しても「夜に道路を横切るようなことはするな!」と、平生から口を酸っぱくして言っていた。

 その因が、わたしの事故によるものだと知った少年が、わたしに対する憎悪の念を持ったとしてもなんら不思議なことではない。わたしが少年に意地悪されたと主張すると「海で溺れかけている子どもに対して、そんなひどいことは誰もしない」と、皆が皆言う。「子どもは純真だ」。皆がそう言う。まれにとんでもない子どもがいるが、それは家庭環境がひどすぎるかわいそうな子どもだとも。

 しかしわたしは知っている。子どもは時として、天使にも悪魔にもなる。本能の赴くままに行動する生きものだ。子どもだからこそ恐ろしいことをするのだ。わたしからがしてそうなのだから。兄がこっぴどく叱られている場面で、その因がわたしにあったとしても、父親の膝の上で喜んでいられるのだ。どれほどそれが残酷な事か、相手がどれほど傷つくのか、なんら顧みることはないのだ。

 兄の案内で少年の家に赴いた父は、あろうことかその少年の手を取って「ありがとう、ありがとう」と感謝の言葉を口にしていた。唖然とするわたしの目の前で「お陰で助かりました。お礼は後日にまた」と、その両親に向かって深々と頭を下げたのだ。あのプライドの高い父が、決して他人に頭を下げることのなかった父が、玄関の土間において、土下座をせんばかりに。その両親の後ろからピョンピョンと跳び上がって事の成り行きを見ていた少年は、そんな父を確認してから小しゃくにも前に出てきたのだ。

 見ていたのだ、怒っているのかどうなのかを。自分が前に出て殴られることがないと分かってから、ふんと鼻を鳴らしながら出てきたのだ。俺が助けたんだとばかりに、胸を張って出てきた。

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