第13話 八月十九日に起きた

 そしてその事件は、お盆の過ぎた八月十九日に起きた。その日にちは、今でもはっきりと覚えている。一人で小島に渡った日だった。いつものカンカン照りの日で、ざっと夕立ちも来たような気がする。

 彼方の水平線には二艘か三艘のヨットが走っていた。青い空に青い海、それを背景にした真っ白い帆が眩しかった。「白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まらずただよふ」という牧水の短歌にぴったりの情景だ。

 ひとりで熱中していたがためか、それとも小島に渡ったのが遅かったゆえか、気がつくと満潮の時間になっていてトンボロ現象は終わっていた。その日が大潮だったせいなのだろうか、普段よりも深い状態になっていた。

 浜辺にはまばらにしか人がおらず、大声で叫んでみたが誰も応えてはくれなかった。じわりじわりと涙が溢れてきたが、兄に対する父親の言葉を思い出してぐっと飲み込んだ。晩酌の酔いが回るにつれて、兄を正座させて叱りつけた。普通に話すことが出来ない父親で、常に叱り飛ばす口調になってしまう。なのに、こう言っていた。

「いいか。弟を泣かせるようなことはするな。人の上に立つ人間は、常に下の者を慮らなきゃいかん。しっかりと肝に銘じろ」

 兄も、中学生になったばかりなのだ。かしこまって聞いてはいるけれども、その意味を理解しているのかどうか怪しい。言葉上での意味は分かっているだろう。しかし、しっかりと咀嚼した上でのことかどうか……、反発心が湧かないとはいえないだろう。それでも神妙な顔つきでいたのは、ただただ、父親の怒りを買いたくないためなのだ。とにかく、酒に酔った父は、見境がなくなってしまう。ちゃぶ台返しは勿論のこと、時には木の椀やら陶器の皿が飛んでくることもある。

 兄の叱られる姿が浮かび、なんとしてでも帰らねばと思い立った。通り道になる場所から海に入ってみると、やはりすぐに足が着かなくなった。しかし不思議と、不安な気持ちはなかった。浜辺に向かって進めば何とか帰ることができる。何の根拠もない自信のようなものが湧いてきた。おそらくは、浜辺に出来ている磯波を見たからではないかと思う。沖から浜辺に向かって波が動いている。その波に乗れば、簡単に戻ることができる。そんな思いだったと思う。とにもかくにも泳ぎ出さねば事は進まない。両手を前に突き出して、足を大きく広げてそして蹴った。ひとかきで随分と進めた気がしたわたしは気をよくして、二度三度と足を蹴った。足の裏にしっかりとした水の抵抗を感じて、だんだんと(将来はオリンピックの水泳選手になれるぞ)などという気持ちが湧いてきて、嬉しくなっていった。


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