第8話 海水浴場で

 その散髪店で、夜にテレビでプロ野球観戦をしたはずだ。一人で行ったのか、父と一緒だったかは判然としないけれども、そこで驚いたことがある。客の一人かそれとも店主だったかが「なんだあ? 長嶋のやつ、くそボールを打ちやがった。それでホームランだと! 化け物か、あいつは」と、感嘆とも怨嗟ともとれる声を上げた……ような気がする。

 それが事実なのか、それとも記憶の彼方の思い込みなのか。九州においては圧倒的に西鉄ライオンズファンが多い地域であり、その西鉄がパリーグ所属とあっては、セリーグ所属の巨人の試合放送が流れたのかどうか……。やはり、思い込みかもしれない。因みに、当時の私の贔屓選手は中西太選手だった。

 いや、待て待て。おかしなことだ。夜に出かける? 父と一緒? ありえないことだ。父と一緒だとしても、食事以外での外出など決してない。思い出してきた、散髪店には昼中に兄と一緒に出かけた。兄が指定した慎太郎刈りの格好良さに、自分もと言った記憶がある。

 ならば、赤い顔をした大人たちは何だったのか。ただ単に赤ら顔だということではないはずだ。確かに酒臭かった。父と同じ匂いがしたのだ、これは間違いがない。案外に、昼間から酒浸りの大人たちだったのかもしれない。しかし……、一度ではなく何度か店には入った気がする、然も夜に。

 その海水浴場で覚えているのは、もう一つある。断定は出来ないけれども、能舞台らしきものを見た記憶がある。しっかりとした屋根付きの、三方を開け放した三間四方の本舞台だ。相当に古い建物で、あちこちが朽ち果てかけている。本来なら橋懸かりがあるはずなのだろうが、本舞台のみが残っていた。

 鏡板らしい奥の板には何やら描かれていたらしい跡があるけれども、かすれ状態が激しく判別できなかった。松の絵が描かれているとすれば、間違いなく能舞台と言うことになるのだけれども。そもそも、浜辺に能舞台が存在するのかどうか、もし存在していたとしたら何故なのか、興味は尽きないけれども、10歳ほどの子どもが興味を持つことではなかった。

 一度その板の上で跳ね回っているときに砂が原因で滑ってしまった。ささくれだった板の切れ端でふくらはぎから大量の血が出て――当時のわたしにはそう思えた――大声で泣きながら戻った。その夜に父の知ることとなり、兄がこっぴどく叱られた。

「一人で遊ばせるな!」

「だって、かってにどこかに行っちゃうから」

 そんな弁解で矛を収めるような父ではない。かえって怒りを誘い「わしの言うことが聞けんのか!」と、平手打ちが飛んでしまった。わたしはと言えば、父の膝の上で拍手をせんばかりに上機嫌だった。同じ年頃の子どもがいないわたしにとっては、兄だけが遊び相手だったのだ。いくら道理の分からぬ幼子だとはいえ、兄には申し訳ないことをしたと思っている。

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