第5話 従兄の家出
あの頃の母に対する記憶が、わたしにはまったくない。いや、ほとんどない。あるのは、わたし自身の記憶ではなく、従兄から聞かされたー母ちゃんのおっぱいを「パイパイ」って、しょっちゅう飲んでたぞーということだけだ。その折の苦虫をかみつぶした父の顔は、日頃の厳格な父に対する反発があって、従兄には溜飲の下がる思いだったとか。
「お前は、商業高校に行け。そこで簿記なりをしっかりと覚えて、店の役立つ人間になれ。お前の父親である、わしの兄さんが今際の際に言ったんだ。『山本家はお前が盛り立ててくれ。そのときには、わしの息子を頼むぞ』とな。だから、この跡取りを支えてやってくれ」
これといって将来の絵図を書いていたわけでもない従兄にすれば、中学に入ったばかりの自分を叔父が面倒をみてくれている事に対する感謝の気持ちは強かった。精一杯の恩返しをせねば、とも考えていた。しかし毎日毎日小言を言われ続ける内に、次第に反発心が芽生えてきた。
あるとき、店の女店員と夕食後に店の裏で話し込んでいる場面を見咎められてしまい「小僧のくせに色気づくとは!」と、竹箒で幾度となく叩かれた。そしてその女店員も「二十歳にもならん小娘が!」と、親元に送り返されてしまった。
父にしてみれば、親元から預かっている娘たちを慮ってのことかもしれない。そしてその頃学業に身が入らずにいた従兄を、叱っただけのつもりかもしれない。しかし従兄は、その窮屈さに息が詰まりそうになっていると母に愚痴をこぼしていた。結局従兄は、父の命令に逆らい自衛隊に入隊してしまった。母が承諾書のようなものに記名したらしい。家出同然の形になってしまい「おまえはわしの計画をぶち壊した!」と、母はしばらくの間詰られ続けた。あの父のことだ、殴りつけていただろう。まさかとは思うが足蹴にしたとも考えられる。戦後から6年ほど後のことだ、あり得る話のはずだ。
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