11ハクション ビーボーイビーダーリン

「ん……もう昼か。そろそろ起きるか」


 ビバ春休み。

 時計を見ればもう正午を回っていた。我ながらよく寝た物だ。

 学校がある日はこうはいかないないが、休みの日は約束や用事がなければ花菜も起こしにこない。夜遅く寝て朝遅く起きる、これこそ最高の贅沢だ。規則正しい生活? 何それ美味しいのってなもんだ。


「ふあ~あ……腹減ったな」


 たっぷり睡眠を摂った体は餓えと渇きを訴えていた。ベッドを抜け出て1階の居間へと降りる。


「ふぁ……母さん何か食べる物用意してるかな」


 うちの母親、稲村かすみは在宅でシステムエンジニアの仕事をしている。週に一度の本社への打ち合わせ以外は、いつも家のPCとにらめっこだ。プログラマーとしては一流の様で、役所勤めの父さんより稼いでいて我が家の家計を支えている。

 反面、家事は苦手だ。

 やらない訳ではないが、あまりやりたくないらしい。父さんと分担して、トイレや風呂掃除なんかは俺も手伝ってなんとか家事をこなしている。

 俺が家にいる事が多い春休みはたまに昼飯を作ってくれるが、基本はスーパーやコンビニで買ってきたり冷凍食品を温めたりで乗り切っている。

 俺も料理を作るのはあまりやってこなかったから文句は言わない。自分でやれないのだから文句なんて言えるはずもない。出されたものを黙って食べるのみだ。


「母さん何か食うもんある? ……臭っ!」


 居間の扉を開けると刺激臭が鼻を刺した。思わず鼻をつまむ。


「あ、春太郎君お邪魔してます。ごめんね、息子がうんちしちゃって」


 ちゃぶ台のそばで赤ちゃんのおしめを換えながら俺に挨拶をくれたのは向かいに住む若夫婦、山田さんの奥さんだ。


「こんにちは。実家から戻られたんですね。男の子ですか、おめでとうございます」


 子供が生まれてしばらく奥さんは実家に帰っていた。出産前は綺麗なロングヘアーだったが、動きやすさを重視してかサッパリとショートカットにしている。うちの母さんの髪も短いが、昔は背中までとかなり伸ばしていたらしい。出産を機に髪をバッサリと切ってしまう女性は少なくないようだ。


「息子のゆうです。夕方の夕でそのままユウって読むのよ」


 ゆう君はおしめを替えられながら母親似の大きな目で俺を見た。赤ちゃんって皆どこか不遜な表情で、ふてぶてしさがたまらなく可愛い。思わず頬が弛む。


「ちょっと春太郎、お客さんの前でだらしない。顔洗って寝グセも直して来なさい。ついでにパジャマも着替えて。その間にご飯用意しておくから」


 牛乳瓶の底の様な分厚い眼鏡を光らせて俺を嗜めると、母さんは台所に向かった。コンロの上にはアルミ鍋がセットしてある。どうやら昼飯は鍋焼きうどんらしい。


「ふぁ~い。顔洗って出直して来ます」


 身だしなみを整え居間に戻るとおしめの交換は終わっていて、夕君は泣くこともなく上機嫌そうにお母さんに抱かれていた。抱かせて貰おうとちゃぶ台に近づいた時、山田さんの奥さんが夕君を抱いたまま突然苦しそうに呻き声をあげた。


「痛い……お腹が凄く痛い……痛い!」


 母さんも異変に気がついて、慌てて駆け寄って背中をさすり出した。山田さんはとても苦しそうで、母さんに夕君を渡すと畳にうずくまって悶える。


「痛い痛い痛い……」


「春太郎、救急車呼んで!」


「わかった、救急車救急車……」


 深呼吸をひとつして自分を落ち着かせた後、119番をして救急車を頼んだ。



 ◇


 5分ほどで家の前に救急車が到着。母さんが付き添いで一緒に乗り込み、病院へと勢いよく走っていくのを玄関先で見届ける。

 つまり、夕君は俺の腕の中だ。


「マジか……赤ちゃんの面倒なんて見た事ないぞ」


 途方に暮れたくなるが、そうも言っていられない。

 なんとか山田さんのご主人が迎えに来るまで俺が守らなければ。あまり風にあたるのもよくないかもしれない、居間に戻ろうした時、隣の家のドアから幼馴染みが姿を見せた。


「春太郎、救急車来て……その子は?」


「山田さんとこの赤ちゃん。夕君っていう男の子だってさ。うちで遊んでたら山田さんの奥さんが急に具合を悪くして、母さんが付き添いで病院に行った。その結果だよ。すみれおばさんは?」


 そうだ、おばさんがいてくれたら百人力。助けて貰おうと花菜に聞くが、世の中甘くないらしい。


「お母さんは買い物に出掛けていないけど。ひょっとして春太郎一人?」


「ああ。悪いけど暇だったら一緒にいてくれないか。俺だけじゃ不安だ」


 夕君はまだ3ヶ月だ。ミルクは3時間ごとにあげなくちゃいけないし、首も座ってない。ひとときも目を離せない。


「うん、大丈夫。私も一緒に子守りする。ハッ、ハッ……『春太郎と子育ての予行練習!』」


 確かに、今のうちに赤ちゃんのお世話を経験しておけば立派なイクメンになれるだろう。家事は得意な花菜に任せるかもしれないけど、子育ては分担するもんじゃない。二人でやるのが大前提だ。


「ありがと、助かるよ」


「でもスゴいね。お母さんと離れちゃっても全然泣かないんだ」


 俺の腕の中で夕君は大人しく、とてもいい子だった。


「さっきまでは泣いてたんだ。だけど山田さんの奥さんが泣かないでって声を掛けたらピタリと泣き止んでさ。強い子だ」


「へえ、やっぱり男の子だね。お母さんに心配かけたくないないんだよきっと」


 花菜を伴って居間に戻る。夕君を抱いたまま畳に腰を下ろすと俺のお腹がグゥと鳴った。


「そう言えば何も食べてなかったな」


 コンロの上には調理途中の鍋焼きうどん。


「お昼食べてないの? あのうどん作っちゃえばいい?」


 自分でやるよと言いたい所だが、夕君を見ると瞼を重そうにしていて眠りそうだ。完全に寝入ってしまえば解放されるし、花菜の言葉に甘えるとしよう。


「ああ、頼むよ」


「うん、待ってて」


 台所に立つとカチッと火が着く音がして、しばらくしてちゃぶ台に鍋焼きうどんが運ばれてきた。しかし、まだ夕君は寝入っていない。


「私が抱いておくから食べちゃっていいよ」


 花菜はそう言って手を伸ばすが、その表情は強張っていた。


「あれ、抱くの怖い?」


「う、うん。首が座ってない赤ちゃん抱くのなんて初めてだし、ちょっと怖い」


「大丈夫だよ。ほら、こうやってちゃんと首を支えてあげれば……」


「おぎゃああああ!」


 花菜の腕に触れた瞬間に泣き出してしまった。慌てて抱き直して、ヨシヨシと揺りかごの様に揺らしてあやす。


「おぎゃ……すぅ……」


「ごめん、私じゃダメみたいだね」


 しょんぼりと肩を落とす幼馴染み。

 普通こういうのは女の人以外がダメなのが定番だと思うが、花菜の不安な気持ちが伝わってしまうのかもしれない。


「怖がってるのがわかるのかもね。うーん、まあ仕方ない。昼飯は我慢しよう」


「我慢なんてダメだよ。山田さんの旦那さんって今日お仕事なんでしょ? すぐには迎えに来られないだろうし……あっ、そうだ」


 レンゲを手に取ると、パスタの様にうどんの麺をレンゲの上でくるくると巻いて、フーフーしてから俺に差し出す。


「はい、あーん」


「あーん」


 モグモグ、これじゃどっちが赤ちゃんかわかんねえな。


「春太郎くん、おまんまおいちいでちゅかー?」


「おいちい! じゃねーよ。子供扱いするなって」


 本当は「花菜ママー! おいちいよぉ、撫で撫でしてえ! 撫で撫でしてえ!」とオギャりたい所だがグッとこらえる。


「ふふ、冗談だよ。春太郎は可愛いっていうよりカッコいい……ゲフンゲフン、こんな大きな赤ちゃんいないし。ハッ、ハッ『春太郎は私の子供じゃなくて旦那さんだし!』」


 確かに俺にとっての花菜もママじゃなくて恋人で嫁さんだ。今はただの幼馴染みだけど、いつか、きっと……あれ?


「今のくしゃみで夕君が笑った?」


 見間違いじゃない。ニッコリと笑った。


「くしゃみで? そんな事ある? ハッ、ハッ……『いつか春太郎の子供が欲しい!』……あ、ホントだ」


 言葉がわからない赤ちゃんでも、花菜のくしゃみが正直で素直な心の声だって事はわかるのだろう。ニンマリと笑顔になった。


「今なら抱けるかも。ほら、花菜」


 夕君を渡そうとするけど、まだ花菜の手付きはビクビクとおっかなかった。


「おぎゃ、おぎゃ……」


「どうしよう、また泣きそうに……ハッ、『春太郎大好き!』」


 花菜のくしゃみにニコリと笑った。その隙に花菜の腕に夕君を滑り込ませる。


「よっと、抱けたじゃん」


 夕君をしっかりと抱き止めた花菜は嬉しそうに表情を崩した。


「夕君変わってるね。私のくしゃみが面白いなんて」


 クラスメイトを始め某俺の親友とか毎回爆笑してるぞ。俺はムズ痒い事この上ないけど。


「そうだな、変わってるな」


 変わってるのは花菜のくしゃみの方なのだが、指摘する訳にもいかない。言葉足らずで流してしまおう。


 花菜が抱っこしてくれてる間にうどんを平らげ、アルミ鍋を捨てようと立ち上がったら家電が鳴った。


「はい稲村です。あ、山田さんですか、はい、春太郎です。いえ、大人しいんで助かってます。はい、わかりました」


 電話を切り、アルミ鍋をゴミ箱に突っ込んでお湯の準備に取り掛かる。


「山田さんの旦那さん? 何て?」


「夕方ぐらいになるってさ。タイミング悪い事に隣の県に出張してて、切り上げて戻るって言ってたけどもう少しかかるみたい。ミルクの準備するよ」


「粉ミルク? 作れる?」


「ああ。スマホで調べながらやるから大丈夫」


 電気ポットに水をためて、ミルクメニューを選択。奥さんの置いていったベビーバッグを漁って哺乳瓶と粉ミルクをゲット。


「最近の粉ミルクってキューブタイプなんだな。こりゃ計らなくていいから楽でいいや」


 お湯もボタン一つだし、どんどん便利になってる。これなら俺でも出来そうだ。

 円を描くように哺乳瓶を振って、水にさらして人肌まで冷ましたら完成だ。


「出来た。はい、花菜からあげて」


「うん。ほら夕君、ご飯でちゅよー」


 すっかり花菜の腕の中にも慣れたらしい。哺乳瓶をその小さな口にあてがうと凄い勢いで吸い始めた。


「すごーい! お腹空いてたんだね、みるみる内に無くなってく!」


「そう言えば吸う力は大人より赤ちゃんの方が強いんだってさ」


 通常、笛は吹く物だが、子供だと吸っても音が鳴るのだという。乳首を切ってしまう事もあるというし、本当にお母さんは大変だ。


「へえ。じゃあ春太郎なら優しく吸ってくれるって事?」


 は?


「何を?」


「何をって、そんなのおっ……な、何でもない! 忘れて!」


 勿論優しく、それこそ破ってはならない金魚すくいのポイを扱うかの様な心構えでいるが、気まずくなってもいけないから花菜の言う通りにスルーしておこう。


「偉いね夕君、全部飲めたね。えっと、ゲップさせなきゃいけないんだよね」


「ああ。背中をトントンして……」


 軽く起き上がらせて、背中を叩いてやるとすぐにゲップしてくれた。マジで手のかからないイイ子だ。

 

 お腹が満たされたら後は寝るだけだ。すぐにすやすやと寝入ってくれた。山田さんの持ってきたバスケットに下ろし、ようやく一息つく。


「こりゃ大変だな」


 たった一時間のお世話でこれだ。世の中のお母さん達には本当に頭が下がる。


「でも可愛いよ。ねえ春太郎、春太郎は子供何人欲しいとかある?」


「そうだな、俺が一人っ子だったから兄弟がいた方が寂しくないかなあって思うけど」


 俺も花菜も一人っ子だ。両親は二人目を考えていたそうだが、3度目の流産で諦めたときいた。仕方のない事だが兄弟がいる他の家庭を羨ましいと感じた時もある。


「それは私もそう。だけど、私は寂しいって思った事ないなあ」


 物心ついた時には既に隣には花菜がいた。今までずーっと一緒だった。それこそ家族の様に。


「そうだな。花菜がいるから寂しくなんてなかったよ。若葉ちゃんは妹みたいなモノだし」


「うん! 春太郎がいてくれて良かった」


 俺も心からそう思う。この場所に家を建てようとした事だけは、両親に感謝しかない。お陰で花菜と出会えた。特別な存在になり得た。


「可愛いね赤ちゃん」


「ああ、可愛いな」


 それから旦那さんが迎えに来るまで、いつか築く花菜との家庭を想像しながら穏やかな時間が流れた。



 ◇◆◇


「おぎゃあ! おぎゃああ!」


 夕方、玄関先にて。迎えに来たお父さんに抱かれ夕君は大泣きしていた。


「ずっと妻と実家にいたからね、僕の事はまだ慣れてないんだよ」


 そう言って旦那さんは苦笑した。 

 奥さんは盲腸の診断を受けたそうだ。幸い軽度らしく、手術の必要もないらしい。2日ほどで退院出来るという。夕君を見なくちゃいけないから病院に行けない旦那さんの代わりに、今日はうちの母さんが病院に泊まっていくそうだ。


「奥さんが戻ってくるまで大変だと思いますが頑張ってください」


「うん、大変だろうけど、妻には悪いけど丁度良かったよ」


「丁度良い?」


「こんな機会でもないと3ヶ月の息子と二人きりなんてならなかっただろうから。僕も父親なんだから、この際に妻の気持ちを少しでもわかろうと思う。育休も1ヶ月申請してきたんだ」


 イクメンなんて言葉が流行ってるが、実際は中々難しいだろう。奥さんに頼りっぱなしになるのも無理はない。

 でも、山田さんのご主人の様に大変さに気付けたらそれがイクメンへの第一歩じゃないか、そう思う。そういう意味では俺も今日はいい経験が出来た。


「そう言えば山田さん、夕君の名前の由来って聞いてもいいですか?」


 夕の一文字って結構変わってると思う。ユウと読ませるなら男の子なら勇が多いだろうし、女の子なら優が一般的だろう。


「僕が付けたんだけどね、産まれた時間が今みたいな夕方だったんだ。分娩室の外でソワソワしながら待ってたら不意に元気な鳴き声が聞こえてきてさ、その時に廊下から見えた夕陽が綺麗でね。夕にしたんだよ」


 花菜の名前の由来とよく似ている。重蔵おじさんから聞いた話では花菜が産まれて、初めてすみれおばさんの腕に抱かれた娘を見た。その時、妻の腕の中に綺麗な花束が見えたんだって。それで花菜と名付けたそう。


「素敵ですね。夕君に教えてあげたらきっと喜びますよ」


 ちなみに俺は春に産まれた太郎の息子だから春太郎らしい。安易かよ。けど、春は花が一番綺麗な季節だ。花菜にとっての春みたいな存在でありたい、そう願う俺にはピッタリな名前だろう。


「ありがとう。花菜ちゃんも、お世話になりました。で、二人はいつ結婚するの?」


「や、山田さん何言ってるの! 家が隣なだけ……ハッ……『18歳の誕生日に結婚したい!』」


「あははは、じゃあ、ありがとう。また改めてお礼に来ます。それじゃ」


 夕焼けと同じぐらい真っ赤になって否定するけど、くしゃみはやっぱり正直で、その音でまた夕君はピタリと泣き止んで、笑った。



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