7ハクション 心葉(ここのは)芽吹く
「ふあ~ぁ……っと、シャキッとしろシャキッと」
頬を軽くピシャリと叩いて眠気を払う。
これからバイトなのだ。
え? バイトしてる暇があったら告白する為に勉強しろって?
ごもっともな指摘だが、このバイトは雇い主が雇い主だから断れないのだ。
それに、これも花菜の為と言えない事もない。
仕事道具でパンパンになったリュックを背負って靴を履く。
時刻は9時過ぎ。春休みと言ってもそれは学生だけだ。役場勤めの父は勿論だが、普段は在宅仕事の母も珍しく会社へと打ち合わせに行っている。
「行ってきます」
誰もいない玄関に空しく響かせてドアを開ける。
自宅を出て、右向け右。そこから10歩行けばバイト先に到着だ。
――ピーンポーン――
ガチャリとドアが開いて、花菜が俺を迎えてくれる。その表情はあまり明るくない。
「おはよ春太郎。今日もよろしくね。若葉、もうリビングにいるから。シフォンケーキがキッチンの調理台に置いてあるから良かったら食べて。じゃあ私、部屋にいるから」
用件だけ伝えると花菜は2階の自室へと階段を昇っていった。
「お邪魔します」
ドアに鍵をかけて、脱いだ靴を丁寧に揃えて家に上がる。花菜の部屋に続く階段を一瞥して短い廊下をリビングへと真っ直ぐ進む。
コンコンコン、と3回ノックして返事を待たずに扉を開けた。
「おはよう若葉ちゃん。今日もよろしくね」
ダイニングの椅子には花菜によく似たショートカットの女の子が座っていた。
杉野若葉ちゃんは花菜の従姉妹で中学2年生。花菜の父親、重蔵おじさんの妹さんの一人娘だ。二人は本当によく似ていて、姉妹と言われても誰も疑う人間はいないだろう。とてもじゃないが、若葉ちゃんを雛岸には会わせられない。確実に事案になる。とりあえず口に含もうとはするだろう。後輩から犯罪者を出す訳にはいかない。
「おはようお兄ちゃん」
3年前、若葉ちゃんの両親が離婚するしないで揉めていた時は花菜の家で彼女を預かっていた。若葉ちゃんの名字が杉野なのはそういう経緯がある。その時にずっと一緒に遊んでいたから俺にも懐いてくれている。
「じゃあ、まずは宿題を出して貰おうかな」
「はーい先生」
既にダイニングテーブルに宿題はまとめて置いてあった。手に取ってチェックする。指定した範囲が綺麗にノートに纏められていた。うんうん、ちゃんとやってきたみたいだ。
「いいね。やれと言った事は全部きちんとやってきてくれるから教える方も楽だよ」
バイトとは若葉ちゃんの家庭教師の事だ。
若葉ちゃんはずっと、天才の従姉と比べられてきた。
なまじ顔が似ているから、若葉ちゃんも花菜の様に完璧な人間なのだろうと思われてきた。
実際、若葉ちゃんは優秀だ。普通に勉強していればこの辺で一番の進学校である北高にも入れるはずだ。
だけど、花菜ほどじゃなかった。
周囲は期待しすぎた。母親一人だから尚更立派に育てないといけないと若葉ちゃんのお母さんもとにかく「花菜の様に」とプレッシャーを与え続けた。
家がそれほど遠くなく、俺達と中学が同じなのも良くなかったのだろう。教師からも花菜と比べられ、期待外れだと失望された事もあるらしい。
結果、若葉ちゃんは学校に行けなくなった。
学校の門を越えると吐き気が止まらなくて、制服だって肌が痒くなって着られないという。
不登校になって、もう半年以上になる。
それでも若葉ちゃんは勉強自体は好きなようで、復学を見据えているから塾だけでも通おうとした。
けど駄目だった。塾に通って少し経ったある日、講師から何気無く「そう言えば杉野さんって北高の生徒会長さんの従妹なんだよね?」と声を掛けられたらしい。比較された訳じゃないし、悪気もなかった。だけど若葉ちゃんの体は反応してしまった。
そうして塾にも行けなくなった若葉ちゃんに、事もあろうか、彼女の母親は花菜に勉強を教えて欲しいと頼んできた。花菜から教わる事で苦手意識が薄くなるかもしれない、そう考えたようだ。
でも案の定というか、やはり駄目だった。
花菜は天才肌だ。人に教えるのが苦手というか、俺みたいな一般人にはアイツの教えを理解できないのだ。花菜は問題を解くのに回りくどい事なんてしない。漢字でも英単語でも一度目にすれば覚えられるし、公式なんかも頭の中で選択する前に答えが出ている。花菜の異常なまでの優秀さに間近で触れた事で、若葉ちゃんの劣等感は更に酷くなってしまった。
花菜の授業も受けられなくなった。
これには花菜の方が心に傷を負ってしまい、若葉ちゃんが学校に行けなくなったのは自分のせいだと責めた。
泣きながら花菜に相談されて、俺が若葉ちゃんの勉強を見る事にした。
なに、俺も凡人だ。漢字だって何回もノートに書いて覚えるし、テスト前は休み時間ギリギリまで教科書に目を通している。勉強の仕方は花菜よりもずっと詳しい。おまけに若葉ちゃんも努力家で、わからない事はきちんと聞いてくれる。小さい頃からよく遊んでいた事もあってか、俺の授業なら受ける事が出来た。学校に行かなくても学力はキープ出来ていた。
「えっと、今日は新しい問題集を持ってきたんだ。これさえやればテストでも点を取れると思うから頑張ろう」
リュックから問題集を取り出して机の上に並べる。
「はい先生」
授業は順調に進む。
若葉ちゃんに教えているとき、花菜はいつも2階の自室に籠る。最近では若葉ちゃんの為には自分はいない方がいいなんて極端な事を感じているみたいだ。自分は若葉ちゃんに嫌われている、そんな風に思っている。
そんな事ないのに。
「ねえお兄ちゃん、今週のお姉ちゃんはどうだった? 何か面白い事あった?」
「バスケ部の助っ人で試合があってね。もう凄かったよ。一人で30点以上取ってた」
毎回、授業中の雑談のネタは花菜の事ばかりだ。いつもこうして若葉ちゃんは花菜の事を聞いてくる。花菜と比べられる事で体に影響は出てしまうけど、花菜の事は今も大好きなお姉ちゃんなのだ。だけど、ここ最近はまともに顔も合わせてはいない。
雑談を交えながら授業をしていると、不意にリビングのドアが開いて花菜が入ってきた。
「ご、ごめんね。シフォンケーキの生クリーム出すの忘れてて。ハッ、ハッ、『すぐ出ていくからごめんね若葉』」」
若葉ちゃんと視線を合わせないよう隅を歩いてキッチンに立つと、冷蔵庫から生クリームを取り出して、ボールに保冷剤を敷いてその上に生クリームの容器を置いた。そしてそそくさとリビングを出ていく。
「ハッ、ハッ、『こんなお姉ちゃんでごめんね』。ハッ、『大好きだよ若葉』」
トントントンと階段を駆け上がる音に混じって、寂しそうなくしゃみの音が聞こえてきた。若葉ちゃんの表情も曇る。
「休憩にしようか。花菜がケーキ焼いてくれたみたいだし、頂こう」
若葉ちゃんの沈んだ気持ちを切り替えようと区切りで休憩を入れた。
ノートや問題集を端に寄せてスペースを空けて、花菜の用意してくれたおやつを食べる。
フワフワのメープルのシフォンケーキに甘すぎない生クリームがとてもよく合っていて美味しかった。
「美味しい! お姉ちゃんお菓子も作れるんだ!」
非の打ち所のないシフォンケーキ。特別な事はしていないと思う。お菓子作りはとにかく分量とか時間とか、レシピ通りにやるのが一番のコツだって花菜は言っていた。
「何だか最近料理にハマってるみたいだよ」
「花嫁修業って事? お兄ちゃんは罪作りな人だよね」
「花嫁修業かはわかんないけど、まあ、俺が罪な人間だというのはその通りだよ」
幼馴染みの気持ちがわかっているのに自信がないからと告白できないでいる。これが罪じゃなければ何だって言うんだ。
「私も罪な人間だよ。お姉ちゃんはちっとも悪くないのに、あんなに辛そうな顔をさせて」
さっきの花菜によく似た、寂しそうな顔で呟く。
俺は何もしてあげられない。花菜の代わりに若葉ちゃんに勉強を教えるぐらいしか出来ない。二人の心を繋ぐ事は出来ない。
「前みたいに、お姉ちゃんと笑いあえたらなあ」
花菜は怖がっている。自分の意思とは関係なく若葉ちゃんを傷付けてしまうのを凄く怖がっている。
「花菜は以前の失敗を引きずってるんだ。自分には若葉ちゃんに何も教えてあげられないんだって悩んでる」
何でも出来るからと言って、全部が出来る訳じゃない。花菜にだってどうにもならない事があって、もがき、苦しんでいる。
とは言え、俺も前に花菜にわからなかった問題を教えて貰った事があるが何を言っているかわからなかった。問題に対するアプローチが違うのだ。俺達の世界では飛行機が最速の移動手段なのに、花菜の世界にはどこでもドアがある。
何かあればなあ、花菜でも若葉ちゃんに教えられる事……あ。
「あった! そうだ、それがあった! 若葉ちゃん、明日もここで授業をしよう!」
◇◆◇◆◇
翌日。
俺は若葉ちゃんより先に花菜の家に来て授業の準備をしていた。
「ねえ春太郎、本当にこんな事でいいの?」
隣で花菜が心配そうに聞いてきた。
「大丈夫だって。俺を信じて。っと、若葉ちゃん来たみたいだね。俺が出るよ」
呼び鈴が鳴って、俺がドアを開けて若葉ちゃんを出迎えた。
「いらっしゃい。先生がキッチンで待ってるよ」
「先生?」
要領を得ない若葉ちゃんをキッチンまで連れていく。
「うん。花菜先生。今日の授業は家庭科です」
「よ、よろしくね若葉。今日はフォンダンショコラを作っていきます」
アニマル柄のエプロンをつけて花菜が少しおっかなそうに言った。
「家庭科……?」
お菓子作りのコツはレシピ通りに。
これなら花菜もレシピと同じ様に教えるしかない。
花菜の事だから人より要領はいいかもしれないが、それでも主婦歴20年のすみれおばさんよりは手際が悪い。若葉ちゃんが劣等感を覚えることもないだろう。
「家庭科は俺も全然ダメだから、今日は俺も生徒。よろしくねクラスメイト」
わざとらしいぐらいに微笑んで、花菜とお揃いのエプロンを渡す。
ちょっとだけ面食らっていたけど、すぐに若葉ちゃんもわざとらしいぐらいに笑った。
「うん! よろしくね春太郎くん! お願いします花菜先生!」
キッチンで仲良く並んで料理をするその姿は、まるで本当の姉妹のように見えた。
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