第4話

賢一は妙なところにこだわりがある男だった。

おかずと共にご飯を食べるのではなく、おかずを食べ終わった後に、ご飯を単品で食べる。映画を観に行ったら一番後ろの席に座る。どれだけ関係が深まっても、必ず「さん」付けで名前を呼ぶ。

でも、それらのこだわりを澪に押し付けることはなかったし、いつも澪を尊重してくれた。


美術館に行ったり、ビアガーデンに行ったり、温泉旅行に行ったり。

休日にはお互いの家でゆっくり過ごすこともあった。だいたいは事前に連絡を取り合うのだが、賢一は唐突に澪の家に遊びに来ることもあった。


本人としてはサプライズなのだが、突然家を訪れることに後ろめたさと申し訳なさがあるようで、訪れたときは必ずおずおずとチャイムを鳴らすのだった。

一回鳴らして澪が出なかったら、少し時間を置いて、ゆっくりともう一回。

チャイムをぐっと押すのではなく、そっと指に力を入れるので、ピンポーンのピンが弱弱しい。だから音を聞くと賢一だとすぐにわかり、澪は苦笑しながらチェーンを外しに向かうのだった。


そうしていつの間にか2年が過ぎていた。

口には出さなかったけれど、結婚するんだろうな、と思っていた。

喧嘩なんて一度もしたことがなかったし、それでいてお互いに言いたいことはちゃんと言える関係。心地が良くて、この人と共に歩んでいければいい、そう思っていた。


「別れよう」


レストランに入り、食事を注文してすぐに賢一が口を開き、澪は動きを止めた。

しばらく賢一に会えない日が続いていた。仕事が忙しいそうで、休日や平日の夜にも予定が合わない。電話をかけてもどこか応対がおざなりで、気にかかっていた。しつこく連絡をして約束を取り付け、二か月ぶりにちゃんと会えたと喜んでいた、その矢先の言葉だった。


「別れよう、好きな人ができた」


しばらく呆然としたあとに「なに言ってるの?」と半ば笑い声交じりで絞り出した。もしかしたら笑えない冗談でも言っているのかもしれないと思ったのだ。


「本当にごめん。でも、別れてほしい」

能面のような表情で繰り返す。そのガラスのような眼を見て、本気なのだと察した。


「ねえ、どういうことなの? ちゃんと説明してくれないと分からないよ」

「好きな人ができたんだよ。ごめん」

 深々と下げられた頭は、一切の言葉を拒絶していた。


「私のことが嫌いになったの?」

 震える声で尋ねると、賢一はゆっくりと顔を上げた。

 二、三度眼を泳がせ、何か言葉を探したのちに、まっすぐ澪を見据えて言った。


「うん」


その瞬間、右手に衝撃が走った。無意識のうちに突き出した手が賢一の頬を叩いていた。

じわじわと掌が熱くなる。賢一は頬を抑えるでもなく、怒るでもなく、ただ俯いていた。

レストランは静まり返っていた。周りの視線が集まり、ちょうど料理を持ってこようとしていた店員さんは、お皿を持ったまま固まっていた。


「最低」と吐き捨て、荒々しく立ち上がる。賢一は下を向いたまま「ごめん」と呟いた。

バッグを掴み、早足で店を出た。冷たい夜風が頬に突き刺さる。

駅に向かうでもなく、ただあてどなく歩く。体を動かしていないと心が押しつぶされそうだった。

一歩一歩、足を踏み出すごとに、涙が湧いてくる。

賢一のために予約した人気店だったのに。二人で久しぶりに楽しくおしゃべりして、そのあと一緒に家に行って映画でも観ようと思っていたのに。

涙がとめどなくあふれ出る。それを拭うことなく、歯をくいしばり、澪は夜道を歩き続けた。


それからしばらく荒れに荒れた。

一晩泣き通して冷静になり、ちゃんと話をしようと電話をしたが、賢一が出ることはなかった。LINEで何度もメッセージを送ったが、返ってきたのは「ごめん」の文字のみ。

何か嫌われることをしてしまったのだろうか。あまり心当たりはないけれど、小さな不満が澱のように積もっていった可能性もある。いつも私の話ばっかりしたからだろうか。自分の時間を大切にする賢一に干渉しすぎたのだろうか。いろんなことを考え、そのたびに幸せだった記憶が思い出された。

 

結婚するんだろうな、と思っていたのに。


泣きわめき、怒り狂い、そうしてやっと、澪は現実を受け入れた。

友人と飲み歩いてさんざん愚痴を吐き、何日もべろべろになるまで酔っぱらい、諦めることに決めた。正確に言うと、本心から諦めたわけではないが、そうせざるを得なかった。

「さよなら、クソ野郎」とLINEでメッセージを送り付け、連絡先を消去した。

そうして自分の記憶からも賢一のことをきれいさっぱり抹消した。

あの日までは。

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