2


 ここにひとりの男がいる。名をルルモガイといった。

 愛妻家の菜食主義者であり、巻き上がった口髭と慇懃な立ち振る舞いとで世に知られる。技師であり発明家であった男は、帝政の後ろ盾を得て、チュニター園のすべての遊具を設計した。ルルモガイにとって自身の作品が人を愉しませるのは最大の喜びであった。今際の時まで、この愛すべき仕事を続けよう。

 しかし算段は脆くも崩れ去る。運命はあえなく変転する。

 永遠と疑わなかった帝国が滅んだ。母国が潰えた時、ロロド講和自治体の預かりとなったルルモガイは、そこでも有能かつ革新的な技師となりおおせたが、一転、彼に依頼されたのは拷問と処刑と洗脳の機構であった。苦痛を生み出す機械へ心血を注ぐことに彼は罪悪感を抱いたか。否。前半生とは天地ほど隔絶した任務を帯びても技師は迷いなく働いた。彼は何物かを造り出してさえいれば満足であったし、その意義を詮索することはなかった。戸惑いや後ろめたさとも技師は無縁だった。それが滞りなく機能するのであれば、この上なく幸福だったのである。

 いまやルルモガイの喜びは、己が機構をもってして他者を絶望せしめることにあった。前半生の最高傑作であった〈ふいご〉へ手を加えることをルルモガイはためらわなかった。ロロドは、旧帝国とは別の意味で専制的であり、人民の暮らしばかりでなく、その思想までをも一様に均すことを至上命題とした。思想的逸脱者、つまり千にひとつ出る不良品は改めて成型し直す必要があった。〈ふいご〉の存続を許されたのはそのためである。かつて人々をして長蛇の列ならしめたかの遊具は、神経を引き裂く不協和音で乗客を苦しめる拷問機械となった。遊具の安全バーには毒蛾の鱗粉が含ませてあり、素肌に触れれば、全身に燃えるような痒みが広がっていく。この痒みに耐えられずに乗客はバーを自ら解除して座席より飛び降りるのである。一周ごとに乗客が振り落とされるスリルは、そのまま死出の予行と言えた。チュニターの生前には八人乗りの単体車輛だったのが六輛連結に繋ぎ伸ばされ〈ふいご〉をいちどきに味わう乗客の数は数倍化した。宙返りループ錐もみコークスクリューなども、より高速で目まぐるしいものになって人々を仄暗く魅力した。目の美しいニス塗りの木材で構築されていた〈ふいご〉だったが、この頃になると支柱部分に鋼鉄の補強が加えられて、ますます物々しい凄みを増していく。これがいまだもって〈花嫁のふいご〉と呼ばれ続けたのは皮肉というよりもむしろ悪夢であった。

 三つの大きな革命によってロロドに吹き荒れる暴力は激化した。それを失速させたのも同じ革命である。最後の〈飼葉桶革命〉によって〈ふいご〉は拷問機械であることをついに止めた。民衆は暴政を打ち倒し、ようやく平和の岸辺に辿り着いたかに見えた。その生涯を〈ふいご〉そのものと歩み続けたルルモガイは、嬉々として拷問機械を造り続けたにもかかわらず、法にも天にも裁かれることもなく、革命後も生き延び、九人の孫たちに囲まれながら天寿を全うしたのだった。

 末期の床にあっても、ルルモガイは〈ふいご〉の新たな改良案をうわ言のように口走り、家族たちを呆れさせたという。墓碑銘にはこう刻まれている。

【手を休めなかった男。勤勉なその魂は歴史のレールを巡り続ける】


 問題は重力である。いつであれ重力は恩寵だった。遊覧軌動車はその性質上、位置エネルギーを運動エネルギーへ変換するものである。〈ふいご〉が娯楽であろうと苦悶であろうと、それは変わらない。ヤタケにとって、この単純な力はいまだ解明され尽くされぬ不気味な力であり、断ち切りがたい拘束であった。飛翔の夢を見るのはもう少し先となる。

 さて歴史の転変にあって〈ふいご〉はまたしても解体を免れた。

 おぞましい暗黒時代の遺物として、それは直視すべき人類の汚点であるが故に存続を許されたのだった。もちろん稼働することはない。補修と入念なメンテナンスのかいあって、百二十年もの長きの間、〈ふいご〉は風雨を耐え凌いだ。年月を経ても巨龍の骸のような悪夢めいた恐ろしさは失われない。大がかりなアトラクションであればあるほど、そこに秘められた暴力性もまた侮れぬ。

 人は過去から学ぶが、時に学び過ぎることもある。悪しき前例のために猜疑と密告より解放された国土に遊覧軌動車は再び建造されなかった。かろうじて悲劇の残響に耳を澄ますために子供たちが校外学習で〈ふいご〉を訪れるのみである。イラストと人形によって示された往時の残忍さを専属ガイドが補足説明する。

「この〈ふいご〉のために当時は年間三万人もの人たちが命を落としました。拷問によって心に深い傷を負った者は数え切れません。この乗り物はとてもひどい時代のことをいまに伝えてくれます。みなさんのお祖父さんのそのまたお祖父さんならこれをどれほど恐ろしく感じたか想像もつきません。ただしもっと前の時代にはこれは王様がお妃様のために拵えた遊具でした。〈ふいご〉がそれだけのために役目を終えていたなら、どれほどよかったでしょうか」

 懇切丁寧な説明などまるで頭に入ってこない、気もそぞろな少女を想像してみよう。 

 勉学に興味はなかった。歴史にも悲劇にも。事の善悪を超えて少女は〈ふいご〉に心を奪われた。彼女と〈ふいご〉以外の事象は世界より消え失せる。そういう運命的な邂逅が人生にはしばしば起こるものである。少女は誰に漏らすでもなく――話そうにも友人と呼べる人間はいなかったが――密かに誓ったのだった。

 ――わたしはこれをきっと造る。これはとってもイイ。そう、ママの言い方を借りるんだったら、とてもそそるじゃないの。

 プリアド・マキュロイ。

 遊覧軌動車の歴史に必ず登場するのが、若くして食肉業界で財を成し、生涯独身を貫きながら多くの恋に世間の話題をさらった、いささかエキセントリックな才女の写真だった。禁忌とされた〈花嫁のふいご〉のユニットに全裸で横たわり、優雅に日光浴をするモノクロームの姿態は、まるで鋼鉄の龍と睦みあうようであり、歴史の悲惨を嘲笑うエロティックな挑発としてセンセーショナルに受け取られた。

 しかし、これは些事である。地底より数十万年もの断絶を得て地上人の前に現れたレジアの民をこれに乗車せしめたこと。これこそが当時のどの価値基準から眺めても特筆に値する果断だった。長じてのち、世界で十本の指に入る資産家となったプリアドは、念願通り、多くの軌道車を建造したのみならず、種族的失語症にあったレジアの民をその車輛に押し込めた。すると驚くことが起きた。

 ――吐きそうだ。最悪な気分! 

 オーラルコミュニケーションが不可能だとされていたレジアの民が思わず叫んだのは、そんな悪罵だった。悪罵であれ偉大な一歩である。突如、共用語で話し始めた沈黙の民に世界は沸いた。レジアの民は三次元的移動を経ることで人間における言語野あたる部分――彼等にとっては鼠径部にあるスロッタージャ腺――を刺激することができた。

 スロッタージャ腺は空間の構造を神経網に転写する。地底において立体的なトンネル構造の中で暮らしていた彼らは地上の平板な空間の中でスロッタージャ腺を休眠させてしまったらしい。掘削された空洞を言語了解と結び付けていたレジアにとって人間の切り出した空間構造を知ることはその言語を理解することに等しかった。つまり錯綜した空間座標を移動することは言語表現の獲得と直結する。

遊覧軌動車を彼らは〈理解のトンネル〉グラネドールあるいは〈無作法な空の道〉エポシュケテアと呼び、その幾分激しすぎる移動によって次々と言語を発見していった。

 その意図とかけ離れたところで未来は結実する。歴史はその例を膨大なリストとして提出するだろうが、ここでは不要だ。プリアドは聡明であるだけでなく、ある種の霊感を備えていた。そう知っておけば充分である。少女だった人物は資金と影響力を背景に大いなる直観に導かれるまま、そのビジョンを忠実に生きた。異文明との本質的なコミュニケーションの糸口を見出したのは学者でも政治家でもなく、ひとりの裕福な、しかし一介の絶叫機械スリルライド好きだったこと。そこに人は驚異を見る。幼きプリアドが〈ふいご〉に圧倒されたあの午後の終わりに、朽ちたはずの龍は誰にも気取られぬまま長い眠りから目を覚ました。

 彼女はルルモガイほど長く生き永らえなかった。各地に遊覧軌動車を含めた遊園地と精肉工場を築いたプリアドだったが、初老に差し掛かろうとした年頃、輝かしい人生に唐突な決着をつけた。遺言なき自殺。恋人へのメッセージと思しきメモがホテルのラウンジに残されていたものの悪筆のために当の恋人ですら解読不能であった。ことによるとそれは文字などではなく〈花嫁のふいご〉の遠い記憶のスケッチなのかもしれなかった。

 精肉とスリルの王国を築いたプリアドは遊覧軌動さながらの短くも起伏多き季節を駆け抜けたのであった。チェーンリフトで引き上げられた車輛の上り詰めた先には落下の加速がある。重力こそがスリルの源泉だとプリアドは語った。構造物に衝突するかのようなサイクロン式遊覧軌動の最後の錐もみコークスクリューで人生というレールより命を解き放つ。それがプリアドにとっての死だった。重力は恩寵であり死である。

 プリアドの没した八七八年。レジアの民のもたらした驚嘆すべき生命工学は、地上の野蛮な文明精神と融合を遂げつつあり、遅々とした人類の進歩はおっかなびっくりの駆け足となっていく。人工タンパク質の普及が人類に肉食を捨てさせた。プリアドの生業であった食肉業が悪習として世界より駆逐されたのは、皮肉にも彼女の死後わずか十年に満たない頃であった。激変する世界。重力とステーキを愛した彼女とは相容れぬ時代がやってくる。そしてプリアドが生きて見ることの叶わなかった未知の時代に〈花嫁のふいご〉は、まさに新たな火を熾すことになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る