Untitled

わたなべ

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「なにもないよ」

頭の上から聞こえた。その確信が僕にはあった。

僕は目を開ける。いつの間に寝てしまっていたらしい。高速道路の高架下、砂浜と現世との境界みたいなところに僕はいた。眼前にはただ白いだけの空があった。耳には波の音が届く。これが不思議で、注意して聞いていると、段々波打ち際が迫ってきているような感覚に陥った。僕は体を起こす。頭についた砂を軽く落とした。紫外線にやられた目を慣らすために、目に優しい色を探す。生憎、そういったものはここにはないようで、どこまでも続いていそうな白い砂浜と、見ていると不安になるくらい遠い海がそこにいるだけだった。

僕はさっきの声の主を探すために辺りを見渡した。休日の海岸沿いは、季節柄なのか人はいない。声の主も例外ではなく、そこには最初から誰もいなかった。

僕は先程の声に聞き覚えがあった。随分と昔の話に思えた。僕と彼女は夏休みの直前の数か月程度を共にして、その関係は幕を閉じた。

僕らにあるのはそれだけだった。だから、こんな風に、彼女が僕に話しかけることはないだろうと確信していた。彼女ならもっと直接的に僕に関わってくるだろう。いつも通りの、奥を覗かせないような笑い顔で、僕には理解できないようなことを言う。そんな人だ。短く切られた髪を凛と下げ、空の向こうを見ている彼女の立ち姿が、波打ち際に思い出された。それから、僕と彼女が、考えうる中で一番最低なさよならをした日のことも。

僕はあの日のことをまだ覚えていた。耳元で聞こえた彼女の息遣いも、体温も、僕の頭蓋に乗った甘い衝撃も。最後に彼女が放った言葉さえも。





彼女、センカワ・カナメはその日も学校に来ていなかった。

もうじき七月に入ろうとしていた。昼間の気候は過ごしやすい。けれども、少し動けば汗が滲む程度には今日も快晴だった。開け放たれた窓から吹き込む風が心地いい。

その間センカワは二三回顔を出した程度だった。僕の頭に、ぼんやりとした輪郭線が浮かぶ。ショートめな髪型で、背丈はそれほど大きくない。姿勢がとても良く、それから、いつも遠くを見るような目をしていたことを覚えてる。

僕がセンカワについて覚えているのはそれだけだった。逆に言えば、それだけ彼女のその特徴が際立っていた。教室の窓際、真ん中に一本入った柱の少し後ろの席に座って、ぼんやりと窓の外を眺める彼女の後ろ姿が、空の青さと相まって僕の脳裏に刻まれていた。

彼女は目立たない生徒だった。彼女と同じ中学だった知り合いに聞いても、彼女が話しているところを聞いたことのある人間はいなかったくらいだ。僕も、何度か接点があったというのに、入学してから彼女の声を聞いた覚えがなかったほどだ。

だから、彼女と僕の関係を正しく説明するなら、クラスメートという言葉が一番しっくりきた。深い友人でも、かといって関わりが全くない訳でもない。そんな立ち位置だ。

どうして彼女についてこうも話しているかというと、それは今向かっているのが彼女の家だからというのと、僕自身、昔の彼女のことを少し知っていたからだ。放課後、家に帰ろうとしていた僕を呼び止めた担任の顔を、今でもまだ克明に記憶していた。

「センカワ・カナメを知っているか?」

担任は腰の低い男だった。それから、申し訳なさそうにするのが上手い男でもあった。相手を無駄に刺激しない。生きていくのが上手な手合いだ。

僕は言う。

「知ってます。中学のとき、クラスメイトでした」

「らしいな。他のやつから聞いたよ。センカワの家も知ってるんだろう?」

嫌な予感がして、僕は担任が持っていた荷物を見た。彼の手には授業で使うには大仰な、外向けのファイルケースが握られていた。それには、僕らが今日もらった配布物の他にも、各教科の課題と思わしきプリントも含まれていた。

なるほど、と一人納得した。

どうやら担任は僕にセンカワの家までいけと言いたいらしい。どこからか僕の話を聞きつけて、これ幸いとばかりに僕に押し付けようという魂胆のようだ。

担任は僕の思惑など知ってか知らずか、変わらずぼんやりとした目のまま口を開く。

「センカワの家までこれを届けてもらえないか?」

予想通りだった。

僕は少し考えて、それから「いいですよ」と言った。好奇心と、心配。それから遅かれ早かれ、どのみち僕が行くことに鳴るんだろうな、という半ば諦めの感情からだった。

早くに両親を亡くしている彼女は、今は学校の近くのマンションに一人で住んでいた。だからこれは、他に身寄りのない彼女のことを心配した担任による生存確認というのがその実態だろう。その大役を拝命した運の悪い兵隊が僕ってこと。もし死んでても僕の責任ではないし、でも、もし死んでたら僕が第一発見者ということになってしまうから、できれば進んで承りたい仕事ではなかった。

気が乗らないなと、僕は彼女の家に向かう道を歩きながら思う。

今学期が始まってから、彼女の家に行くのはこれで四回目になる。過去の三回は三回とも彼女が家から出ることはなかったし、インターホンに応答することすらなかった。僕はいつもの様に玄関の扉に備え付けられたポストに適当にプリントを入れて、それから少しだけ部屋の中の物音を伺って帰るだけを繰り返していた。

──きっと今日もそれの繰り返しだろう。帰りにどこか寄ってから帰ろうか。駅前のデパートで暇を潰すのもいいな。

彼女の家は大通りから少し外れたところにある。大きな電波塔のすぐ隣、幾つか並んだアパートのうちの一つが彼女の家だ。彼女の部屋は二階だから、僕は建物のわきに取り付けられている外階段を登った。

妙だな、と思った。

様子がおかしかった。階段を登り切ったあたりでその異変には気づいた。彼女の部屋の扉が、中の様子を伺えそうな程度開いていた。僕は部屋の前まで行き、それから、中の様子を伺った。物音はなかった。申し訳程度にインターホンを押す。反応はない。

「あの……」

恐る恐る声をかける。やはり反応はなかった。というより、人の気配がない。玄関の扉をちゃんと閉めないで出かけたと言われたら腑に落ちてしまうような状況だ。

警戒しつつ、僕は玄関に入る。音がした。すぐ近くだ。水を流す音だろうか。ということは、少なくとも中に人はいるらしい。僕はもう一度、今度はちゃんと声を張って「ごめんください」と言った。

どうやら水の音は浴室から聞こえているらしかった。僕は家に上がることにする。それくらい、家の状況は妙であった。玄関の扉が開いていて、部屋の中からは水の音がしていて、中から人の気配がしないのは、少なくとも僕の常識からしたら異常だ。

靴を脱いで、部屋に上がる。浴室は入って右手にあった。扉を開けると、水音がいっそう大きくなった。どうやらこの部屋で当たりのようだ。部屋の電気は消えている。しかし、脱衣所から浴室に向かう薄い磨りガラスの扉が開いていることを確認できた。そしてその中には、人の足のようなものを見ることができた。

「っ!」

僕は思い切り扉を開く。そこには、浴槽に片腕を浸したセンカワの姿があった。

暗くてよく見えない。僕は浴室の電気をつけた。そこではっきりしたが、彼女は腕から血を流していた。床も血で染っている。そして、近くにはナイフが落ちていた。

出血はみたところそこまで酷いわけではなかった。まだ腕を切ったばかりらしい。それでも、ナイフでばっさりいったであろう腕の傷は深かった。早いところ医者に見せた方が良さそうだ。

僕は彼女の腕を浴槽から出し、鞄の中に入っていたタオルを押し当てた。それから、センカワの頬を軽く叩いて、彼女の意識を確認する。意識はないようだが、少なくとも呼吸はあった。

僕は制服のポケットから携帯を取り出した。警察と消防に電話をかける。到着まで十分程度かかるらしい。腕の傷にタオルをきつめに結って、彼女を玄関まで運び出した。

彼女の体は、とても軽かった。

玄関先で警察と救急隊が来るのを待っていた。僕はセンカワの顔を見る。やせ細っていて、顔色は白い。出血によるものかはわからないけれど、これはきっと、出血していなくてもこの顔色なのだろうと思った。

警察と救急隊はほどなくして到着した。担架に乗せられて、彼女は病院へ。僕は一応第一発見者として警察に事情を話した。彼女の意識が戻り次第詳細なことは聞くらしいが、恐らくは自殺を図ったのだろうということで、早々に解放された。

帰路につく足取りは重かった。図らずとも、担任の思惑通りになってしまったことが、多少気に食わなくって、僕は落ちていた石を軽く蹴り飛ばした。石はそのまま側溝の中へと消えていく。僕はその姿を見送って、視線を少し上げた。

切れかかった街灯が点滅して、僕に思い出さなくてもいいことを思い出させた。酷く軽かった彼女の体とか、深く切った傷から流れる血のこと。それから、彼女自身のこと。

早く家に帰った方がいいな、と思う。それから、暖かいシャワーを浴びて、何も考えずに寝てしまおう。出来るだけ早く。つまるところ、一刻も早く逃げ出してしまいたかった。



翌日の学校は少し騒がしかった。昨日の騒ぎを目撃していた誰かが言いふらしたのだろう、僕の顔を見ては何か言いたげに口を開きかけては、何も言わずに視線を落とすさまは少し滑稽だった。

昇降口を抜けて教室棟へ。今日はなぜか遠回りをする気にならなかった。虫の知らせというやつだろうか。そうすることが僕にとって大事な気がして、僕は自分の教室があるフロアへと足を踏み入れた。

少し先に担任が立っていた。何人かの生徒と立ち話をしていたようだったけれど、僕の姿を見つけるが早いか、こちらへ向けて歩いてくる。

「すまなかった」

彼は僕の少し前で止まり、開口一番そういった。

「まさかそんなことになっているとは知らず」

そうは言うが、本当のことはわからない。この男は、きっとこうなることを予想していたように思えたが、考えすぎだろうか。誰も予想しないまま、事態が上手く回っただけなのかもしれない。その可能性の方が遥かに高そうだ。

担任は少し気の毒になってくるほど、僕に対して謝罪の言葉を言う。これが演技なら、本当に上手い人間だな、と思う。意識せずにやっているのだとしたら。

いや、考えすぎだろう。考えすぎるのが、僕の悪いくせだ。

「それなら」

と僕は続ける。

「センカワの入院している病院を教えてください。ほら、一応第一発見者だし」

「しかし……」

担任は少し渋っていた。「個人情報だしなあ。それに、センカワに止められて──ああ、お前には伝えてくれって言われてたのを忘れてた。待っとけ、今メモに起こす」

担任は胸ポケットから付箋を一枚剥がした。ボールペンでさらさらとセンカワが入院している病院と、号室を書き出した。僕に手渡してくる。これで一応、見舞いの件も、病室を流した件も、体裁はなんとかなったわけだ。

「センカワだけどな、昨日のうちに意識も戻ったみたいだ。行ってやってくれ。わざわざ伝えてくれってことは、多分あいつも、お前に会いたいんだろうよ」

そんなわけあるか、と反論しそうになる。でもすぐにそれは不毛だと思い返した。そんな話を担任にしても意味なんてない。せいぜい気が晴れるくらいが関の山で、僕はそんなこと望んではいなかった。


学校の課業が終わったと同時に教室を出て、彼女の見舞いに行くことにした。

彼女の入院している病院へは学校からバスに乗る必要があった。バス停は学校から坂を下って、少し行ったところにあった。放課後のバス停は学生で混み合うから、なるべく座りたい僕は急ぐ必要がある。その甲斐あって、座席に座ることができた。

目的地の病院は、今乗っているバスの終点より少し離れたところにあって、センカワはそこの三階に入院しているようだった。栄養失調も併発していたようで、今は点滴に繋がれてベッドに拘束されているらしい。僕の予想通り、どうやらかなり衰弱していたようだった。医者が言うには、失血してなくても、このままだったらいずれ倒れていたらしい。

窓の外に浮いていた雲が、青白かったセンカワの顔を想起させた。嫌な気分だ。厭世的で、憂鬱。もう少し楽しいことを考えた方がいいな、と思う。例えば、再来週に控えている夏休みのこととか。

バスはどろどろと走り続け、ついに終点に着いた。病院へは高架下を通って、それから街路樹で彩られた歩道を歩く必要があった。僕はバスをおりて、病院の方へ向かった。

高架下を抜けて歩道へ出た。街路樹が日に照らされて青い。木漏れ日が日に日にその強さを増していくのを肌で感じた。夏の空気だ。

蝉の声はまだしなかった。それでも、そのうちし始めそうだな、と思った。蝉っていつの間にか鳴いてることが多いから、僕の感覚ではいつの間にか夏が始まっていて、いつの間にか終わってることが多い。

病院の正面玄関の車入れには救急車が止まっていた。急患を運び入れている感じではないし、そもそも救急外来は別にあるから、何をしているのかはわからなかった。僕は救急車を避けて、院内にはいる。

玄関を抜けて、左手にある受付でセンカワの入っている部屋への行き方を聞いた。すぐ手前にあるエレベータに乗って、三階へ。彼女はそこの角部屋にいるらしい。四人部屋で、センカワはそこに一人でいるようだ。僕は受付の職員に礼を言って、待合を抜けた。

エレベータホールには人がいて、エレベータを待っていた。僕もその中に混ぜてもらうことにする。

エレベータはほどなくして到着した。中には誰も乗っていなかった。僕の前で待っていた人たちが、ぞろぞろとエレベータに乗っていった。僕も乗って、それから、三階のボタンを押した。加速度が体に乗る。この感覚は嫌いではなかった。

到着すると、目の前にナースステーションがあった。その中にいたナースに僕は声をかけた。「センカワさんならこの廊下を真っ直ぐいったところですよ」

と、ナースは言った。僕は短く「ありがとうございます」と言って目的の廊下を目指した。

廊下はそれほど長くなかった。その両側に四つずつ部屋があった。奥には電話をかけられるスペースがあって、髪の短い少女が電話をかけていた。たまに聞こえるナースコールの音が反響していて、どうにも病院は落ち着かない。こんなところに長く入院していたら、僕は正気を保てないだろうな、と思った。

センカワの病室を見た。中に誰もいなかった。部屋に備え付けのトイレをノックしたけれど、やはり返事がなかった。

彼女はもう退院したのだろうか。いや、それはないか。それならナースがそう言うはずだ。もしかして、売店にでも行っているのだろうか。僕はセンカワが行きそうなところを聞くためにナースステーションへ向かうことにした。

「センカワ・カナメはそこにはいないよ」

後ろから声がする。僕は振り返った。先程の電話をかけていた少女だった。

ニタリと笑っていた。玄関先で見た時と同じ顔色だ。日に照らされて、あの時よりも酷く白く見える。頬の肉が、病的なまでに痩けていた。

「センカワ」

僕は絞り出すみたいに彼女の名を呼ぶ。彼女は、一層深く笑った。

「君が助けてくれたんだって?」

張り付いた笑顔のままだ。そのままの顔で、彼女は

「そのまま死なせてくれたらよかったのに」

と言った。


あれから数日後、センカワは何事もなく退院した。けれども、やはり学校には来ていなかった。僕の日課は変わらないままだ。たまに彼女の家までいって、プリントを投函して帰るを繰り返す。

それでも多少の変化はあった。何回かに一回は彼女が顔を出してくれた。相変わらずの痩けた顔だった。それからにたりと笑って「ありがとう」と言うだけ。

なんであの日死のうとしたのかは結局聞けず終いだった。腕の傷はかなり深かったようで、治るのにかなりの時間がかかると、彼女の口から聞いた。

「ねえ」

「なに?」

「なんで学校に来ないの?」

ある日僕は彼女に尋ねた。どうでもいいことだ。来ようが来まいが僕には関係がない。だからこれは行き場のない雑談というもので、その返答によって、何かが変わったりするようなものではない。

「さあ、なんでかな」

僕は彼女の方を見た。つまりは、いつもと声色が違ったから、少し驚いたってこと。彼女は窓の方を見ていた。彼女の顔は、ちょうど死角になっていて見えなかった。


次の日、教室が少しざわついていた。僕は自分の机に鞄を置いて、そのざわめきの中心に目を向けた。

センカワだった。彼女が珍しく登校してきていたのだ。窓際の真ん中、一本通った柱のすぐ後ろの席に腰掛けて、頬杖をつきながら窓の外を見ていた。窓の外は、群青の絵の具をぶちまけたみたいな空だった。これで入道雲でも浮いてたら完璧だな、と思う。

担任が入ってきて、出欠を取る。センカワのことに気づいて、少し担任が固まった。それから、何も無かったように続く。

一限が始まる頃には、もうセンカワについて話す声は聞こえなくなっていた。その程度だ。クラスメイトが久しぶりに出席したって、彼らの興味はその程度だ。一限担当の国語教師は、顔色すら変えることなく授業を始めた。センカワは、相変わらず外を見たままだった。

彼女はノートすら持ってきていない様子だった。それに、学期が始まってから数える程しか登校していない彼女が、時間割を把握しているとはとても思えなかったし、例え時間割を知っていたとしても、彼女はやっぱり何も持たないでああしているのだろうという確信が僕にはあった。

彼女は空を眺めながら何かを探しているようだった。たまに手がピクリと動いて、何かを掴むような形に変わっていくのを見た。人差し指が、ゆっくりと握られていく。

一限の終わりを告げるチャイムが響いた。学級委員が教師に礼を言う。クラスメイトがぞろぞろと立ち上がる。彼女は、もう外を見ていなかった。そしてそのまま立ち上がって、教室の外へ出ていった。次の授業が始まっても、彼女はそのままだ。

クラスは、もうざわついたりしなかった。


昼休み、僕は彼女を探すことにした。彼女はきっと弁当すら持ってきていないだろうし、あとは僕自身が暇だったこともある。僕達のいるクラスは教室棟の四階にあった。この学校で人に見つかることなく堂々と授業をサボタージュできるところは限られていたから、そこを虱潰しに探してやればいずれ彼女を見つけることが出来るだろう。

僕は教室棟の階段を一階まで下る。目的地は階段の下に併設された倉庫だ。ここ自体は施錠されていて入れない。けれども、倉庫の前には踊り場を改装したちょっとしたスペースがあった。ここが最初のサボタージュ・ポイント。上手く死角に入り込めれば、ここは人も来ない。見つかることはそうないだろう。難点をあげるとすれば、少し暗くて、それから外を見上げることができないことか。

そのまま保健室の前の廊下を抜けて、部室棟へ通じるピロティを超えた。赤いコーラの自動販売機がある。彼女に何か買っていってやろうか。お金を入れて、コーラの缶を二つ。足早に部室棟へと入った。

部室棟の最上階に、ロッカーの影になっている扉がある。屋上に通じていて、普段は施錠されている。たまに、部活の備品を干すために解放されていることがあるけれど、昼休みは施錠されていることが多い。ここが、ポイント・ツー。

僕は近づいて南京錠に手をかけた。巧妙に偽装されているけれど、鍵自体は開いていた。これなら、確かに外から見たら鍵が閉まっているように見えるな。

僕は扉を開けて、外に出た。青い日差しが目に眩しい。空気は少しだけ湿っていた。裏の山から吹き込む緑の風が鼻腔をくすぐった。夏の匂いだった。

彼女は空を見ていた。どこからくすねてきたのか、口には煙草を咥えている。紫煙を吐き出した。途端、それらは風に溶ける。

「何しに来たの?」

彼女は目だけでこちらを見る。口元はにたりと笑っていた。目は、笑っていない。

「多分、センカワと同じだよ。サボタージュしに、かな」

僕は彼女に缶のコーラを投げて渡す。彼女はそれを片手で受け取った。「どういうつもり?」訝しみながら彼女は聞く。

「ただの差し入れ」

僕も彼女の横に座る。同じように空を見上げた。はるか高空を、小さな黒点が飛んでいた。戦闘機だろうか。独特のエンジン音が、少し遅れて耳に届く。

「ずっと、何を見てたの?」

僕は聞いた。つまり、授業中なにを見ていたのか、という事だ。通じているかは、定かじゃない。

彼女は何も答えなかった。代わりに煙草を吸い込んで、それから吐いた。

僕も口寂しさを覚えて、コーラを開けることにした。プルタブに指をかける。上手く入らなくて、指は空を切る。三回ほど挑戦して、ようやく僕は封を開けることに成功した。

コーラは甘く、それから少しだけ痛かった。



これは夢だ、と思った。

酷く懐かしい記憶だ。中学の頃の話だ。僕らは屋上にいて、僕の隣にはセンカワがいた。

僕らは何も喋らない。彼女は煙草を吸っているし、僕は缶のジュースをちびちび飲んでいるだけの時間だった。たまに二言三言言葉を交わすこともあった。それだって、他愛もないものだ。吹いたら飛んでいってしまいそうなほど、空っぽで軽い。吐き出した途端空に消えてしまいそうだった。

けれども、僕達の関係にはちょうどいいのかもしれない、と思う。僕は彼女のことをよく知らないし、彼女だって僕のことをよく知らない。お互い話すことすらないのだから、当たり前といえば当たり前だけれど。

結局、僕達は他人同士なのだろう。僕は彼女を救った。救われた彼女は、それをどう思ったかは知らない。僕の自己満足みたいなもので、僕はそれを彼女に押し付ける気もなかったし、彼女自身、僕に何故助けたかを聞くこともなかった。

彼女が視線を地面に落とした。煙草を地面に押し付けて、それからまた空を見上げる。

「天国だよ」

「?」

彼女はそう言った。僕には理解できなかった。彼女は続ける。

「雲の上の、そのさらに上。そこには、天国があるんだ」

遠くを見ていた。彼女は、きっとそこを見ているんだろう。

僕には見えない。それでも、僕は彼女の言葉に嘘はないんだろうと思った。

彼女は立ち上がる。それから、何かに取り憑かれたみたいに歩いていった。柵に手をかける。僕も立ち上がった。彼女が飛び降りると思ったから、僕は走って、彼女の手を掴もうとした。彼女は軽々と柵を乗り越えて、それから一歩踏み出した。

僕の手は、結局何も掴めないまま。


雨の音で目を覚ます。

身体中べったり汗をかいていた。まとわりつくシャツが気持ち悪い。ベッドから抜け出して、シャワーを浴びるために浴室へ向かった。

懐かしい夢だった。中学にいた頃だ。それも、色々とぐちゃぐちゃに混ざっている夢。彼女の言葉は、あれ以上何も聞くことはなかったから、その真意については結局わからないままだ。夢と違うところをあげるなら、センカワはあの時、自ら命を絶つようなことはしなかったし、そういう人間でもなかったくらいか。

僕は汗を吸い込んだシャツを脱衣所の洗濯籠の中に投げ入れた。いつもなら服で隠れて見えない上半身が嫌でも目に付く。傷だらけだ。それでも、大体は小さい傷。イレギュラーなのは臍の少し下の一際大きなやつで、今はもう塞がっていて疼くことも無い。けれど、こいつはいまでも僕の体に居続けて、その存在を嫌でも僕に自覚させようとする。嫌なやつだ。

浴室の鏡に映る自分の顔は青白かった。血の気がないのは、きっと夢見が悪かったせいだろう。

僕は暖かいシャワーを頭から浴びた。髪の先から滴る雫をぼうっと眺める。思考が、お湯に溶かされて広がっていく感覚がした。溶けた僕の思考は一体どこに行くんだろう。きっと排水溝から、どろどろした下水にまとまって、薬剤に浄化されて川に戻っていくんだ。そのうち海に流れ着いて、どれが僕だかわからなくなる。そうなってしまえたら、自分が誰なのかもわからないくらいにまで溶けていけたら、それはきっと幸せだ。自我なんてものがあるから、僕は僕の幸せを追求したくなる。与えられることを知らなければ、求める苦しさも知らなくて済む。

シャワーの栓を閉めて、僕は浴室を出た。温められた体が、外気に冷やされていく感覚。タオルで水滴を拭き取って、僕は手早くシャツに袖を通した。ブレザーを手に持つ。朝食は食べなかった。軽く水だけ口に含んで、玄関に向かった。

雲が低い空だった。本降りとは言えないけれど、決して弱い訳では無い強さの雨が降っていた。僕は傘を広げて歩き始める。

僕の家から学校までは近く、歩いて三十分ほどの所にあった。幾つか坂を超えなければならないところが難点だけれど、立地的には良い方だろう。

通学路に人はいなかった。電車から大通りを使う人の方が多いから、僕の通るこの道は僕だけの通学路だ。晴れていれば空が綺麗に見えるけれど、今日は見上げる気も起きなかった。傘から手を出す。雨粒は冷たかった。気温も、昨日より五度は低いだろう。少しだけ肌寒い。

大通りに合流する交差点に差し掛かった。カラーフルな傘が歩道を埋めつくしている。通りかかったバスも、僕と同じ制服を着た生徒で溢れかえっていた。

僕は歩道を渡る数瞬、目だけでセンカワを探した。彼女の姿はなかった。傘を持って、いつもの顔で学校に通っている彼女を想像した。少し愉快だった。彼女に言ったら、なにをされるかわかったものではないけれど。

雨で酷く濡れた下駄箱を抜けて、僕は校舎にはいる。階段を登って、教室に入った。センカワの席は空いていた。鞄はかかっていたから、登校はしているのだろう。いつもの屋上は今日は使えないだろうから、今日はどこにいるんだろうか。

僕は廊下に出た。窓ガラスから部室棟の方を見る。彼女の姿は見えなかった。階段を下る。ポイント・ワンにはいなかった。まだ幾つかポイントはあるけれど、授業によっては人が来たり、教師がたまに通り掛かったりするところが多い。やはり屋上だろうか。この雨の中、傘も差さないでいるなんて、考えたくはないけれど、ない話ではなかった。

僕は部室棟に向かって歩き始める。湿り気を帯びた床が、僕の歩を加速させる。

屋上の鍵は開いていた。吹き込んできた雨が床を濡らしている。僕は扉を開けて、傘を広げる。センカワはやはりそこにいた。雨に打たれて、それでも空を見上げていた。咥えた煙草の火は、雨に打たれて消えている。

僕は横にたって、傘を彼女に差してやる。彼女は、まるで僕なんていないみたいに動かなかった。

「何しに来たの」

少しだけ感情の混ざった声だった。混ざってるのは、多分怒りとか、呆れとか、そういうネガティヴなもの。

「なんで」

僕はセンカワに言う。

「雨なのにこんな所にいるの」

センカワは何も言わない。

「風邪ひくよ」

僕はスカートが濡れないように、足を折りたたんで座った。彼女の顔が横にくる。雨に濡れていてよくわからなかったけれど、泣いているように見えた。

センカワが顔を上げた。何かに縋るように手を伸ばす。立ち上がった。僕は、それを見ていた。

「空が」

センカワの口が小さく動く。

「ここからじゃあ」

絞り出すみたいに、ゆっくり。

「見えない」

ふらふらと、倒れるみたいに、一歩ずつ歩いていく。

死ぬ気だ、と思った。

僕は傘を投げ捨てた。彼女を抱きしめる。

「やめろ」

僕は言う。

彼女は少しだけ前に進もうとして、その力を抜いた。

僕も、力を抜く。弛緩した筋肉が、雨に冷やされていく感覚がする。

肩が震えていた。

彼女の前に回した手の甲に、なにか暖かいものが落ちていく。



彼女は帰り道なにも言わなかった。冷えたのか、体を小さく震わせていた。僕も少し寒かったけれど、彼女にブレザーをかけた。彼女は僕の顔を一瞬見て、それから襟を手で抑えた。

彼女の家に着いた。いつかみたいに階段を登って、彼女が玄関の扉を開けて入った。僕もそれに続く。

部屋の中は酷くこざっぱりとしていた。ベッドと机、箪笥と、小さいアタッシュ・ケース。それに幾つかの服がハンガーにかけられていて、他に何もなかった。

「なにもないね」

僕は彼女にそう言ってやる。彼女は、箪笥から着替えを出して、僕に渡してきた。僕はそれを受け取る。

「迷惑料の代わりだから」

彼女はそう言って僕の手を握った。そのまま、僕を浴室へと連れていく。脱衣所は二人で入ると少し窮屈だった。

彼女がシャツを脱ぐ。僕もそれに倣った。彼女の白い肌が、磨りガラスの窓から差し込む光に照らされて、不健康そうに反射する。

彼女が僕の腹に手を伸ばした。傷のある位置だ。その傷を、センカワは愛おしげに指でなぞった。肌には、擽ったさだけが残る。

「ユフカ、私は君に」

センカワが口を開いた。声が少しだけ震えている。

「言うな」

僕は彼女の言葉を殺した。

「頼むから」

そこから先は、まだ今は聞くべきじゃない。



僕とセンカワが初めてあったのは、中学の屋上だった。

三年の初夏だ。僕達の物語はいつだって夏に始まる。夏には、それをさせるだけの魔力があるんだろう。

日差しが強い日だった。雲がまばらに浮いていて、少しだけ空気が湿っぽい。これで蝉でもないていたらと思うと、少しだけ嫌になる。夏は嫌いだ。なにかに急かされている感覚がするから。生き急いでいて、夏が終わったら、それと同時にに死んでしまいそうだ。

僕は昇降口についた。下駄箱から上履きを取り出す。それから、隣の隣にある下駄箱を見た。センカワ・カナメと名前が書かれていた。

僕は彼女が教室にいるところを見たことがなかった。というのも、彼女はいま保健室にいる。保健室登校というやつだ。なんらかの理由でクラスに馴染めなかったりしている人が、教師から与えられる課題を保健室でこなす制度。なんらかの理由というのは人それぞれだから、センカワにも、そのなんらかの理由というものがあるのだろう。顔を合わせたことすらない彼女の、そんな理由を詮索する気はなかった。

下駄箱を出た。教室へ行くには右に曲がって階段を上る必要があった。僕は左へ。少し寄り道をしてから教室に行くのが、僕の日課だった。そこには特に大きな意味は無い。ただ、少しだけ気分がいいからという、至極どうでもいい理由だった。

下駄箱から左に曲がると、そこは保健室や校長室などの並ぶ廊下があった。早朝の、まだ日の高くない校内は涼しかった。生徒達の声が遠くに聞こえて、ここの静けさが一層際立っていた。窓から差し込む光もまだ優しい。そこだけ妙に明るくて、照らされていないところは、物悲しげに暗い。

僕は窓の外を見た。対岸の校舎では、教室から出たり入ったりする生徒が蠢いていた。どこの階もそうだ。時計を見れば、じき始業時間だった。この時間が一番混んでいる。もう少し時間をずらして、生徒が落ち着いたら教室に戻ろう。それか、今日はもうサボってしまおうか。幸い、鞄を教室にかけることなくここまで来たから、僕が学校に来ていることに気づいている人間はいないだろう。あとで公衆電話から、適当な理由をつけて休みの連絡を入れてさえおけば、立派なアリバイが成立するってわけ。

この学校でサボタージュできるところは限られていた。一つ目は音楽準備室で、ここは吹奏楽部の部室も兼ねていた。ここは音楽の授業がなければ、放課後まで使われることは無い。二つ目は技術室の廊下をまっすぐ行ったところにある扉を開けたところだ。三つ目は屋上。いつもは鍵が閉まってるけれど、最近は開いていることが多かった。巧妙に偽装されていて、一見すると開いてないように見えるけれど、南京錠を軽く引っ張ると開くようになっている。

僕は記憶している時間割を思い出した。今日は音楽も技術もあるから、行けるところはもう屋上しかない。今日は晴れているから、屋上に行くのは少し気が引けた。暑いし、なにより日陰がない。それでも、一日座って授業を受けるよりは魅力的に思えた。

僕は来た廊下を戻った。昇降口を抜けて、部室棟へ。そこを最上階まで登った。屋上へ繋がる扉の鍵は、今日は開いていた。

他に遮るもののない屋上の空は広かった。寝転がったら気持ちよさそうだな、と思う。でも、日差しが強いから、それをやったら真っ黒になってしまいそうだ。僕は日陰を探して、屋上の扉の影になっているところを見た。

人がいた。女の人だ。髪は短くて、まるでこちらを見ていないような目で僕を見ていた。

「何しに来たの?」

感情のあまり篭もっていない声で僕に聞いた。

「多分、貴方と同じだよ。授業をサボタージュできる場所を探してたら、ここに行き着いた」

僕は彼女にそう言ってやる。彼女は興味をなくしたみたいに「そう」とだけ言って、空に視線を移した。

「隣に座ってもいい?」

僕は聞いた。彼女は何も言わなかった。僕も、何も言わずに隣に座る。

僕は横目で彼女のことを観察することにした。もちろん、気づかれないように慎重に。

雑に切られた髪だった。髪型とか特に気にしていないのかとも思ったけれど、すぐに違うとわかった。切り口が雑すぎるし、切られた髪も整えられることなく伸びていた。多分、元々はもっと長くて、それを無理矢理家庭用のハサミかなにかで切ったんだ。

僕はそれから首元が少し青くなっていることにも気づいた。痣だった。それらは綺麗に服や髪で隠れるところだけを狙っているようだった。

心底反吐がでそうだった。それから、なんで彼女がここにいるのかの大体の察しがついた。今の時代にここまで直接的に暴行を加えることがあるのかとも思ったけれど、そういうこともあるんだろう。僕には、そういう連中のことを理解する気もなかったし、したくもなかった。

「ねえ」

彼女が首をこちらに向けて僕に言った。「あんまり見られると不愉快なんだけど」

「ああ、ごめん」僕は謝罪して、大人しく空を見ることにした。彼女も空に視線を戻した。

「煙草吸っていい?」

こちらを見ないまま僕に聞く。僕は「どうぞ」とだけ。

彼女は制服の内ポケットから煙草を取り出した。火をつける。ぼんやりと吸い込んで、またぼんやりと吐いた。口から吐き出される煙が、どこまでも間延びしていく。

「君はなんでここに来たの」

センカワが僕に聞いた。興味もなさそうな声だった。こちらを見ることすらなかったから、多分雑談。

僕は、自分の行動を振り返った。そこには、やはり明確な理由なんてなかった。あえて理由をあげるなら、逃げ出したかったのだろう。どこか鬱屈としていて、逃げ出したくなるような感覚。逃げ出す場所も、どこにもないのに。

僕は結局何も答えなかった。彼女も、それについてもう聞くことは無かった。

僕らはしばらくそこでそうしていた。それから、センカワが立ち上がる。日向に出ていった。僕も、彼女に倣う。

彼女は日向で横になった。仰向けで、文字通り空を仰いでいた。僕もその横で、空を仰ぐ。

空は広かった。そんな自明なことを再確認するくらい、空は広かった。ずっと見ていると、吸い寄せられているような錯覚に陥った。落ちていきそうだな、とぼんやり思う。もしかしたら、あっちが本当の世界で、地面に縛り付けられてる僕たちは、きっとあそこに居られなくなった連中なんだろう。飛ぶことも、浮くことさえ満足にできなくて、ずっとあちら側を見てるだけ。その憧憬に、胸を焦がすだけ。

「こうやって空をみてると、私はなんでここにいるんだろうって気持ちになる」

彼女は言う。

「あんなに綺麗な空があって、私はそれを見てる。手を伸ばすんだけど、近づくことすらできなくって、それから、私はここでしか生きられないんだって気づく」

彼女の声を聞いていた。邪魔なものがない声だった。

彼女は体を起こした。それから、ポケットに入っていた煙草を取り出した。火をつける。彼女は煙草を吸って、吐いた。

彼女が視線を地面に落とした。煙草を地面に押し付けて、それからまた空を見上げる。

「空の向こうになにがあるのかなって、考えたことない?」

彼女は僕に言った。僕は言う。「宇宙がある。それだけのことじゃなくて?」

「いや、まあそうなんだけど」

彼女はそう言って破顔した。声を上げてひとしきり笑ったあと、僕の方を向いた。それから、

「天国だよ」

「?」

彼女はそう言った。僕には理解できなかった。彼女は続ける。

「雲の上の、そのさらに上。そこには、天国があるんだ」

遠くを見ていた。彼女は、きっとそこを見ているんだろう。

僕には見えない。それでも、僕は彼女の言葉に嘘はないんだろうと思った。

彼女は立ち上がる。それから、反対の柵の方に向かって歩いていく。踵を返した。僕に対面する。

「私はセンカワ・カナメ。君は?」

「僕はユフカ。ササ・ユフカ」

「ユフカ、いい名前だね」

彼女はそう言って笑った。少し掠れた声だった。



僕と彼女が会うのは、いつだって屋上だった。

教室に僕達の居場所はない。最近の彼女の机は花瓶が立てられていることすらあった。僕の席は彼女の後ろだったから、その景色がよく見えた。日差しに当てられて、それでも上を向いている花弁が少し彼女に似ている。それから、もしかしたらそれを狙ったのかもしれないなと思って、そのセンスだけは褒めてやることにした。

空気は湿り気を帯び始めていた。カレンダーはあと数日で六月だ。梅雨に入ってしまったら、もう屋上は使えないな。僕はいいとして、センカワはどうするつもりだろう。元いたように保健室に帰るか、それとも校内を転々としながらサボタージュするつもりだろうか。僕には関係ないけれど、少しだけ気になった。

僕は屋上の扉を開ける。センカワはまだ来ていないようだった。僕は日陰に入った。鞄の中から、タオルに巻かれたコーラを出して、プルタブを開ける。口をつける。炭酸が喉から鼻にかけて抜ける。少し痛かった。

屋上の扉が開く音がする。僕はそちらをみた。上履きが見えたから、教師ではない。足音はこちらに近づいてきた。センカワだろう。僕は少しつめて、彼女の座るスペースを開けた。首だけでそちらをみて、彼女が現れるのを待った。

最初に見たのは、妙な皺のよった制服だったり、あるいは濡れた髪だったりした。全身びしょ濡れだ。妙な皺は、多分殴られたあとだろう。拳が当たったみたいに真ん中に寄っていたから、多分そう。足取りは覚束無い。

彼女が倒れそうになる。手を出して、彼女を支えた。「君も濡れるから」とセンカワが絞り出したみたいな声で言った。僕は何も言わなかった。構うものか。彼女を座らせて、コーラを巻いていたタオルで彼女を拭いてやる。少し湿っていたけど、ないよりはマシだろう。

彼女はしばらく俯いていた。呼吸をしているかすら不安になるくらい動かなかった。僕は隣に腰掛けて、代わりに空を見ていることにした。

「煙草、ある?」

彼女が言った。僕は立ち上がって、それから彼女の制服の内ポケットから煙草を出してやった。湿っているから、なるべく乾いてるやつを依って彼女の口に咥えさせた。火をつける。最初の一口は吸ったみたいだ。口から煙が漏れていた。それ以降、そいつは吸われることはなかった。ただ先端から煙を垂れ流すだけ。少しだけ寂しいやつだなと思って、それから、センカワの気を晴らすための犠牲になってくれと祈った。

センカワとはしばらくそうしていた。彼女が少し震えていたので、僕は着ていた制服を彼女にかけてやった。代わりに僕はジャージを鞄から出して着た。彼女は何か言いたげに僕を見て、それから何も言わずに襟を軽く手でつまんだ。

「ねえ」

僕は言う。彼女が顔を上げた。目元は、水か涙かわからないけど、濡れていた。

「そのままじゃ風邪ひく。着替えとか、持ってる?」

「持ってない」

「家は?」

答えはなかった。ただ立ち上がって、屋上から出ていこうとする。僕も、その後ろをついて行った。彼女に制服を貸したままだったし、それに、今の彼女が一人で帰れるとはとても思えなかったから。

案の定、彼女は屋上を出たあたりで座り込んでいた。肩が震えている。さっきのは見間違えたわけじゃなかったみたいだ。膝に涙が落ちた。僕は、ただ後ろに立っていた。何も言うべきじゃないし、なにか言うための言葉を、僕は持っていない。

「助けてよ……」

彼女は言った。

「僕は何も出来ないよ」

何も出来ない。

何も言わない。

僕がそれをするべきじゃない。

僕には、それをするだけの力なんてない。

「助けて」

小さくセンカワが言った。僕にはそれが、妙に耳に残った。







彼女の家まで、僕らは何も言わないまま歩いた。

彼女が扉を開けて、僕もそれに続く。部屋は薄暗く、他に誰もいなくて、床には酒の瓶が転がっていた。それから、青いカートリッジの錠剤と、何かのシミ。裏に日付の書かれた薬剤。そういったもので散乱した、行き場のない連中の集う雑居ビルみたいな部屋だった。ベッドだけは真新しいシーツがかかっていて、そこだけぼんやりと、不健康そうに青白く光っている。

僕は部屋の中に入った。センカワが後ろに続く。僕は鞄を下ろして、座れる場所を探す。ベッドの前が少しあいていたので、「座っていい?」と聞いた。彼女は何も言わなかった。それでも、彼女は二人分のスペースをあけてくれた。どうやら何も言わないのが彼女なりの肯定みたいで、僕も、ありがたくそこに座らせてもらう。

センカワは箪笥を漁っていた。それから、二人分の着替えを出してきた。片方を僕に投げる。

「どういうつもり?」

彼女は僕の手を取った。僕は立ち上がって、彼女に引かれるまま追従する。彼女は玄関の手前まで僕を引っ張っていった。左手にあった扉を開ける。脱衣所のようだった。服が山のように積み上がっている。入るなり、彼女は上に羽織っていた僕の制服を脱いで、僕に渡す。受け取った。湿っていたけれど、少しすれば乾く程度だ。

そのまま、彼女は着ていた制服を服の山に投げた。僕も、着ていたジャージを脱ぐことにする。そうしろと言いたげに、彼女が僕のことを見ていた。

センカワに、浴室へ先に入るように勧めらた。仕方なく僕は浴室の中へ入る。その後ろを彼女がついて、扉を閉めた。

鏡越しに見る彼女の体は痣だらけだった。所々、青痣ですらない、血の滲んだところもあった。それでも、首や顔、腕には傷一つなかった。

僕は少し肌寒さを覚えて、シャワーを出した。頭から顔にかけて、暖かいお湯が飛んでくる。冷えた体が、お湯で溶かされていく感覚がした。六月とはいえ、流石にジャージでいたら冷えるか、まあそうだよな。

彼女が膝立ちになって座った。後ろから抱きしめられる。彼女の呼吸が、嫌に耳につく。

「ごめん、少しこのままでいさせて」

彼女が、小さくそう言った。

泣いているようだった。シャワーのお湯か涙かわからないけど、時より、なにかが背中に流れるのを感じる。

僕にはなにもできないよ。

そう言おうとして、やめた。背中くらいは貸してやってもいいだろうと思ったから。それから、やっぱり首を突っ込むべきではなかったかなあと、現実味のない頭で思う。

少し口に乾きを覚えた。こんな時コーラでもあればいいな。甘くて、それから少しだけ痛い。痛みは現実感になる。今の僕には、痛みが足りない。




窓の外は少し雲が出ていた。僕は先に浴室を出て、センカワがあけてくれたスペースに腰を下ろしていた。首だけで窓の外を見ている。ぼんやりと、焦点がだんだん合わなくなっていくことを自覚する。意識が精神から剥離していって、僕が僕から遠くなる。

浴室の扉が開く音がした。足音がこちらに近づいてくる。僕の真正面まできて、止まった。僕の体に覆い被さるみたいにして座った。息を吸い込む音がする。それから、それを吐く音もした。僕の頭は、ただそれだけを聞いている。そこからそれ以上の情報を得ることを拒否するみたいに。

「君は優しいね」

センカワはそう言った。慈愛と、それから諦めが混ざった声だ。泣き出す一歩手前みたいな。誰かの一押しがあったら、今にも決壊してしまいそうな危うさ。

「僕は優しくないよ」

「優しいよ。私がこうしていても、拒まないもの」

ああ、これは。

呪いなんだ、と思った。

それには、本当にそうさせてしまうだけの力がある。

僕は優しくなんかないのに、彼女に優しくしてしまうような力が。

僕に何も求めないでくれ。

僕には何も出来ないから。

僕は耳を塞ぎたくなった。それから、抱きしめられていてはそれすらもできないことに気づいた。八方塞がりだ。いや、最初から僕に逃げ道なんてものはなかった。それを知っていて、僕はこの家に入ったのだから。

「どうして助けてくれないの?」

「言った通りだよ。僕には何も出来ないし、しない。君は一人だし、僕も一人だ」

「そっか」

嬉しそうな声だった。

何がそんなに嬉しいのか、と聞こうとした。それから、そちらを見ることを躊躇った。つまり、センカワの方をだ。見たら最後、そこのない蟻地獄に引きずり込まれてしまいそうだったから。二度と這い上がることのできないところまで、センカワと落ちてしまいそうだ。いや、センカワに落ちてしまう、か。

「ねえ、ユフカ」

センカワが僕の顔に手を伸ばした。振りほどこうとして、僕も手を上げる。その手を上から握られて、彼女は結局僕の顔に触れた。抵抗する気力も、センカワに吸い取られていく。彼女ならそれくらいはしそうだな。ゆっくりと、幸せなような振りをしたまま相手を殺すんだ。そういうの、なんて言うんだったか。

彼女はゆっくり口を開いた。

「──」

ああ。

僕の耳はその音をしっかり聞き取った。

聞き取って、何も言わなかった。

その言葉は、僕らの間柄にはふさわしくない言葉だ。僕が君に与えているものは、ちょっとの間の現実からの逃避で、それ以上の何物でもない。君はきっとそれを、まるで歯の浮くような、僕たちには到底不必要などろどろしたものと勘違いしているんだろう。君がそれを口にする度に、僕はほんの少しの罪悪感にかられた。それから、言葉欲しげな顔の彼女に「僕も」とだけ言う。

僕も。

僕も、なんだ?

お前は一体何を言おうとしている?

お前が彼女に与えられるものが、一体どれほどある?

自己満足も甚だしい。

結局それはただのエゴだ。

お前は何者にもなれない。

お前は、彼女に何一つしてやれることは無いんだ。

彼女だって、お前には何も求めちゃいない。

きっと都合よくそこにいたからというだけの理由だ。それ以上の理由なんて、そこにはありはしないんだ。

耳元で騒ぐ奴が鬱陶しい。誰だお前は。僕の何を知っている。僕は僕だ。それ以上でも、それ以下でもない。センカワになにかしてやれることなんて何も無い。そんなこととっくにわかっている。僕のやっている事だって、結局はただの現実逃避、時間稼ぎでしかないことくらいわかっているんだ。彼女にはいつか、自分でどうにかしなきゃいけない時が来る。その時までのつなぎ。少しだけ背中を推してやれたら上等で、それすら出来ないかもしれない。でも、僕の役割はそれで終わる。それなのに。

「ユフカ」

僕の名前を呼ぶな。

「私は」

僕に何も言うな。

僕には、その言葉を受ける権利なんてない。

僕には、君を救ってやれるだけの力なんてない。

そんなもの、僕にはないんだ。


次の日も、その次の日も雨だった。どうやら本格的に梅雨入りらしい。屋上に向かう階段の踊り場で、僕はセンカワのことを考えた。それから、僕が今から伝えなくちゃいけない言葉についても。

甘い言葉を吐くつもりはなかった。そういう言葉は、あるいは純粋な僕たちにはぴったりだったけれど、一番かけ離れてる言葉でもあった。

階段を登ってくる音がした。センカワだった。彼女は僕の目を見た。そして、僕が今から何を言おうとしているかを悟った。

彼女は何も言わなかった。僕はポケットから一本の果物ナイフを取り出した。彼女の前へ差し出す。

センカワはきっと僕をこのナイフで刺すだろう。そして、少しだけ呆然として、それから階段の下に走っていくだろう。ちょっとだけ泣いてくれたらいいな。何もない僕だったけれど、現実逃避のための捨て駒だったけれど、彼女の心に傷跡を残せたのであれば、それで満足だった。

彼女はやはり何も言わなかった。俯いている。肩が震えているようだった。今にも崩れ落ちてしまいそうだ。それでも、僕はこう言ってやらなきゃいけない。

「センカワ、僕らは──」

彼女は僕が言い始めるが早いか、僕の手からナイフをひったくった。臍の少し下の下腹部に刺さった。心臓が拍動するのに合わせて、傷口から血が流れていく。

僕は尻から崩れた。呼吸がどんどん荒くなっていく。視界も、少しずつ暗くなっていった。

彼女は泣いていた。そして、僕に向かって手を伸ばした。泣きながら、僕たちは唇を重ねる。そこには、なにもなかった。

つまりは、なんの感情も。

何一つ。

他人だった僕たちが、他人のまま、他人に戻るだけ。

それだけだ。



降っていた雨はとっくに止んでいた。

僕は、センカワを起こさないように窓の外を見た。星なんて見えない、曇っただけの空がそこにはあった。鈍色に光っている雲が、まるで何か言いたげに僕を見る。言いたいことがあるなら早く言え。僕らに残された時間は、もうそんなにない。

僕は体を起こして、それからベッドを降りた。床にちらばっていた服を集めて、ダラダラと着る。億劫だ。服なんか着ているから、無駄に体を重くするから、人は空に上がれなくなるんだ。

僕は床に落ちていたアタッシュ・ケースの鍵を開けた。中には拳銃が入っていた。金属が粘性を伴って輝いている。にぎったら、手と同化して離れなくなりそうだな、と思った。

これは僕が彼女にプレゼントしてやったものだ。いつの事だったかはもう覚えてないけれど、彼女はいつもの様ににたりと笑っていた。そしてそれから「私?それとも、君?」と聞いた。

彼女は察しがいいから、こいつで何をすればいいのかわかっていたんだ。今の今まで使われなかったのは、ある意味で幸運だ。僕も彼女も、まだそこまで切羽詰まってないということだから。

もし、こいつを僕が彼女に使うとしたら、僕はちゃんと上手くやれるだろうか。

上手く?

なにを上手くやるというのだ。

寝ている彼女にこいつを突きつけて、あまつさえ引き金を引くことか?

僕に愛を囁いてくる彼女を突き放して、自己嫌悪とともに自分の頭を撃ち抜くことか?

それとも。

それとも、なんだ。

「ユフカ」

センカワが後ろから僕に抱きつく。そして、僕が手に持っていたものをゆっくりと撫でた。僕の手はロックされていて動けない。耳元から彼女の声がする。

「それを私に使えば、きっと君は楽になるよ」

悪魔みたいだ。逃れようのない、ねっとりとした波みたいに僕の脳髄に入り込む。そいつが首筋から手にかけてゆっくり侵食していって、僕の指に力を入れようとする。あと数ミリ引いたら、ハンマが撃針を叩いて、彼女の頭に丸い穴が穿たれるだろう。ここで全部終わりにしてしまうのも、確かにいいかもしれない。

彼女の舌がまとわりつくみたいに僕の首を這った。首筋を歯を立てて噛む。引き金にかかる指に、思わず力が入りそうになる。

僕は拳銃を落とした。それは諦めと、それからうっかり引き金を引いてしまわないようにするためのストッパと、後は抵抗できない虚無感から来るものだった。拳銃が床を滑りながら転がって、止まる。暗闇でぼんやりと輝いていた。雨雲みたいな色だった。



七月に入ってから今日までというもの、晴れの日は一日あったかどうかというほどに毎日雨模様だった。

あの日以来、センカワは学校に来ていなかった。僕も、担任に配布物を渡されることがなかったから、彼女の家には行っていない。それに、あんな抜け出すことの出来ない蟻地獄みたいな家に、わざわざ近づこうとも思わなかった。

期末試験の終わった教室はすっかり夏休みのような空気になっていた。あと一週間で夏休みと言われたら、誰だって浮き足立つだろう。センカワも、こんな気持を体験したのだろうか。

その日は何事もなく終わった。雨はずっと降ったままだったから、僕は傘をもって教室をでた。階段を降りて、下駄箱に向かおうとしたところで、担任に声をかけられる。

「ちょっといいか?」

「なんですか?」

担任はばつが悪そうな顔をしていた。この男はいつだってそういう顔をしている。わざとらしく頬を指で掻く。手に持ったプリントは、今日僕らが貰ったものと同じものだった。夏休みの心得。他愛もない内容だった。学生としての自覚を持てだとか、そういったもの。貰った時だけ目を通して、放課後家に着く頃には忘れてしまっているような。

担任はそいつを僕に手渡してきた。それから、会釈をしながら僕に言う。

「これをセンカワに届けてやってくれないか?」

予想はできていた。この担任は僕にセンカワの家まで配布物を届けさせるときに、いつもこうやってみせるのだった。僕は差し出されたプリントを手に取る。センカワがこんなものを欲しがるとも思えなかった。途中で捨ててしまって、そのまま家に帰っても誰にも何も言われなさそうな気もした。

僕は「確かに受け取りました」とだけ言って、担任に会釈した。下駄箱に向かう。下駄箱から靴を取り出して、履いていた上履きを代わりに入れてやる。

下校時間ちょうどの校門は生徒の傘で混みあっていた。歩道には溢れんばかりの傘がひしめき合っている。この様子じゃあ、バスも満員だろう。少し時間をずらしてから出ればよかったと、今更思った。靴を履き替えて、図書室にでもいようかとも考えた。昇降口から図書室を見ると、そこには僕と同じように考えた生徒達で満席のようだった。仕方が無いので、僕は校門に向かって歩き始める。

彼女の家へは、普段使っている通学路とは別の、大通りの方を行く必要があった。僕たちの高校の最寄り駅に向かうためにはこの道をどうしても通らなくてはならないから、必然的に人通りは多くなる。人混みが苦手な僕には、これはちょっとした拷問みたいだった。

大通りは上り坂から下り坂へと向かう少し急な坂道で構成されていて、坂を登り切ったあたりに公園があった。そこを抜けると、彼女の家にはかなりの近道になる。僕は人混みを抜けてその公園に入り込んだ。その前後にも何人か続く。さっきの殺人的な人の量に比べたら、この程度の人数は可愛いものだった。

そこから何本かの路地を経由して、電波塔を目指す。もう人は一人も通っていなかった。ざわめきから解放されて、雨音の静寂が一層激しさを増す。

雨の日って、なんだか好きなのと言ったのは、誰だったかな。

僕の周りにはセンカワくらいしかいないから、多分彼女だろう。

どうして?と尋ねた気がする。

彼女は、雨の日って、なにもかも綺麗だからと言った。

でも、雨は汚れを含んでいるから汚いよ。

そう、じゃあ私たちみたいね。

上辺だけは綺麗で、内側は薄汚れていて、汚い。

ちょっとでも心を開こうものなら、その薄汚れたものが外に見えてしまう。

ああ、確かに僕達みたいだ。

そうでしょう?


センカワの家の階段を上がった。センカワの家の扉が開いている。いつかの記憶が僕の頭をよぎった。僕は彼女の部屋の扉を思いっきり開けた。水音はしていなかった。リビングへ通じる部屋の扉を開ける。センカワはそこにいた。

右手には拳銃を持っていた。

他に窓のない部屋に、カーテンから零れた光が差している。

センカワの顔は逆光で見えなかった。

多分、笑っているんだと思った。

彼女は右手に持っていた拳銃を、ゆっくり自分の顎に持っていった。

左手を添える。

まるで宗教画だな、と思った。

ほんの一瞬のことが、無限に引き伸ばされていく。

彼女の右手の人差し指に、ゆっくりと力が籠る。

あと数ミリ動かしたら、ハンマが撃針を、撃針が雷管を叩いて、彼女の頭を吹き飛ばすだろう。

左足で地面を蹴った。

間に合うか。

必死に右手を伸ばす。

拳銃を横から叩いた。

彼女の顔から、射線が少しずれた。

銃声。

弾は彼女の右のこめかみを少しだけ掠った。

頬に血が流れる。

僕の手にも、落ちる。

彼女の顔は見えない。

血のせいで、泣いてるみたいに見えた。

彼女は拳銃を地面に落とした。それから、僕の顔をゆっくりと見た。表情は見えなかった。拳銃を取りこぼしたままになっていた彼女の右手が開かれて、少しだけ引かれた。それから、僕の顔に向かって飛んでくる。衝撃は弱い。左の頬が、じんじんと痛かった。

「どうして!」

センカワは大声で叫んだ。彼女が叫ぶなんて初めてだ。そんなに大きな声を出せたのか、と思った。

「どうして死なせてくれないのよ!」

彼女は顔をくしゃくしゃにして叫んでいた。目は見開かれて、その大きな瞳からは、止めどない涙が零れていた。彼女は僕の肩を掴む。指がくい込んで、痛かった。

号哭。僕の胸に顔を押し当てていた。センカワの中に潜んでいた獣が暴れだしたみたいだ。少しでも気を抜いたら、そいつに丸呑みにされてしまうな、と思った。もしかして、僕の中にもそいつはいて、いつか僕の中のそいつが、彼女を殺してしまうだろうか。だとしたら、僕はその前に死んでしまいたかった。自分で頭を撃つか、もしくは誰かに殺されるか。

誰に?

「殺してよ……」

枯れた声でセンカワはそう言う。

「僕は」

僕は続ける。

「僕は、君に刺された日に死んだよ。今の僕は、ただの残骸みたいなものだ」

センカワは黙ってそれを聞いていた。

「僕が君に与えられるものは、ちょっとの間の現実逃避だけだ」

「違う」

「その現実逃避も、そろそろ終わりにしなくちゃいけない」

「嫌だ」

センカワは子供のような声をあげた。駄々みたいなものだ。親に怒られて、大切なおもちゃを捨てられそうになっている子供と一緒。それを取り上げる親が僕で、取り上げられるおもちゃも僕だっていうだけだ。僕も子供だから、子供の癇癪を子供が諭しているってわけ。滑稽だ。

僕はセンカワから離れた。窓際に向かう。支えのなくなったセンカワは、少しの間自分で立っていて、それからすぐに膝を折った。両手をぶらりと垂らして、俯いたまま泣いていた。

カーテンを開けた。さっきまで降っていた雨は止んでいた。雲が白んでいる。この様子なら、そのうち晴れるだろう。

僕はセンカワの方を向いた。それから彼女に

「景色のいいところに行こう」

と言った。



駅前でバスに乗って、僕らは学校に向かった。センカワは窓から外を見ていた。目は赤い。右手が僕の左手に繋がれていた。足元には鞄。僕は、ただ前を見ている。

反対側のバス停にはまだ生徒が何人か残っていた。部活帰りなのか、背中に大きな荷物を背負った生徒や、少し疲れた顔をしている生徒もいた。交差点を抜ける。学校へは坂を登らなくてはならない。これが少しだけ億劫だった。

僕は彼女の手を握ったまま前を歩いていた。視界の端にいる彼女は俯いたままだ。それでも、僕についてちゃんと歩いていた。座りこまれでもしたら、僕はどうすればいいかわからなくなるから、ありがたかった。

学校に着いた。校門を抜ける。昇降口に入って、下駄箱から彼女の上履きを出してやった。彼女は、名残惜しそうに手を離した。上履きを履く。僕も、自分の下駄箱から上履きを出して履いた。

下駄箱を抜けてピロティへ、部室棟に入った。音楽室からか、ピアノの音がした。反響していて、曲まではわからなかった。僕は階段を登る。センカワもちゃんとついてきていた。

屋上に繋がる扉の鍵は開いていた。いつもの様に偽装されている。僕は南京錠を扉から外す。扉を開けた。少し風が吹き込んできたけれど、気になる程じゃない。湿り気を帯びているのが少し気に食わなかったけれど、そのうちこれだって愛おしくなる。

景色はよかった。晴れていれば、ここから海が見えるのだけれど、生憎今日は曇りだから見えない。それでも、いつも僕らが暮らしている街を見下ろすのは気分がよかった。空気を胸いっぱいに吸い込みたくなる。叫んだら気持ちいいだろうな。そんな景色だ。

僕はセンカワの方を向いた。それから、鞄から拳銃を取り出した。彼女の前に差し出す。いつかも見た光景。あの時と違うのは、今度はちゃんと屋上だということと、今度はちゃんと、僕は死ぬだろうということ。

センカワは悲しそうな顔をしていた。怒りとか哀しみ、それから寂しさと虚しさを足して割ったような顔だ。何か言いたげな口がわなわなと震えていた

「センカワ」

僕は彼女に言った。できるだけ感情を含まないようにだ。今から僕が言う言葉に、感情なんてものはノイズでしかない。

彼女はやはり何も言わなかった。いつかみたいだ。いや、あの時から何も変わっていなかった。僕も、君も。何も変わらないままここまで来てしまった。何か変わっていたら。僕か、もしくは君が、もっと心を開いていたら。いや、そんなものを開いてしまったら、僕たちの薄汚れたものが洗いざらい晒されてしまうだろう。心なんてものを開いたばっかりに、僕たちはいつまでも、お互いの汚いもので傷つけあう関係になってしまう。

でも、いまではそれも少しいい気がしている。彼女はどう思うだろうか。聞いてみようとして、やめた。そんなことを聞いたら、また彼女はきっと傷ついてしまうから。彼女が傷ついた顔を見るくらいなら、僕は死んだ方がマシだった。

彼女が顔を上げる。今にもまた泣き出してしまいそうな顔をしていた。せっかく泣き止んだんだ、もう泣かないで欲しかった。ああ、でも、僕が今から言う言葉で、やっぱり彼女は泣いてしまうだろう。でも、きっとこれでいいんだろう。心を開かなかった僕たちの結末なんて、こんなものだ。

僕は手に持っていた拳銃の握把を握った。ゆっくりと息を吸い込む。

心臓の音がうるさい。

口からでかかった言葉が、喉元で駄々を捏ねていた。

僕は、握ったままの拳銃を自分のこめかみに持っていく。

それから、

一瞬だけ目を閉じて、

言葉を吐けるだけ吸い込んだ息を、止めた。

目を開ける。

彼女が、涙を零してこちらに駆け寄ろうとしてくる。

「さよならだ」

僕は、

ゆっくりと

指に

力を

入れる。

ハンマが、金属の擦れる音を立てながら落ちて。

僕の側頭部で、何かが弾けた。

衝撃。

立っていられなくなる感覚。

視界が急速にぼやけていく。

肩から地面に落ちて。

空を見上げながら倒れた。

雲の切れ間から日が差していた。

昔、センカワが言ったセリフを思い出す。

空の上には、天国があるってやつ。

ああ、確かに。

あそこが天国なのかもしれないと思った。

でも、僕は。

その天国を見上げている僕はきっと、あそこには行けない。

天国に行けるような人は、きっともっと純粋で、身軽で。

もう何も見えなかった。

耳元で、センカワの声がした。

天使の福音みたいな音だった。

その声で、僕に

「愛してる」

と言った。



エピローグ


最初に目に付いたのは、真っ白な天井と、それから窓から差し込む光だった。

僕は体を起こす。病室の壁も、シーツも、僕が着ている服さえも白かった。きっとこの病院を設計した人間は、病的なまでに純粋なものが好きだったに違いないな、と思った。

「誰か」

ちょっと大きい声を出してそう言った。自分で思っているより高い声だった。それから、自分で思っていたより大きな声が出た。

病室の扉が開いた。少し歳のいった看護婦だった。白衣を着ていて、顔色もやっぱり白かった。でも、僕を見るなり、顔を真っ赤にして部屋から出ていってしまった。それが、僕が見た最初の色だった。人の顔ってあんなにもすぐに真っ赤になるのかと、少し笑ってしまう。

出て行った看護婦が戻ってきた。後ろに人がくっついてきていて、どうやら医者みたいだった。眼鏡をかけていて、歳がわかりにくい。彼はベッドの下にしまってあった椅子を引っ張り出してきて座った。手に持っていたバインダーに挟まったカルテをペラペラとめくる。目的のページに着いたのか、彼はページをめくる手を止めた。胸ポケットに刺さっていたボールペンをノックする。僕の目を見た。僕も、彼の目を見る。

「怪我はどう?」

「なんともありません。痛いところはないです」

「君は長い間昏睡状態だった。脳に強い衝撃を受けたから、もしかしたら記憶が曖昧になっているかもしれない。なにか覚えているかな?」

「なにも」

「君が運ばれてきた時、そばに女の子がいた。その子について、なにか覚えていないかな?」

「どんな子でしたか?」

「髪は短かった。それから、ずっと君の名前を呼んでいたよ」

「僕の名前?」

「ああ、君の名前だ。ササ・ユフカさん」

僕はゆっくり自分の名前を反芻した。それから、酷く懐かしい気持ちに駆られた。耳元で、僕の名前を呼び続けている声がした。それと、僕の体に纏わりつく呪いみたいな言葉もだ。

きっと、僕の名前をずっと呼んでいたのは彼女だろう。短く切った髪を凛と下げ、いつも遠くの空を見ていた彼女だ。僕らは三週間程度を共にして、そして思いつく限りで一番最低なさよならをした。その時の彼女の泣き顔が思い出される。心の底から笑った時の顔も。それから、僕の名前を、愛おしそうに呼ぶ顔も。

彼女は僕がいなくなったあとどうしただろうか。少し考えて、やめた。いくら考えてもわかりっこない。もしかしたらこの医者が知っているかもしれないけど、知らなかったとき悲しむくらいなら、聞かない方がいい。

医者はそのあと僕に簡単な質問をして帰っていった。例えば、簡単な算数や、写真に映る物を答えてくれとか、絵の具が何に見えるかとかだ。僕は興味を無くしていたから、適当に答えた。それのせいで入院が伸びたらどうしよう、と今になって思う。あとで看護婦に本でも買ってきてもらおうか。三冊くらいがいいだろう。それだけあれば、少しくらい伸びても大丈夫に思えた。


それから何日か経って、僕は精密検査を受けることになった。大きな機械の据え付けられたベッドに寝かされて、動くなと言われた。なんでも、脳みそを輪切りにして異常がないかを確かめる機械らしい。自分でも見たことがない頭の中を見られるのは少し気分が悪かったけど、別に思考まで覗き見られるわけじゃない。諦めて、ぼんやりと天井を眺めている間に終わっていた。

その翌々日、僕はついに退院を言い渡された。検査に異常はなかったそうだ。僕が寝てる間に、僕はあの輪切り機械の中に何度も入れられていて、異常がないのはもうわかり切っていたらしかった。あとは僕が目覚めてさえくれれば万々歳。僕はこうしてちゃんと目覚めたから、あの医師も、看護婦も喜んでいた。

退院の直前、僕は医者に行く宛がないといったら、用意してくれると言った。それから、近くに海があるから見てくるといい、と場所まで教えてくれた。他にやることもないので、僕は海に行くことにする。海はここから近かった。病院を出ると、すぐ向かいにハイウェイが走っていて、そのハイウェイの下を抜けると海が見えた。空は曇っていて、海も、空につられて少し白っぽい色をしていた。

僕はハイウェイの高架下、ちょっとしたコンクリート製のブロックに腰掛けた。海を眺める。病院にかかっていたカレンダーを盗み見た限りだと、今日は日曜日で、季節はじきに夏だった。

僕はコンクリートを降りて、砂浜に出た。高架の影になっているところに腰を下ろす。コンクリートより柔らかくて座りやすい。そのまま横になった。目の前には、ただ白いだけの空があった。

僕は眩しさで目を閉じる。それから、彼女のことについて少し考えた。耳元で、彼女の声が聞こえるような気がした。


「なにもないよ」


頭の上から聞こえた。その確信が僕にはあった。

僕は目を開ける。いつの間に寝てしまっていたらしい。眼前にはただ白いだけの空があった。耳には波の音が届く。これが不思議で、注意して聞いていると、段々波打ち際が迫ってきているような感覚に陥った。僕は体を起こした。頭についた砂を軽く落とす。紫外線にやられた目を慣らすために、目に優しい色を探した。生憎、そういったものはここにはないようで、どこまでも続いていそうな白い砂浜と、見ていると不安になるくらい遠い海がそこにいるだけだった。

僕はさっきの声の主を探すために辺りを見渡した。人はいない。声の主も例外ではなく、そこには最初から誰もいなかった。

僕は先程の声に聞き覚えがあった。僕のことを何度も何度も呼んでいた声だった。それから、僕の体に纏わりつく呪いでもあった。

立ち上がった。浜辺に向かって走り出す。波打ち際まできて、辺りを見渡した。やはりそこには誰もいない。どこまでも続いているんじゃないかと錯覚するような海岸線と水平線が、そこにはいるだけだった。

僕は空を見上げた。水平線の少し上、雲が少し薄くなっているところだ。黒い点だった。注意して見なければ見落としてしまうくらいの小ささ。飛行機だろう。戦闘機かもしれない。段々と高度をあげて、そのうち雲の中に消えていった。もう、何も見えない。

「雲の向こうにはね」

彼女の声だ。今度ははっきりと聞くことができた。僕は、空に向かって手を伸ばす。その行為に、多分意味は無い。もしかしたら、誰か掴んでくれるんじゃないかっていう幻想。もちろんそんなことはなかった。何も掴むことなく、僕の手は空を切る。握られて、またぶらりと垂れた。

やはり君はそこにいたのか、と思った。それから、僕はやはりここにいるのか、とも思った。

僕たちは決して相入れることはなかった。お互いに心を開かなかった。開くことがなかったから、きっと僕は僕でいられたし、君は君でいられたんだろう。もし開いていたら、きっとお互いに溶け合って、どれが僕か、どれが君かわからなくなってしまっていただろう。そして、きっと僕らはそのまま死ぬ。死んで、天国とも、地獄ともつかないようなところに二人でずっと居続けることになったんだろう。

でも僕らは心を開かなかった。開かなかったから、君はそこにいて、僕はここに居るんだろう。

僕は、流れていた涙を拭った。それは少し冷たくて、それから血みたいな味がした。視界が滲んでいく。拭っても拭っても、涙は止まらなかった。

雲が少しずつ白んでいく。日が差し込む匂いがした。湿った空気が、日の光と混じりあっていく。

そのうち、雲が切れて。

君が僕に手を伸ばした。

僕も

その手を掴むために

必死に

伸ばしても伸ばしても、それにはきっと届かない。

僕がそうしたように、きっと向こうから手を掴むようなことはないんだろう。

僕は必死に伸ばして、それからそれを下ろした。

頬を伝っていく涙も、日に溶かされて暖かかった。

ああ、センカワ。

君の言う通りだった。

天国はきっとそこにある。

そこに。

地上の汚れた僕らなんかが、どんなに頑張っても届かない場所に。

その、綺麗で、身軽で、なんのしがらみもない場所に。

そこに、あるんだ。

いつか、僕もきっとそこに行くから。

そしたら、そこでまた二人でいさせてほしい。

なにもかもが優しい世界で。

二人で、いつまでも、永遠に。

きっと、それはとても。

綺麗だ。


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Untitled わたなべ @shin_sen_yasai

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