花束を贈りましょう

川の湯煙

第1話

「ねえ、どんな花がいいかしら」

 そう言って笑う貴方はとても美しくて、僕はつい見惚れていたのです。形のいい唇が動いて、その隙間から白い歯がのぞきます。ちろりと見える真っ赤な舌に、僕の心臓は情けなくも激しく動揺して早く打ちました。なんて綺麗なのだろうか、もしや貴方は天界から降りてきた天使か何かのかもしれません。僕は残念ながら貴方のことをよく知りませんが、それでも良いのです。こうして貴方に言葉を向けられるだけで、良いのです。

「ちょっと、聞いているの」

「すみません、つい」

「つい、どうしたの」

「貴方があまりにも美しかったので」

 まァ、と貴方は口元に手を当てて、わざとらしく驚きました。貴方は自分がどれほど美しいか、僕以上に理解しているのでしょう。どれほど自分の容姿が武器になるのかをご存知なのでしょう。     

 芝居がかった動きで貴方は髪を整え、初心な処女のように視線を辺りに漂わせました。

「恥ずかしい人」

 ええ、そうでしょうとも。僕は酷く恥ずかしい人間なのです。アダムとイブが楽園の林檎を食べ、羞恥心という罪を受けたのはまさにこのためであったのでしょう。僕は自分を恥ずかしく思います。情けなく思います。馬鹿だと罵る人がいれば、甘んじて受け入れましょう。僕は愚かな人間なのですから。

「何故、花を選んでいるのですか」

 僕はその華奢な背中に問いかけました。大きな街の小さな路地にひっそりと佇む花屋にわざわざ訪れた理由を知りたかったのです。花屋なら大通りにいくらでもあります。ここの店は、その、正直言って地味でした。貴方がいることによって花たちが活き活きと胸を張っているようにさえ思えるほどでした。ええ、彼女は花にとって太陽になり得るほど美しい女性なのです。

「花は誰かに贈るためにあるのよ」

 僕の心は嫉妬に狂いました。貴方が誰かのためを思って花を選んでいると思うと、この店の全ての花を、いやこの世の全ての花をずたずたに引き裂いてやりたくなりました。それが叶わぬのなら、貴方が思っている人間を殺してしまいたくなりました。僕の心は黒く醜い何かで塗りつぶされました。

「誰に贈るのですか」

「可哀想な人によ」

「それは一体誰ですか」

「貴方も知っているわ」

 貴方はそれ以上何も言おうとしませんでした。僕はただ貴方が小さな唇を少し尖らせて、どの花がいいかと選んでいる様子を見ているだけでした。1時間、2時間が経ったでしょうか。女の買い物は長いものですね。ですが貴方を見ていれば僕はいくらだって待つことができたのです。例えその花が自分ではない誰かに贈られると知っていても、貴方を見ているだけで黒い炎が鎮められていくのです。ああ、やはり貴方は迷える人々を救う女神なのでしょう。

 貴方は花束を大事そうに両手で抱えて、満足そうに微笑んでいました。足取りはいつもより軽やかで、小さな鼻歌が聴こえてきます。それはまるで賛美歌のように僕の心を美しくしていくのです。なんと素晴らしいことでしょう。

 僕は貴方の言われるがまま、車に乗り込んで目的地へと走らせました。目的地に着く頃には、太陽が山を燃やし始めていました。橙色の光がぼおっと貴方の頬を照らして、頬紅をつけたかのように色付けます。

「さあ、行きましょう」

 音もなく車から降りると、貴方は僕の前を長い髪を揺らしながら歩き始めました。黒瑪瑙の髪はひどく魅力的で、思わず手を伸ばしてしまいそうになりました。しかし僕は己を叱咤します。僕が貴方に触れることなどあってはならないことなのです。僕は汚れています。貴方に触れれば、この汚れはまるで毒のように貴方の全身を蝕んでしまうでしょう。ですから、僕が貴方に触れることは許されないのです。

 僕はただ貴方の影を踏んで歩きました。地平線に近い太陽に当てられた貴方の長い影を踏むたびに、僕は言いようのない興奮を得るのです。貴方の形のいい頭を踏みつけ、踏めば折れるような細い腰に足を下ろす。尾骶骨から首筋に駆け上がるように電気が流れ、ふるりと身が震えます。ですが貴方は僕がこんな劣情を抱いていることを知らずに、大事に花束を抱えて歩いているのです。貴方ば僕が貴方に襲いかかってその身を暴き、辱めることをしないと確信しているのです。その通りです、僕が貴方に触れることは命が果てるその時まで無いのです。

 貴方はあるところで足を止めました。麓に車を止めてからもう1時間近くは歩いていたでしょうか。そこはつい先日僕と貴方で運命を共にする約束を誓い合った場所でした。鬱蒼とした木々が、まるで貴方を歓迎するようにその葉を揺らします。

「ご機嫌よう、愛しい人。今日は貴方に花を贈ろうかと思って。誰からも花を贈って貰えないのは悲しいもの。そうでしょう?」

 貴方はそう言って花束を贈りました。貴方のその白く細い指先が、愛しむように表面をなぞります。先程の僕ならば、嫉妬の炎で心を焦がしていたのかもしれません。ですが今の僕はいたって冷静でした。僕の心はただ貴方だけに満たされ、貴方を愛おしいとひたすらに焦がれています。

「うん、素晴らしいわ。貴方のことを考えてお花を選んだのよ。あら、喜んでいるのね。私もなたに喜んでいただけて嬉しいわ」

 貴方はまるで無邪気な子供のように手を叩いて喜びました。乾いた音が辺りにこだまします。

「でももう行かなくてはならないの。ああ、寂しがらないで。貴方のことは忘れないわ。愛しかった人、このお別れは悲しいことでは無いの。私のために必要なことなのよ。ですから、貴方はそこでゆっくりとしなさって」

 貴方は立ち上がるとスカートの裾を摘んで恭しく頭を下げました。すぐに頭を上げると裾を翻して僕に微笑みかけます。

「さあ、帰りましょう」

 貴方はとろけるような笑顔で僕に声をかけました。貴方は僕の返事を待たずに歩き始めました。僕は数歩貴方を追いかけたあと、貴方が愛した男を振り返りました。男は物言わず、そこにありました。当たり前でしょう。男は土の下にあるのですから。

 

 

 

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