第3話 黒鉄のポセイドン
「
ヨシオが全ての書類に署名したことを確認すると、
センサーでも付いているのだろうか、二人がそこに立つと同時に巨大な扉は左右にゆっくりと開き始めた。
館長は満足そうな顔で頷きながら両腕を一杯に広げると扉の向こうに更に広がる空間に向かって踏み出す。その背中越しに広がる光景、それを目にした瞬間、ヨシオは思わず息を呑みこんだ。
そこもまた大理石張りの広大な空間、しかしそこには高い天井にまで届かんとする黒く巨大な円筒形の物体が鎮座し、正面に見える壁の大部分はそれを制御するための計器類で埋めつくされていた。
スチームパンク、それがこの巨大な装置を目にしたときにヨシオが感じた第一印象だった。映画に出てくるような歯車やら張り巡らされたパイプなどはないものの、この時代にはまったくそぐわないこの黒光りする巨大な鉄のオブジェには見る者にそう思わせる十分な迫力があった。
それはポセイドンと言う。
Potential Saved Energy Integrated Organizer、略して
ヨシオをその場に残して両腕を広げながらポセイドンに歩み寄る仏子沢館長、それを背にして立つ彼の顔は愛おしい自慢の我が子を見せるかのような恍惚の笑顔に満ちていた。
「それでは早速始めましょう」
館長の声とともに白衣を着た数名の男性がヨシオの父親が横たわるストレッチャーを運び込んできた。ポセイドンの中央にある扉の前にそれが寄せられる。
「さあ、お父様にご挨拶を」
館長がヨシオの背に軽く手を当ててエスコートする。二人がストレッチャーの前に立つと同時に白衣の男たちは身を引くように下がっていった。
ヨシオは傍らに立ってその顔を覗き込んだ。薬で熟睡しているのだろう、父親は穏やかな寝息を立てていた。
彼の脳裏にこれまでの日々がフラッシュバックする。
技術者としての充実した日々、そこから一転していつ終わるとも知れない介護の毎日、しかしもうこれで解放されるのだ。
その瞬間、ヨシオの目から涙が溢れ出てきた。これまでの張り詰めていた糸が切れたことによる安堵の涙、それが父親との別れを悲しむ涙ではないことはヨシオ自信がはっきり自覚していた。
声を上げることなく肩を震わせて涙を流すヨシオを仏子沢館長は温かい眼差しで見守っていた。
「長い間、さぞかしご苦労されたことでしょう。それでは加治様、別室へご案内します。あとは私共におまかせください」
父親がアーチ扉の中に吸い込まれていく。
重たい音とともに扉が閉じられる。
すると同時に
――*――
次に通された部屋もまた他に違わず大理石と黒い鉄製の調度品で統一されていたがその部屋のテーブルにはその部屋には似合わないデザインの薄型液晶モニターが置かれていた。
相変わらず遠近感が狂わされそうな空間でヨシオはひとり静かに次の指示を待つ。やがてそこに館長の秘書を名乗る女性が現れた。
「失礼します」
女性は一礼すると早速慣れた手つきで携行した文庫本ほどの黒い物体をモニターの背面に装着する。続いてその電源ボタンを押すと画面の色は黒からチャコールグレーに変わり、やがてそこにぼんやりとした映像が映り始めた。
「こちらに思念体となられたお父様の波動状態が映し出されます。どうかご確認をお願いします」
目の前には母子が楽しそうに語らう食卓の映像が映し出されていた。そこはヨシオの生家、白地に淡いピンクのテーブルクロスもキリンの絵の皿もみな彼の記憶に残るものだった。エプロン姿の女性は母親だった。まだ若い母親が満面に笑みを浮かべて楽しそうに喋っている。
そうか、これは親父の視点なんだ、だから母親と自分しか映っていないのだ。ヨシオはそう理解した。
続いて場面が切り替わるとそこは浴室だった。シャンプーハットを頭に載せた子供、もちろんそれは幼い頃の自分だった。低い視点から見下ろしているのは親父が浴槽に浸かっているからだろう。
こうして懐かしい日常がまるで走馬灯のように次々と現れては消えていった。
「加治様、お父様は無事に量子化されたと存じます。それではそろそろ……」
頃合いを見計らうように秘書なる女性がやってきてヨシオをまた別の部屋へと案内する。不思議なことに今のヨシオにこれと言った未練も悲しみも湧いて来ることはなかった。明日から自分はまた本来の生活に戻るだけなのだ、自分にとって「あるべき姿」の生活に。
部屋を去るヨシオの背後では観る者がいなくなった映像だけが淡々と流れていた。
そこでは三人の家族が永遠の団欒を楽しんでいた、ブラケットと呼ばれるあの小さな箱の中で波動となって、そのエネルギーが続くまで。
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