第2話 人間の量子化

 すっかり雰囲気に呑まれてしまったヨシオが恐る恐る足を踏み入れたそこは体育館ほどの広さがある空間で、ここもまたこれまで見てきたのと同じように全てが大理石張りだった。


 高い天井から吊り下げられた鉄製のシンプルなシャンデリア、その真下に配置された同じく鉄製のイスとテーブル、そしてその傍らには品の良さそうな長身の男性が立っている。

 黒いタキシードにシルバーグレーのアスコットタイを合わせたその姿は白い大理石の中にポツンと置かれた調度品の黒と相まって遠目からでも存在感のあるコントラストを構成していた。


加治かじ様、お待ちしておりました」


 男性は部屋を後にした女性と入れ替わるようにヨシオの前までやって来ると両手を添えて名刺を差し出した。


「初めてお目にかかります、館長の仏子沢と申します」


 ヨシオはあたふたとしながらそれを両手で受け取る。


「館長  仏子沢 博文」


 住所や電話番号はおろかメールアドレスすらもない、氏名だけが書かれたそれは名刺と呼ぶにはいささか素っ気ないものだった。


「ぶ、ぶつ……」

「ぶしざわ、と読みます」

「わ、私は、加治ヨシオと申します。あの、すみません、あいにく名刺は……」

「いえいえお気になさらずに。加治様のことは既に書類で拝見しておりますので」


 そう言って仏子沢ぶしざわ館長はやけに長く見える腕を伸ばして目の前のイスに座るようにと促した。


「加治様、ようこそ我が量子図書館にお越しくださいました。早速ですが今一度重要事項の説明をさせて頂きます。それが済みましたら同意書に最後のご署名を頂戴して正式な契約となります。ご不明、ご不安な点につきましては随時お答えましますので遠慮なくお声がけください」


 館長は用意された台本を読むかのようにそう言い終えると、手にした革製のファイルをヨシオの目の前に置くやいなや今度は天井を仰いで唐突に語り始めた。



「霊魂不滅、かつて一人の科学者がその証明に挑みました。芦ヶ久保あしがくぼ博士、彼は研究の過程で脳内の生理活動が波動エネルギーとなって残存したものがその正体であろうと考えたのです」


 腰の後ろで手を組んでヨシオが座るテーブルの周囲をゆっくりと歩きつつ、あるときは感慨深げに、またあるときは大仰に両手を広げながら話す姿はどこか芝居がかって見えた。


 館長によると、人の脳波だか脳内の生理状態やらを波動なるものの集合体として保存することを人間の量子化と言うらしい。そして芦ヶ久保博士なる人物がその方法を確立したと言うのだが、発想の原点が霊魂の証明だったという部分にヨシオは似非えせ科学にも似た胡散うさん臭さを感じるのだった。



「例えば水面を指先で叩くことで生じる波紋を考えてみましょう。それをいくつか重ねると増幅されることもあれば干渉により減衰してしまうこともあります。人の脳から得られる複雑な波動もまたそれと同じく相互に干渉し合ってやがては失われてしまいます」


 抑揚のある口調で館長の話は続く。


「我々は脳内から抽出された複雑な波動を当館の設備を用いて解析し、細心の注意を払いつつそれらを単離して正弦波せいげんは余弦波よげんは矩形波くけいはに近似して再構成します。こうして正規化された波動は相互干渉の影響が抑えられてより安定な状態に固定されます。私共はこれを人間の量子化と呼んでいるのです」


 量子化された波動はブラケットパッケージ、略してブラケットと呼ばれる文庫本ほど小さな箱に圧縮保存される。それは「思念体しねんたい」と名付けられ、それこそが量子化された人間の最終的な形態だった。

 小難しい理屈はさっぱりだったが、要するに父親の頭の中から脳波だけを取り出してそれを小さな箱の中に保存するということか、とヨシオは理解した。



 微かな残響を伴う館長の声と一定間隔でリズムを刻む靴音、無駄に広いこの空間でそれは催眠誘導のようにヨシオの意識を包み込み、やがて減衰する波動のように彼の思考力のみならず不安や猜疑心までも薄めていくのだった。


「そして!」


 仏子沢館長が発した突然の声にヨシオの意識は現実に引き戻された。

 そうだ、この人は途中からこの量子図書館なる施設の由来や量子化を発見した芦ヶ久保博士なる人物の功績をまるで講談の如く弁舌爽やかに語っていたのだった。


「発見者である芦ヶ久保博士はついにご自身を量子化して、その思念体はここ量子図書館にて我々に知恵と知識のみならず叱咤、激励をも与えてくださっているのです。このように偉大なる頭脳を失うことなく未来永劫保存する、それこそが我が量子図書館の使命なのです」


 どうやらやっと長い独演会に区切りがついたようである。

 そしてここからが本題、この量子図書館との契約に係わる重要事項の説明がこれまでとはうって変わって淡々とした口調で続けられるのだった。



 まずは個人情報の完全なる保護、これは昨今の企業ならばどこもそうしているように被験者及びその家族に関する全ての情報は厳重に保護されるということが事務的に説明された。

 それに続くのが量子化された思念体の維持と運用について、これこそが契約の肝となる最も重要な話だった。


「まずは量子化における不可逆ふかぎゃく性についてご了承を頂かねばなりません。不可逆、すなわち思念体となったならばそれを元のお身体からだに戻すことはできません」


 この問題の克服は現在も研究が進められているが、しかし今もって成果は出ていなかった。量子図書館なるこの施設が未だに正式な学術機関として認可されず、なおかつ量子化される対象者を「被験者」と呼んでいるのも全てはこの不可逆性問題に起因していた。それでもコールドスリープに比べたらずっと廉価に被験者の意識を保存できるのだと納得して被験者本人とその家族は契約しているのだった。


 仏子沢館長はここでひと息つくと少しばかり沈痛な表情を浮かべてジャケットの襟を正した。


「実は申し上げにくいのですが、安定性を高めたとはいえ思念体の減衰は避けられません。複雑な波動の相互干渉によりその機能は三六〇日で停止します。よってそれを以って被験者様並びにご家族との契約も満了となります」


 三六〇日ということはほぼ一年、いや一年に満たない期間である。すなわち父親の思念体はそんな短い期間で消滅してしまうのか。

 俯き加減で考え込むヨシオの顔を覗き込むようにして仏子沢館長が語りかける。


「加治様、お話を続けてもよろしいですか?」


 ヨシオは館長の顔を見上げて小さく頷いた。その様子を見た館長は妙にかしこまった口調で話を続けた。


 量子化された後の肉体は脳内の生理活動が失われて脳死に近い状態となる。やがて思念体が減衰し消滅すると同時に肉体もその機能を停止する。量子図書館は契約に基づいて思念体が存在している間の生命維持は行なうが、契約満了とともに活動が停止したその肉体は荼毘だびに付されるのだった。


「お別れまでの間、当館では『ご面会』というサービスを提供しております。加治様はお父様の思念体が何をお考えになられているか、その状態やご意志を映像としてモニタリングすることができるのです」



「あのぉ……」


 ヨシオは肩をすくめながら右手を胸の前に小さく挙げて館長に問いかけた。


「その話をもう少し詳しく教えて頂けないでしょうか」


 館長はゆっくり頷くと噛んで含めるような口調でその問いに答えた。


「当館でご用意しております専用の装置にブラケットをセットすることで思念体の活動状態を映像化することができます。ご家族の皆様はモニターを通してその様子をご覧になることができるのです。これを私共は『ご面会』と呼んでおります」


 館長はまたもや天井を仰ぎながら芝居じみた口調で続けた。


「そしてこれこそが当館が当館たる所以のひとつなのです。人間の量子化を実現した芦ヶ久保博士は研究の過程で思念体の内部活動を映像化することにも成功しました。そしてその技術を安定して提供できるようになったことで量子図書館を事業化することが可能となったのです」


 思念体の映像化はエネルギーの消耗が激しいため契約満了までに面会できるのは二回までだった。もしそれ以上の回数を望む場合は思念体へのエネルギー増幅を行なわねばならないが、それには相応の費用がかかる。そのため被験者の家族には回数を増やすことよりも与えられた二回の機会を有効に生かすよう熟慮することを施設側は奨めていた。


 しかし「ご面会」なるこのサービスが施設のスタッフからは「お墓参り」と揶揄されており、そう呼ばれる理由を館長も知ってはいたが、もちろんこの場ではそんなことはおくびにも出さなかった。


「それで、その、もし二回以上の面会をしたい場合は……」

「一回につき百万円。規定以上のご面会は設備にも思念体にも大きな負荷がかかるのです。百万円は設備と安定性の維持にかかる最低限の費用とお考えください」


 仏子沢館長はヨシオの言葉を遮るようにそう言い切った。


 三六〇日、それが父親に残された命の時間である。

 そしてその後は……もしかすると自分の行為は安楽死の幇助ではないか?


 しかしいつ終わるとも知れないあの日々のことを考えたならば……そんな葛藤を抱えながらもヨシオは目の前に置かれたペンに手を伸ばして最後の同意書にサインするのだった。

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