エピローグ ~手を繋ぎ歩む未来~
結婚を申し入れる書状が雅烙へ届いてから一年が経ち、婚約期間内で行われるべきことは全て終了した。
雅烙王太子が直接交渉したお陰で、条約について条件の擦り合わせから調印式まで滞りなく進められ、エスターニャ帝国と雅烙国の間には友好条約が結ばれた。
報告のため雅烙王太子一行は国へと帰って行ったが、婚礼の儀まで残ると言い張る王太子が引きずられて行くという、なんとも滑稽な去り際だった。
婚礼の儀に出席するため他国からも人が集まり、雅烙からは国王と王妃と第二王子が姿を見せた。
「兄上がうるさかったのですが、全力で阻止してやりました。僕だってシン君に会いたいのに、兄上ばかりずるいですからね」
顔をしかめて告げたのは、雅烙第二王子伽煉蒼。
煉蒼はイェルハルドを見掛けると嬉しそうにまとわり付き、イェルハルドも優しい笑みで、それを受け入れていた。
「まぁ、なんだかすっかり大きくなってしまって」
「すっかり大人の男じゃないか」
雅烙の王妃と国王も再会を喜び、皇宮へ到着した日の夜は、遅くまで語り合った。
東国の中でも、最初にエスターニャ帝国と友好関係を結んでいたサージハルの国王も祝いに駆け付けた。滞在中は雅烙国王を追い回し、雅烙国王が身軽に逃げる姿が皇宮内のあちらこちらで見られたが、結局捕まえられなかったようだ。
雅烙は閉じた門扉を開放したわけではないと、最終的に宣告されていた。
行われる婚礼の儀は、雅烙式と西国式の二種類。
雅烙式の婚礼の儀は非公開。
雅烙の関係者のみが集められ、雅烙の城を真似て造られていた東の宮にて執り行われた。
奥にある一室を儀式のための間として飾り立て、雅烙国王と王女が二人きりで部屋にこもる。中で行われるのは、伽家の者が人の身へと落ちるための儀式だ。
儀式を終えて部屋から出て来た玲燐が無言のまま、儀式の間の外で待っていたイェルハルドのもとへと進み、一つの盃で二人は交互に酒を飲む。
雅烙で作られた特殊な酒で身を清め、現世の者の体へ唇で触れれば、伽家の者は完全に人の身へと落ちるのだ。
玲燐の唇がイェルハルドの手の甲に触れ。
イェルハルドの唇が、玲燐の手の甲に触れる。
これで二人は夫婦となり、山の神にも認められたこととなる。
ここが雅烙であれば、この後祝宴が催され、飲んで騒いだ後で夫婦となった二人は新居へ入るのだが、ここはエスターニャ帝国の皇宮だ。
衣装を替え、続いて大勢の前で西国式の結婚式に臨む。
民たちからも祝福された玲燐は皇后として、エスターニャ帝国の皇宮へ迎え入れられた。
全ての予定が終わった、長い一日の終わり。
東の宮の奥の、夫婦のための寝室で、玲燐はイェルハルドを一人で待つ。
昨日までは、イェルハルドは執務室の続き部屋を自室として使用していた。
開け放った窓の外。丸い月が浮かんでいる。
人の気配を感じて、玲燐は振り返った。
静かに扉が開かれて、どこか気恥しげに、視線をさまよわせたイェルハルドが入って来る。
玲燐にとっては夢にまで見た、待ちかねた瞬間だった。
心の奥がそわそわと熱を持っている。玲燐は立ち上がり、イェルハルドのもとへと足早に歩み寄った。
「これを」
イェルハルドから差し出されたのは、長方形の箱。
受け取った玲燐が蓋を開けると、黄色い宝石で飾られた白銀の髪飾りが姿を現した。
思わず涙が溢れ、玲燐の手が震える。
「遅くなったが――ただいま、玲燐」
バツが悪そうな顔で、指先で頬を掻き、滲むようにイェルハルドが笑った。
「おかえり。ずっと……待っていた」
どちらからともなく身を寄せ合い、きつく、互いの体を抱き締めた。
嬉しくて、幸せで、玲燐の目から溢れる涙が止まらない。
乱暴に目元を拭おうとした玲燐の手を止めて、イェルハルドの指先が優しく涙を拭ってくれた。
一つだけになった紫の瞳が愛しげに、玲燐を見下ろしている。
イェルハルドが玲燐をそっと抱き上げて、先ほどまで玲燐が座っていた窓辺の椅子へ腰を下ろした。
玲燐は彼の膝の上。そっと、たくましい胸へ頭を寄せる。
「月を、見ていたのか?」
聞かれ、玲燐は静かに首を横に振った。
「……思い出していた。お前がいなくなった夜のことを」
大きな手に髪を撫でられ、玲燐は目を閉じる。優しい手付きが、心地良い。
「悩んだ。君を、迎えに行くべきか」
「それで、十年か」
頭の上、苦笑を浮かべた気配が降ってきた。玲燐は身動ぎせず、彼の鼓動に耳を澄ませる。
「俺にとっての帝国は窮屈で、恐ろしい、大嫌いな場所だった。皇宮には様々な人間の陰謀が渦巻いている。……君を迎えられるよう整えたつもりだったが、自由な君を捕らえ、閉じ込めてしまうことを、ためらった」
「雅烙での私は、いつでも駆け回っていたからな」
玲燐は笑みをこぼした。同時に思う。確かに皇宮は窮屈だ。否定はしてやれない。
「美しい君に触れるには、俺は血に塗れ過ぎた」
髪を梳いていた手が離れて行こうとして、目を開けた玲燐は、慌てて引き止める。
握った手を、己の頬へと運んだ。
硬い手のひらへ頬を押し付け、上目遣いで、片目を失ったイェルハルドの顔を見上げる。
「迎えに来ないつもりだった?」
いつもよりも近い距離で見つめた先、イェルハルドが、目を細めた。
「玲燐のことだ、きっと俺を待っているだろうことはわかっていた。だが、君を想えばこそ諦めるべきなのではないかとも、考えた。……結局、君が他の男のものになると聞いたらもう、ダメだったが」
「おびき出し成功だな?」
口端を上げて笑ってやったら、イェルハルドはまた、バツが悪そうな顔になる。
「君が、俺のことなど忘れてしまったのかと考えたら、目の前が真っ暗になったな」
「他に好きな男が出来たと考えて、弱腰の求婚だったわけか」
「断られたら、諦めが付くかと」
「馬鹿だなぁ」
愛しさが胸の中いっぱいに溢れ、玲燐は微笑む。いつの間にか、涙は止まっていた。
「イェルハルド様。触れて欲しい」
懇願したら、隻眼の顔が真っ赤に染まる。
紫の瞳がさまよったが、たくましい両腕で、そっと抱き締められた。まるで壊れ物でも扱うような力だ。
「もっと、強く」
イェルハルドの両腕の力が強まり、玲燐の口からはほぅっと、幸せの吐息が漏れる。
鼻から深く息を吸い、彼の香りを感じる。安心すると同時に、胸が高鳴った。
「イェルハルド様」
催促で、名を呼んだ。
ゆっくり体が離れ、イェルハルドの片手が玲燐の頬を撫でる。その手は耳へと滑り、真紅の髪を梳く。
緊張した面持ちのイェルハルドの唇が、玲燐の頬へと触れた。二の腕を包む手のひらが、温かい。
「もう二度と、私を離さないで」
そっと、優しく、イェルハルドの唇は玲燐に触れる。頬から、額、瞼……。
「私が欲しいのは、イェルハルド様だけだ」
泣いてしまいそうな幸福の中、耳元へ触れた唇。触れた吐息。
「約束する。二度と、君を悲しませない」
大好きな人の声が、約束をくれた。
「約束だからな?」
「あぁ。もう、離さない」
初めて重なった唇は甘く、どこまでも優しい。両手を絡めて握り合い、額を合わせ、微笑み合う。
長い事二人はそのまま窓辺で、言葉と口付けを交わしていた。
※
エスターニャ帝国の皇帝と皇后は、大陸中の有名人。
真紅の髪に黄金の瞳を持つ神秘の皇后は皇子を二人産み、息子は二人共エスターニャ人の特徴だけを受け継いだ。
仲の良い家族の様子は、湖畔の離宮でよく目撃されている。
「イェルハルド様!」
皇宮でまとうようなドレスではなく、丈の長いスカートとシャツという動きやすい服装の皇后が両手を広げ、飛び込んだ先。湖畔にたたずんでいた大柄な男が危なげなく、皇后の体を受け止めた。
短い白銀の髪に紫の瞳を持つ隻眼の男は、腕の中の愛しい女性に視線を向けて、口元をほころばせる。
「君は変わらず、落ち着きがないな」
「イェルハルド様は変わらず、素敵だな」
「俺を素敵だと言うのは、玲燐だけだ」
「あなたが私だけのものという証拠だな。他の者たちは、あなたが優しくて可愛い人だと、知らないままでいて欲しいものだ」
「ガスパルたちが望むように、恐ろしい皇帝のままでいろということか?」
「そういうことではないが、あなたの魅力が広く知られてしまったら、私は気が気ではない。常にイェルハルド様のそばに張り付き、近付く女性たちをけん制せねばならん」
「それは……舞踏会の度やっていることと、何かが変わるのか?」
「自分の容姿が優れていて良かったと、あなたと結婚してからよく思うよ」
「玲燐、君以上に美しい者など存在しない。君は昔から、俺の太陽だ」
「ではイェルハルド様は、私を優しく包み込む月かな」
父と共に湖畔の散歩をしていた息子たちが呆れた顔を両親へ向けているが、二人はお構いなしに甘い空気を全身にまとっていた。
「そうだ。私は呼びに来たのだった。茶菓子の支度が出来たぞ」
「母上。その、男のような話し方は何とかならないのですか?」
長男からの苦言を、玲燐は豪快に笑い飛ばす。
「今は家族だけなのだ。構わんだろう」
「母様は皇后のお仕事の時は女神様みたいで遠い存在になってしまうので、僕はこちらの母様が好きです」
「お前たちの父様も、こちらの母様の方が好きらしいぞ」
「お、俺だって別に、嫌いとは言っていません」
「兄上は最近、難しいお年頃のようです」
「変な言葉を覚えるな! また
楽しげに笑って逃げる弟を兄が追い掛け、兄弟は離宮へ向かって駆けていく。
息子たちの後ろ姿を眺め、玲燐とイェルハルドはどちらからともなく、手を繋いだ。
「桃饅頭があるぞ」
「それは楽しみだ」
二人は寄り添い、歩いていく。
イェルハルド皇帝による治世は彼が高齢になり、第一皇子に譲位するまで続いた。帝国史の中で最も平和で、幸福な時代だったと言われている。
退位後は、湖畔の離宮で夫婦二人、静かに余生を過ごした。
二人の息子たちは争いを生むことなく、弟は、王となった兄を支えた。たまにくだらないことで喧嘩はするが、互いを思い合う仲の良い兄弟だったようだ。
林檎姫と呼ばれた皇后の血脈が続く限りエスターニャ帝国は安泰なのだと、人々の間ではまことしやかに、囁かれている。
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