第十三話 雅烙の王太子、襲来3

 生臭い、鉄さびの匂いが充満していた。

 何人斬っただろう。どれだけ、命を奪っただろう。

 刀身を鮮血が滑り落ちる。

 どす黒い血が、全身を濡らしている。

 胸元の奥深く、仕舞い込んだ簪に、着込んだ鎧の上から左手で触れた。


 太陽のような人だった――。


 今己がいる場所はまるで、漆黒の闇の中。

 浴びる血は温かいのに、心がどんどん、冷えていく。


 赦しを乞われてもためらわずに刃を奮う。


 せめて、恐怖と痛みが一瞬で終わるよう、切れ味の鋭い剣で首と胴体を切り離してやる。


 辿り着いたのは玉座の間。


 逃げることもせず、玉座に座り王冠を頭に乗せた若過ぎる皇帝が、じっとこちらを見下ろしていた。

 傍らには女がいた。

 必死に皇帝に――息子に、何かを話し掛けている。だが息子は取り合わず、ただ、待っているようだった。


 二人を守る者は、もう、誰もいない。


 ゆっくり階段を上った先、女は醜悪な顔で呪いの言葉を吐き続ける。

 指示を出し、女を捕らえさせた。

 自由を奪われた女は床に跪かされながらも、唯一自由な口で叫んでいた。


「やめてやめてやめてやめて私からその子を奪わないでお願いやめて逃げてよヴァル、お願いよ、私の可愛いヴァルデマル、あなたに全てを与えたこの母に、あなただけを愛するこの母に絶望を与えないでちょうだい。あぁもうこんなことになるのならさっさと殺しておくんだったわ、イェルハルド! 忌み子のイェルハルド! 取るに足らない第一皇子っ! あの女も毒を飲まない嫌な女だったわ。側妃の子は堕胎薬で子を流させていたのにッ。産み落とされただけのいらないお前、忌み子のお前、誰にも愛されないお前ぇぇぇッ!!」


 玉座から静かに立ち上がり、若き皇帝が剣を抜いた。何合か斬り合い、合わせた刃越しに、見つめ合う。

 その間も、女はずっと叫び続けていた。

 拮抗していた力がふ、と緩み、肉を絶つ感触が両手に伝わる。

 胸が、苦しい。張り裂けたのは己の胸かと錯覚する。


 白く細い左手が伸びて来て、指先が頬に触れた。


「兄上」


 呼ばれ、口腔に血の味が広がる。きつく噛み締めた際に、己の歯が、口の中の肉を噛み切ったようだ。


「やっと、助けに、来てくれた。僕一人じゃ抜け出せなくて、ずっと……苦しかった」


 いつの間にか、皇帝の右手には短剣が握られていた。

 慌てた周りの者たちが駆け寄ろうとした動きを鋭く睨み、視線で止める。


 鈍く光る刃を掲げ、皇帝が、にこりと笑った。


「兄上の瞳が、好きです。僕に何も強要しない。ただただ優しい、この瞳が。一つだけで、良いのです。僕にください。やっとあなたを兄と呼べて……嬉しい」


 こぽり、と命が溢れ、こぼれ落ちていく。


「ヴァルデマル」

「はい、兄上」

「すまない」


 こんな方法でしか救ってやるすべを見出せなかった兄を許さなくて良いから、せめて――――


 上から下へと、左目に熱が走る。

 同時に、手にしていた剣で弟の心臓を貫いた。


「もう……独りじゃ、ない…………大丈ぶ」


 抉るように、左目の傷が撫でられた。

 鮮血で濡れた空っぽの右手を大切そうに胸に抱き、弟は、ほっとしたような表情を浮かべる。

 喉の奥が、焼けるように痛い。

 絶命した若い皇帝の体を床へと横たえ、立ち上がる。


 一つだけになった紫の瞳は痛みを感じる程に、乾いていた。


   ※


 騎士の詰め所へ馬を預けた一行は、市街地へと繰り出した。


「紅焔」


 早速そわそわ落ち着きがなくなった紅焔に、イェルハルドが声を掛ける。

 振り向いた紅焔は歯を見せて笑い、自信満々の様子で頷いた。


「大丈夫だ、わかっている! 西国人は地べたをゆっくり歩く生き物なのだろう?」


 出発前、ガスパルに言い含められた内容だ。

 いくら人混みが邪魔だと思っても屋根に登らない。壁を走らない。人の頭の上を飛び越えない。街中を疾走しない。


「ガスパルは俺を何だと思っているんだ?」

「いやぁ、紅焔様。ガスパル殿が指摘していたこと全部、皇宮内であなたがやらかしたことですからね」

「栄翔もな」

「まぁ仕方ないですよねぇ。ちんたら前を歩かれているとイライラしてしまって」


 二人の会話を聞いて苦笑を浮かべたイェルハルドに対して、紅焔は豪快な笑い声を上げた。


 随行している近衛騎士たちに振り向き、イェルハルドは確認のため、告げる。


「彼らが怪我をすることよりも、させる方が心配だ。すまないが、よろしく頼む」

「お任せください」


 辿り着いた場所は中心街。

 様々な種類の商店が集まった、帝都リスタニアの中で一番人が多い場所だ。


「もう良いか、イェルハルド様?」


 待ちきれない、という様子の玲燐に左手を取られ、イェルハルドは柔らかな笑みを浮かべる。彼女の後ろでは侍女の二人も、そわそわ落ち着かない様子で周囲へ視線を走らせていた。


「行こうか」


 目的の店は特にはないが、色々な場所を見て歩きたいということらしい。


 皇宮の近衛騎士たちを引き連れた東国人の一行となれば、明らかな国賓。人々はかなり驚いたようだが、大騒ぎすることもなく普通の客として接してくれている。

 だが、皇帝が女性を連れた光景は珍しく、かなりの注目を集めていた。


「エスターニャの人ってすっごい見て来るわりに、話し掛けては来ないですよね~」


 春の言葉に、明明が同意する。


「雅烙だったら、ためらわずにみんなが話し掛けてくるわよね」


 体験した覚えのあるイェルハルドが、小さく噴き出して笑った。

 街の人々の中で、どよめきが起こる。


「帰る頃には両手いっぱい、何かを持たされたな」

「私の手はいつも林檎だらけだった」

「雅烙の林檎は、うまかったな」


 懐かしい、と目を細めるイェルハルドを見上げ、玲燐は自慢げに笑う。明明と春も、自慢げに胸を張っていた。


「あの頃のお礼に、リスタニアだけじゃなく、エスターニャの全部を案内してくれても良いんだぞ」

「かなり広いぞ? ……だがそうだな。連れて行きたい場所がある」

「どんな場所だ?」

「リスタニアから西へ向かうと、大きな湖がある。湖畔に離宮があるんだ。きっと君も気に入ると思う」

「イェルハルド様の好きな場所か?」

「玲燐と、共に見たい景色だと思った」

「そうか。それは絶対に行かなければ」

「必ず連れて行くと、約束しよう」


 玲燐が頬を染め、二人は視線を交わして、微笑み合う。

 いつも通りに甘い雰囲気を醸し出す玲燐とイェルハルドの後ろで、春がそっと、近くにいた近衛騎士へと話し掛けた。


「ちょいとリキャルドさん」

「なんでしょう、籐春殿」

「なんで街の人たち、こんなに見て来るんですかね? 時々歓声も上がるんですが」

「泣いているご老人もいらっしゃるわ」


 明明も会話に参加して、侍女二人は改めて周囲へ視線を走らせる。

 悪意は皆無。全て好意的な視線で、人々はひっそり物陰や離れた場所から、こちらを伺っている。建物の窓には、びっしりと人の影が並んでいた。


「なんか怖い!」


 小さな悲鳴を上げた春へ、近衛騎士は苦笑を浮かべて見せた。


「陛下が、笑っていらっしゃるからだと思います」

「シン君は、昔からよく笑いますよ?」

「あぁ、そうね。春は、笑うようになったシン君しか知らないのよね」

「明明先輩は何かをご存じですか?」

「シン君は……笑わない子だったの。玲燐様や紅焔様たちと過ごす内に笑うようになって、でもきっとまた、こちらに戻ってからは笑い方を忘れてしまったのでしょうね」

「言われてみれば、皇帝として会ってから最初の二カ月程はにこりともしなかったですね。だから、すっごく怖い人だなって思ってましたもん」


 明明と春の会話を聞いた近衛騎士は、小さく頷く。


「私が知るのは九年前からですが、陛下が笑みを浮かべることは一度もありませんでした」

「なるほど。こりゃ、闇が深いですな」


 ふむ、と顎を撫でた春が、唐突に駆け出した。


「シーン君!」


 とん、と背中を叩けば、振り向いたイェルハルドは穏やかな表情で首を傾げる。


「なんだか小腹が減りました!」

「肉か?」

「お! さすがです! 正解でーす!」


 懐から財布を出したイェルハルドが、春の手のひらへ小銭を落とした。


「あそこに、春が好きそうな店がある」

「お肉?」

「肉だ」


 喜んで駆け出して、店へと向かう。

 明明と近衛騎士のリキャルドが、その背を追った。


「春、あなた、お給金はもらっているでしょうに」


 咎める明明の言葉に、にかりと歯を見せ、春は笑う。


「知らないんですか? シン君は昔から、お兄ちゃんをしたいんです」


 明明の隣でリキャルドが、ぐ、と息を飲む音がした。


「紅焔様や栄翔様たちは比較的年が近かったからか友人になったみたいですけど、私なんかは年が離れているせいか、すごく、可愛がってもらいました。こちらに来て、私、わかっちゃったんです」


 イェルハルドが教えてくれた店へと辿り着き、春は串焼き肉を五本注文した。

 焼き上がるのを待つ間、振り向いた先。イェルハルドと玲燐が立ち止まり待ってくれている。

 大きく手を振れば、笑みを浮かべた玲燐が手を振り返し、イェルハルドも微笑と共に片手を上げた。


 焼き上がった串焼き肉を受け取った春は、明明とリキャルドに一本ずつ押し付け、駆け出す直前、振り向いた。


「境遇が笑顔を奪ったからって、与える人間がいちゃいけないわけ、ないと思いません?」


 玲燐とイェルハルドのもとへ駆けて戻った春が二人に串焼き肉を手渡して、三人揃って肉を頬張る。

 周囲から、拍手が沸き起こった。

 驚いて辺りを見回す明明に、リキャルドが告げる。


「あの肉屋、この後恐らく、行列が出来て大繁盛となるでしょう」

「買って食べただけではありませんか」

「陛下が街中で何かを召し上がるのは、初めてのことです」

「……ガスパル様がシン君の同行を渋っていらした理由は、こういうことだったのね。お仕事が忙しいのだろうと思っていたのですが、別の理由があったのかしら?」


 近衛騎士が浮かべた、困ったような笑み。どうやら肯定のようだ。


 足早に主人のもとへ戻り、明明は、隻眼の青年の顔を見上げた。皇宮内で晒している傷跡は、今は黒い布で覆われ隠されている。


「冷めると硬くなるぞ?」


 手に持ったままの串焼き肉を指差され、明明は慌てて串から肉をかじり取る。特製ダレに漬け込まれた肉は柔らかく、とても美味しかった。


「うまいな?」

「はい」

「そういえば、雅烙で明明が作ってくれた肉料理、あれをまた、食べたい」

「これからはずっとおそばにいるのですから、いつでも作ってさしあげますよ」

「それは嬉しいな。楽しみだ」


 顔の右半分に浮かべられた、穏やかな笑み。これが本来の彼なのだ。

 立場によるしがらみは、理解出来る。だがそれは、奪い続ける理由にしてはいけないと、明明は思う。


「おいお前ら! 何を食っている! ずるいぞ」


 紅焔が駆け寄ってきて、イェルハルドの手から串を奪い、肉を頬張った。


「新しく買えば良いだろう」

「面倒だ。それより、嫁と娘たちに土産が買いたい。装飾品の店はどこだ?」

「嫁? 娘たち?」

「言っていなかったか? 娘が二人いる。十八で立太子の儀式をしたのだが……そうだ! 本当はお前と玲燐の婚礼の儀も同時に行う盛大なものになるはずだったんだぞ! お前が消えたから、ちぃとばかし寂しい儀式になった。古くからの習わしにのっとり、一年後に鈴風と婚礼の儀を済ませ、今は二児の父だ! 羨ましいか!」

「羨ましいな。……鈴風も、相変わらずか?」

「あぁ! 変わらず俺は尻に敷かれている」

「髪と瞳は父親譲りだが、顔立ちは母親に似て愛らしい子供たちだ。十四で叔父と呼ばれることに、煉蒼は戸惑っていたな」


 紅焔とイェルハルドの会話に玲燐も加わり、思い出話に花が咲く。


 賑やかな一行は装飾品店が立ち並ぶ通りへ向かい、思い思いに店を見て回った。


「玲燐。こちらへ」


 春と明明と共に西国式の宝飾品を眺めていた玲燐を、イェルハルドが呼んだ。呼ばれて向かった先にあったのは、伝統工芸品を扱う店。


「君から預かった簪だが」


 思いがけない言葉に、玲燐は弾かれたようにイェルハルドの顔を見上げる。


「俺がそのまま、持っていたい。代わりに、気に入った物があれば買う」

「なぁ。もしかしてだが、春に託したあの黄色の宝石は……」

「あの簪に付いているのと、同じ色だったから」


 あの簪――雅烙での別れの夜に、玲燐が必ず返しに来いと言って渡した物。


「それなら私は、あの宝石を使って髪飾りを作りたいな。西国式の物が良い。それで、私に似合うデザインを、イェルハルド様が選んで欲しい」

「わかった。皇宮に帰ったら職人を手配する」

「……楽しみだ」

「どういうのが好みか参考にするから、ここで教えて欲しい」

「うーん。そうだなぁ……」


 皇帝の婚約者。噂に聞いた、林檎姫。

 政略結婚だと思われていた二人は誰がどう見ても恋愛関係だったと、中心街での散策を楽しむ仲睦まじい様子はその日の内に、帝都中を駆け巡ったのだった。

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