第十二話 雅烙の王太子、襲来2
上空を飛ぶ鳥の、高く長い鳴き声。
山から吹き降りる風。木々のざわめき。
自然が生み出す様々な音に囲まれた、山間の国の、城の中。中庭の東屋に集まった王族たちが机を囲み、ゆったり茶を楽しんでいる。
柔らかな栗色の髪を持つ女性が二人、膝に赤銅色の髪の女の子をそれぞれ乗せていた。
菓子を頬張る孫へ水色の瞳を向けているのは、雅烙国王妃
濃い青の瞳を持った妙齢の女性は、王太子妃の
元は、代々伽家の護衛たちを取りまとめる役割を担う楊家の息女。紅焔から望まれ、十七の年に伽家へと上がった。膝の上の幼子は、乳離れしたばかり。
女性たちの向かい側では国王が、茶を啜りながら孫たちを眺め、目を細めていた。
「父上!」
変声期を終えた少年の声が、穏やかな空気に割り入る。
赤銅の髪に黄色の瞳をした少年が、右手に持った小さな巻き紙を掲げて駆けて来た。
「天天が、兄上からの手紙を持って来ました! 無事、姉上に会えたようです!」
少年から手紙を受け取った国王が、巻かれた紙を開いて内容を確認する。
「
王妃からの催促に、黄金の瞳を妻へ向け、国王は答えた。
「皇帝は、間違いなくシンであったと」
「まぁ!」
「では玲燐は、シン君の妻となるのですね?」
王妃は喜びの吐息を漏らし、王太子妃は瞳を輝かせる。
「江栄翔と何やら画策しておったのを、目をつむってやった甲斐があったな」
「どういうことですか、父上?」
隣へ腰掛けた末の息子に笑いかけ、国王は乱暴な仕草で息子の頭を撫でた。
「紅焔を支えたいと願うなら、お前はもっと視野を広げ、耳を育てねばならんぞ」
「兄と姉が優秀過ぎるのです。それに、僕の瞳は黄色ですから」
「前々から言っているだろう。色など関係なく、世の中には優秀な者が多くいる。シンを思い出してみよ」
「シン君は、僕には優しい普通のお兄さんでしたよ」
赤銅色の頭から手を離した国王は、息子の肩を抱き、引き寄せる。
「あれは恐らく、お前に己の弟を重ねておった」
「皇帝は、弟をその手で殺したと聞いています。それに、年齢でいうなら重ねられるのは兄上です」
「環境がそうさせたのだ。……反乱により弑逆された前皇帝がどのような人物だったか、知っているか?」
「皇太后の傀儡だったと」
「果たして本当に、己の思考を放棄した人形だったのか。シンから、あやつの家族の話を聞いたことがある」
国王は目をつむり、昔の情景を頭に描く。
中庭の東屋で、菓子と茶を楽しんでいた時のこと。玲燐はシンの隣へピタリと張り付いて離れず、紅焔が幼い
シンが、ぽつりとこぼしたのだ。自分にも弟がいたのだと。語る言葉は、過去形だった。
「一度だけ、助けてと言われたのだそうだ。だが何も出来なかったと。時に人は、与えられた環境に縛られ、どうにも身動きが取れなくなることがある。紅焔も玲燐も、民たちからは特別視されておる。だが、あやつらは自由だ。何にも縛られておらん。煉蒼、お前も同じだ。今お前自身を絡めとっているそれは、お前が、お前を縛るものと心得よ」
煉蒼は何も答えず、力を抜いて、父の肩へ寄りかかる。
次に発した声は弱々しく、道に迷った幼子のようだった。
「ととせの儀で、僕には何も、起こりませんでした」
ととせの儀は、伽家の子供が十歳になると行われる儀式。昔は神の言葉を聞くためのものとされていたが、今ではただの祭りとなっていた。
年長の兄姉がいる場合には、年の近い一人と共に舞を舞う。舞の最後に将来伴侶としたい相手の名を告げ、儀式は終わる。
名を告げられた相手に応じる意志があるのなら、長い年月を掛けて準備をするのが習わしだ。
紅焔は、一人で舞って楊鈴風を指名した。
煉蒼は、玲燐と共に舞を舞い、伴侶を選んだ。二十歳になったら婚礼の義の後、相手を伽家に迎える予定となっている。
紅焔の伴侶が「上がる」と表現するのに対して、煉蒼の伴侶が「迎える」なのは、産まれる子に差が出るからだ。
正式な儀式を経て立太子した伽家の者の子は必ず赤髪に、瞳は黄金か黄色となる。
それ以外の伽家の者のもとには絶対に、その色を持つ子は産まれない。それは他国へ嫁ぐ玲燐も例外ではなく、彼女の産む子は、翠嵐とイェルハルドの特徴を受け継ぐだろう。
玲燐のととせの儀の時は、紅焔が共に舞った。
舞い終わり、玲燐が誰を指名するのか、皆が固唾を飲んで見守る中で、彼女は宣言した。「雅烙国第一王女、第一王位継承者、伽玲燐は宣言する。我は王位継承権を放棄し、人へ下る」と。
すかさず、紅焔が玲燐の隣へ進み出て「王位はこの伽紅焔が継ぐ。雅烙のためにはそれが最善となるだろう」と告げたのだ。
その場での発言が神のお告げと等しいことは、発言をした二人を含め、雅烙の者は皆が理解している。
事前に二人で相談した結果かと問う大人たちに、舞の途中そうすべきだと強く感じただけだと、二人は声を揃えて言った。
「俺も、ととせの儀では何も起きなかったさ。だが問題なく、雅烙の王をやっている」
末の息子の肩を叩き、伽慶燿は黄色の瞳を覗き込む。
「煉蒼。出来ないことを数えるな。出来ることこそ、数えるものだ」
「……はい、父上」
どこか憑き物が落ちたような顔付きで、父から離れ、少年は立ち上がった。
姪二人の黄金に輝く瞳を順に眺め、煉蒼は満面に笑みを滲ませる。
「お前たちの父は今、異国の地で何をしているのだろうな?」
高い空を見上げ、思いを馳せる。
生真面目な弟を好き勝手に振り回す兄と姉。自由な二人はきっと、異国の地でも変わらず、笑っていることだろう。
※
広大な国土を有するエスターニャ帝国には、治安を維持するための組織が二種類存在する。
主に外敵へ対応するのが軍隊。所属する者は軍人と呼ばれ、様々な目的に合わせた組織に枝分かれしており、広く帝国を守護している。
対して騎士団は、国内の治安維持を目的とした組織だ。
騎士は、皇帝からの任命で就任する。騎士団本部が皇宮の敷地内に存在しているのは、そのためだ。
騎士の中でも皇族をすぐそばで守る者たちは、近衛騎士隊に所属する近衛騎士。一般の騎士とは制服も仕事内容も異なり、若い騎士たちは近衛騎士に憧れるものなのだが、近衛騎士への憧れは守る対象によって左右される。
九年前から右肩上がりで近衛騎士の憧れ度は上がっているが、それは、現皇帝の民からの人気と比例していた。
人気はあるが、恐れられてもいる。
――帝国の良心を怒らせるな。怒りを買えば首が飛ぶ。
これは、帝国民がイェルハルド皇帝を語る時によく使う言葉だ。
近衛騎士たちに囲まれた皇帝が街中を視察する姿はよく見られるが、皇帝の顔の左半分はいつでも布で覆い隠されている。
左目を潰した傷を晒すことで、いたずらに民を怖がらせないための配慮なのだろうと察せられた。
帝都リスタニアの住人たちは、他の街で暮らす国民よりも皇帝の姿を見慣れていたが、いつも遠巻きに眺めるだけ。
皇帝も、話し掛けては来ない。
怯えさせないよう最大限の配慮を持って、皇帝が何かを聞きたい時には近衛騎士の誰かが代わりに民と会話する。
「……そんなに、見ないでくれないか?」
居心地の悪そうなイェルハルドの言葉に、玲燐の顔がさらに輝いた。
「仕方ないだろう。すっごく素敵だ」
「気に入ったのなら、皇宮の中でも傷を隠そうか」
「それも魅力的だが、ダメだ。たまに見るからこそ物珍しく、こんなにも胸がときめくのだろうからな」
染まった頬を両手で押さえ、玲燐はウキウキとした様子で体を左右に揺らす。
今日の玲燐の装いは西国式だが、ドレスではない。街中を歩いても悪目立ちしない、ワンピース姿。
明明と春も東国式のお仕着せ姿ではなく、エスターニャ人の民が着る一般的な衣装をまとっている。
「なぁこの服、このタイとかいうやつ、首が苦しいんだが」
顔をしかめて文句を言っている紅焔も、西国式の衣装。他の雅烙の者たちも例外なく、普段とは違う装いだ。
「どうせ顔立ちで異国の者と知れるのに、着替える意味はあるのかなぁ」
袖口が窮屈なのか手首のボタンを外したそうにいじりながら、江栄翔も不満を口にする。
そんな一行に答えたのは、腰に両手を当てたガスパルだ。
「エスターニャ帝国のほぼ中心に位置するこの帝都リスタニアで、東国人の姿を見ることは皆無に等しいのです。東国式の衣装は悪目立ちします。下手すれば買い物なんて出来ませんよ。西国式のスーツの上に東国人の顔がある方が、恐らくまだマシです」
「うーん……確かに帝都に着いてからここに来るまでの間、すっごい見られていたなぁ」
むしろ、山を降りた後、帝都に着くまでの間に立ち寄った町では宿に泊まることさえ出来なかった。
狩りで山に入ると野宿が常だ。野宿に慣れている雅烙の民だったからこそ、無事に帝都まで辿り着けたのだ。
「栄翔は見られただけだろう? 俺なんて目が合っただけで悲鳴をあげられた」
「兄上もか? 私もだ。赤い髪など雅烙にしかいないからかな」
「赤髪もですが、瞳が人間のそれじゃないですからね。そう考えると紅焔様と玲燐様は、西国式の衣装を着ていても怖がられるんじゃないですか?」
江栄翔からの指摘。赤髪の兄妹は顔を見合わせ、唇を曲げた。
リスタニアの街を見てみたいと、必死に主張したのはこの二人だ。ガスパルがかなり渋ったが、イェルハルドの助力により与えられた外出許可。
楽しみにしていたのにと不安を覗かせた兄妹の後ろで、イェルハルドが呟いた。
「俺は、民と目が合ったことがない」
「なんだ。それなら良いか!」
「眼帯姿のイェルハルド様が素敵過ぎるから、民は直視出来ぬのだな」
安心した様子の紅焔と、機嫌が良くなった玲燐。
周囲の者たちは微笑を浮かべ、口を噤んだ。
狭い空間に押し込められるのは嫌だと皆が言い、馬車ではなく馬での移動となった。
近衛騎士が跨がる馬に囲まれて、東国人の一行もそれぞれ借りた馬を走らせる。女性陣も馬を操れるが、衣装が乗馬に向かないため相乗りさせてもらっている。
「栄翔様」
「んー? 何かな、春」
江栄翔が操る馬に乗せてもらっている籐春が、黒髪の青年の顔を見上げた。
「ありがとうございました。玲燐様と、シン君のこと」
「あぁ」
江栄翔の視線が、前を行くイェルハルドの背中へ向けられる。
玲燐は、イェルハルドの馬に乗っていた。
「シン君が怖気づいたまま出て来なければ、本当に僕がもらってしまうつもりだったけどね」
「本当は確信してたんじゃないですか? シン君の正体」
「さぁて、ね」
江家は代々、雅烙国王の『耳』を担う一族だ。四年前、まだ二十歳だった栄翔が早々に当主を継いだのは、彼が優秀だからに他ならない。
「ま、どっちでも良いですけどね~」
「春は、エスターニャでも問題なく生きて行きそうだよね」
「はい! 栄翔様だって、平気でどこでも溶け込みますよね」
「軟体動物だからね、僕は。でも、支える御方は決めている」
「私もです」
「……玲燐様のととせの儀での宣言は、イェルハルド様に繋がるためだったんじゃないかと、僕は思うんだ」
神の言葉は簡潔で、曖昧で、受け取り手の解釈次第でどうとでも形が変わってしまうもの。
だが栄翔は思ってしまったのだ。
微笑み合う玲燐と、異国の少年を見て。玲燐が、少年を配偶者に選んだと聞いて。
これが運命というものかと。
長年閉じられたままでいた雅烙に吹き込んだ、新たな風。それは未来へ繋がる、心地良い風となるだろう。
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