第十一話 雅烙の王太子、襲来1

「サージハルへの亡命時、我々が命懸けで抜けた場所を、来ちゃった、などという言葉でひょいひょい身軽に下りて来ないでいただきたい!」


 叫んだのは、ガスパルだ。

 事前に玲燐から雅烙の王太子が訪ねて来ることは知らされていたが、城門へ現れた彼が皇帝へ伝えてくれと門兵に託した言葉が、ガスパルの叫んだ「来ちゃった」だった。

 イェルハルドは例の如くかなり愉快だという様子で、拳で口元を隠して忍び笑い。

 東の宮で歴史の授業中の玲燐にも遣いを送ったから、近衛騎士の案内で彼女も兄に会いに来るだろう。


 城門まで迎えに出た官吏が雅烙王太子を案内した部屋へ向かいながら、ガスパルは既に頭が痛い。

 友好関係を結ぶことは決定したが、互いの条件についてはまだ調整中で、今は再度雅烙からの返答を待っている段階。

 玲燐が現れた時のことを思い出せば恐らく、国王から全てを任された状態で、だからこその王太子の登場なのだろうとは想像出来た。


 ただの物見遊山ではないと、信じたい。


 雅烙王太子一行が待つ部屋へ入室した直後、ガスパルは喉の奥で小さな悲鳴を上げた。中に居たのは六名の男達。まるで、騎士団の団長室を訪ねた時のような威圧感だ。

 椅子へ腰掛けていた一人が、射抜くようにイェルハルドへ視線を送る。

 頭の天辺へ結い上げられた赤銅色の髪に、鋭い瞳は黄金に輝いている。彼こそが玲燐の兄、雅烙王太子伽紅焔カコウエンなのだろう。

 

「本当にお前、シンじゃないか!」


 強面が緩み、人懐っこい笑みを浮かべた。

 飛び出したのは流暢なエスターニャ語。閉じられた国と言われる割に、雅烙の人々はエスターニャ語が堪能のようだ。

 これは、イェルハルドがシンとして雅烙で過ごした日々の結果なのだが、ガスパルは、少年だったイェルハルドがどのようにして雅烙で過ごしたのか、詳細は教えて貰っていない。

 

 一歩前に足を踏み出したイェルハルドが、組んだ両手の輪の中に頭を入れる東国式の敬礼をした。


「……ご無沙汰しております。紅焔様」


 椅子から立ち上がった紅焔が大股で近付き、イェルハルドの肩をバシバシと乱暴に叩く。


「俺もデカくなったがお前もかなり鍛えているようじゃないか! 左目はどうした? 誰にくれてやったんだ?」

「弟に」

「……優しいお前がした選択だ。つらかっただろう」


 肩を抱かれたイェルハルドが、弱々しい笑みを浮かべる。


 ガスパルは思った。雅烙の人々は彼を、血の通った人間にしてくれるのだなと。


「エスターニャの現皇帝は、血も涙もない残虐非道者と思っていたんだがな。お前がやったことだと思うと、胸が痛む。お前のことだ、玲燐と雅烙を守ってくれたのだろう? 馬鹿だなぁ……一言、相談すれば良いものを。俺たちは、お前の力になれたのに」

「力を貸していただくわけには、いかなかったのです。あなた方は俺の……光だったから。それに、反乱に他国の力を借りてしまっては、意味合いが変わってしまう」

「……そうだな」


 豪快な音を立ててイェルハルドの背中を叩いた紅焔が、白い歯を見せ笑った。


 滑らかな動作で足を引き一歩下がると、胸の前で右手の拳を左手で包み込む動作。これは東国式の挨拶で、敵意がないことを表している。

 王太子の動きに習い、他の五人の男達が紅焔の背後へ整列し、同じポーズを取った。

 帝国側も、近衛騎士たちとガスパルが背筋を伸ばす。


「我は、雅烙国王太子、伽紅焔。エスターニャ帝国の皇帝よ、そなた、名は何と申す」


 皇帝の名前を知らないわけではない。紅焔は、敢えて聞いているのだ。

 イェルハルドは背筋を正し、エスターニャ帝国の皇帝として、口を開く。


「イェルハルドだ。伽紅焔殿、遠路遥々お越しいただき、光栄に思う」

「紅焔と呼べ、イェルハルド。今度こそ本当の、友となろう」


 右手を握り合い、その手を挟んで身を寄せ、左手で互いの背中を一度叩く。これはかつて紅焔とシンが二人で考えた、友情を確かめ合う動作だった。


 扉が叩かれ、部屋の外にいる衛兵が玲燐の到着を告げる。


 開かれた扉を潜り、姿を現した玲燐は西国式のドレス姿。上品な花柄の布が、体の線に沿って上半身を首と手首まで覆い隠し、くびれ部分からはふわりとした無地のスカートになっている。

 真紅の髪は、一本の簪で簡単に纏められていた。


「おぉ? なんだ玲燐お前のその格好は」

「こちらに行くならいつもの格好では駄目だと言われ、急いで着替えたのだ。エスターニャは面倒な決まり事が多くて困る」


 文句を言いつつも右手でスカートをつまみ、西国式の淑女の礼を披露する。


「ご無沙汰しております、兄上。顔が見られて嬉しい」

「おう! 俺も会えて嬉しいぞ! 元気そうだな」

「はい。イェルハルド様のご厚意で、皆に良くしてもらっている」


 何かに気付いた様子で玲燐の視線が紅焔の背後へ向けられ、両目が大きく開かれた。


「――江栄翔ゴウエイショウじゃないか!」


 名を呼ばれた黒髪の青年は大袈裟な程に肩をビクリと揺らし、何かに怯えた様子で顔を両腕で覆い隠す。


「うわっ、やめてくださいよ玲燐様! 僕の名前を出さないでっ……ほら! シン君の視線が痛い!」


 腕の隙間から青年が覗いた先、イェルハルドの隻眼が、青年を射殺さんとするかのような剣呑な光を帯びていた。


「シン君、久しぶりだね。あ、僕のこと、覚えてる? そんでもってそんな目で僕を睨むってことはやっぱり、玲燐様の婚約のことを知ってるんだね?」


 青い瞳に怯えの色を宿し、青年はイェルハルドへ問う。


「……知っている」


 肯定の言葉を耳にした彼は、びくびくと怯えながらも、まるで道化を演じるようにまくし立てる。


「やだなぁ、そんな怖い声を出さないでよ! 仕方なかったんだよ? 家格と年齢の釣り合いから、僕がちょうど良くてね? そうそう、玲燐様ってば僕に髪の色を抜けとおっしゃったんだよ! 確かに僕って昔の君に少し似てるよね? そりゃぁ、求婚はしたさ! シン君をいつまでも待ち続ける玲燐様を、雅烙のみんなが心配していたんだからね。十年も待ったんだから、もう良いじゃないかと誰もが考えていたよ。だけど玲燐様は諦めなかった! 僕の求婚を受け入れる条件、何だったと思う? 最後の望み、シン君をおびき寄せるため、玲燐様の婚約話を大陸中へ広めろとおっしゃられた。僕は江家当主だからね、家臣たちを使って頑張ったんだよ? 僕のお陰で、君の耳に玲燐様の婚約話が届いた! それで君は玲燐様の思惑通り、まんまとおびき出されたわけだ! わかるかい? シン君は僕に感謝すべきなんだよ!」


 開いた右手を胸へと当てて、黒髪の青年は言い放った。


 静まり返る室内。


 誰かが小さく、笑い声を漏らす。


「エスターニャ語でも、その舌の回りは健在か」


 微かな音を漏らして笑ったのは、イェルハルドだった。

 イェルハルドからの言葉に、江栄翔は得意げに胸を張る。


「僕は君にそのことを伝えるためだけに、山を下り、遠路遥々ここまでやって来たのだよ」

「違うだろう。お前は俺の脳味噌だ」

「紅焔様の脳味噌は、その石頭の中に詰まっておいででしょう?」

「何故俺の頭が硬いのを知っているんだ? あぁ?」

「子供の頃にたっぷり味わいましたから、ってちょっと! 掴まないで! 頭突きしようとしないでくださいよっ、威厳っ、王太子としての威厳を思い出して!」

「……あなた方は、十年経っても、変わらない」


 左手で傷を覆い、イェルハルドが呟く。

 自分はすっかり変わってしまった、そう考えているのだろう。

 そっと寄り添った玲燐が、甘えるように、細い肩をイェルハルドの腕にぶつけた。イェルハルドは、いつもとは装いの違う玲燐を見下ろし、目を細める。


「俺は、おびき出されたのか?」


 いたずらっぽく笑い、玲燐はイェルハルドの顔を見上げた。


「私は、ただ黙って待つとも言っていない。……賭けたんだ。まだ愛されている、そう信じて」

「君には、一生敵わないのだろうな」


 微笑み合う二人を前に、雅烙の人々は瞳を潤ませる。

 線が細い、文官らしい見た目をしているのは江栄翔だけで、他の従者たちは皆、戦う者らしき体付き。そして全員が、イェルハルドとは顔見知りのようだ。

 皆口々に、イェルハルドと玲燐に、親しげに話し掛けている。イェルハルドも嬉しそうに応じ、今彼は帝国の皇帝ではなく、ただの青年だった。


「さて! 個人的なことをまくし立てましたが、キリが良い所で仕切り直しましょうか、シン君! あ、皇帝陛下とお呼びした方が良いですよね?」


 江栄翔がパチリと両手を打ち鳴らし、緩んだ空気を引き締めにかかる。


「公の場ではないから、どちらでも構わない。ここにいるのは宰相と、近衛騎士たちだ」


 やっと紹介してもらえるのかと、それまで空気と化していたガスパルはため息を堪え、雅烙王太子一行に自己紹介をする。近衛騎士たちは護衛だから、一人一人の紹介をしたりはしない。


「それでは僕も改めまして」


 にこりと笑った江栄翔が背筋を正し、東国式の敬礼をして見せる。

 ゆったり顔を上げ、口を開いた。


「雅烙国王太子筆頭補佐官、江栄翔と申します。彼らは、僕と共に王太子殿下を支える、未来の雅烙国を担う青年たちです。我々には雅烙国王より、エスターニャ帝国と雅烙国の間で結ばれる友好条約について、交渉の全権が与えられております。雅烙国王太子伽紅焔の言葉は、雅烙国王伽慶燿の言葉とお考えください。この件に関わる国王からの書状は、こちらに」


 江栄翔から動作で示され、一人の青年が恭しく書状を掲げて進み出る。

 エスターニャ帝国宰相であるガスパルがそれを受け取り、中身を確認した。


 江栄翔が、一度、床を強く踏み鳴らす。


 四人の青年たちが、腕の輪を保ったままでいる江栄翔の後ろで同じ姿勢を作った。


「雅烙は、外交などほとんどして来なかった小国です。今回の突然の訪問含め、至らぬ点が多々あることとは存じますが、寛大なお心で、平にご容赦いただきますようお願い申し上げます」


 恭しく頭を下ろし、腕で作った輪の中へ入れる。江栄翔に倣い、背後の青年たちが同じ動作をした直後、筆頭補佐官だと名乗った黒髪の青年は服の裾を払い、片膝を付いた。

 五人の青年たちが揃って東国式の最敬礼の姿勢を取り、息を深く吸い込む音がする。


「エスターニャ帝国皇帝へ申し上げる」


 先ほどまでとは違う、腹から出された声。ビリリと、室内の空気が震えた。


「林檎は神に愛されし果実。山猿は、山の支配者。この二つを冠する姫君、伽玲燐様は、本来であれば女王となるべき御方。雅烙国、王位継承権第一位であった姫君でございます。山の神々より最も愛されし伽家の姫は、雅烙の宝。玲燐様が他国へ嫁ぐ意味、重々ご承知いただきたい」


 顔を微かに上げ、目元だけを覗かせた江栄翔の青い瞳が、イェルハルドとガスパルを順に捉える。


「そちらから提示された条約の修正案ですが、物申したきことがいくつかございます。正式な話し合いの場を設けていただきたい」

「高位高官たちを集め、場を設けることを約束する。ガスパル、手配しろ」

「承知いたしました」

「高官たちの前でも先ほどの演説を頼む。きっと、面白い」


 口元へ拳を当て、イェルハルドが喉の奥でくつくつと笑った。

 江栄翔が立ち上がり、服の裾を払う。


「良いよ。僕の特技だから、披露するのはやぶさかじゃぁない。やたら雅烙に詳しい人がいるようだとは感じていたんだけど、玲燐様からの手紙で納得したよ。それまでは、藪を突ついて蛇を出したのではないかとヒヤヒヤしていたんだけどね。結果は、おびき出されたシン君だとわかって、良かった良かった」

「シンの正体を察した上で協力したわけではないのか?」

「まっさかぁ! イェルハルド様とシン君を結び付けて考えていたのは玲燐様だけだと思うよ? 一時は疑いもしたけど、残虐非道とうたわれる皇帝と僕らの知るシン君が同一人物とは思えなかったからね。亡命した第一皇子の従者だったのかな、とは考えていた。だからこそみんな、玲燐様はエスターニャへ、シン君を探しに行ったのだろうと思っていたんだ」

「なぁ、積もる話は酒でも飲みながらにしないか? 風呂にも入りたい。腹も減ったな」


 紅焔の主張で、皆がわらわら動き出す。

 事前に連絡を受けていたため、雅烙王太子一行が滞在する部屋の準備も整っている。


 イェルハルドとガスパルはまだ仕事が残っているからと、案内は他の者へ任せ、夕食を共に取る約束を交わしてから部屋を出た。

 執務室へと向かう道すがら、イェルハルドがちらりと、後ろを歩くガスパルへ視線を向ける。


「今回は、文句を言わないのか?」


 やけに静かだと気味が悪いというイェルハルドの指摘に、ガスパルは弱々しい吐息をこぼした。


「己の勉強不足を痛感して、落ち込んでいます」

「雅烙についての詳細は、サージハルでも重要機密扱いだったからな。帝国側の人間には知りようがない。……林檎姫の誕生は東国にとっての喜び事。広く知られるべき事柄だ。だからエスターニャにも、噂が届いた」

「全てをご存じだった陛下が我々に隠したのは、わざとですね?」


 隣へ並んで視線を送った先、イェルハルドの口元が笑みの形になり、ガスパルは確信する。


「俺の望みを叶えるためだ。悪いな。もう後戻りは出来ないぞ」

「そうですね。得られる結果は変わりません。高官たちも、そう判断するでしょう」

「……非公式の食事会だが、今夜、お前も来るか?」

「よろしいのですか?」

「あぁ。お前には昔から、世話を掛けている」

「私は……勝手な理想を、あなたに押し付けた側の人間です」

「俺も、自分の望みのための行動で、今があるだけだ」


 その後は二人、特に言葉を交わすこともなく、業務へ戻った。

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