第十話 それからの婚約期間4
からりと晴れ渡る青空の下、皇宮の敷地内にある騎士の訓練場には、普段とは違う緊張が満ちていた。
皇帝が視察を兼ねて訓練に参加するのはよくあること。屈強な戦士である皇帝と手合わせ出来るのは、騎士たちにとってこの上ない誉れとして喜ばれている。
だがこの日、訓練場へ姿を見せた皇帝の傍らには、異国の顔立ちをした女性が三人。
黒髪と栗毛の女性二人の瞳は、深い青。揃いの衣装から察するに、東国人の侍女のようだ。
黒髪の侍女はすらりと背が高く静謐な空気をまとい、栗毛の侍女はくりくりとした目と頬に浮いたそばかすが愛らしい。系統の違う美しさを持つ侍女二人を従えているのは、この世ならざる美貌の持ち主。
一目見て、彼女こそが噂の林檎姫だと誰もが察した。
婚約者を連れた皇帝の姿。自然、騎士たちにも気合が入る。
騎士団長が、皇帝と言葉を交わした後で号令を掛けた。
一糸乱れぬ動きで整列する騎士たち。
「これからお前たちには、追いかけっこをしてもらう。この場にいる騎士全員で、こちらにいらっしゃる雅烙国王女玲燐様を追い、玲燐様が逃げ切ってしまえばお前たちの負けとなる。体術の訓練だ、心して掛かるように!」
「はっ!」
返事をしつつも騎士たちは困惑した。
一体何の遊びなのだろうかと、首をひねる。
だが何故か、この日姫の警護に当たっていなかった、近衛騎士隊所属の玲燐付き近衛騎士三人が屈伸運動などで体を解しは始め、やけに気合が入った様子を見せた。
「ルールは簡単だ。私は逃げる。お前たちは追う。私の髪に付いたこの白いリボンが取られれば私の負けだ。緩く結んであるから簡単に取れる。安心して引っ張ってくれ。それと、私には護衛が二人付く。彼女たちが手に持つ木製の武器が首に当たった者は死者だ。その場で止まるように。リボンを守って私がイェルハルド様のもとまで辿り着いたらゲーム終了! お前たちは負けだ!」
満面に笑みを浮かべた林檎姫の言葉をどう受け止めれば良いのかわからないままに、誰かがごくりと、唾を飲み込む。
騎士たちの困惑を察した皇帝が、静かに口を開いた。
「帝国の領土を破竹の勢いで広げた、彼のクラウディス皇帝だが、ソシエル山脈を越えることは叶わなかった。彼の野望を阻止した者らの末裔が、雅烙の民。彼女たち三人が怪我を負う心配は不要。……意味はわかるな?」
声を揃えて返事をした騎士たちの顔付きが変わった。
気合を入れて体を解す騎士たちの合間を塗って、玲燐は侍女二人と共に訓練場の端へ向かう。
途中、玲燐付きの近衛騎士の姿を見つけ、声を掛けた。
「ニルス、オロフ、リキャルド。お前たちもいたのか」
玲燐から声を掛けられた三人は、直立で右手を胸に当てる騎士の敬礼姿勢を取った。
ニルスとオロフは双子の兄弟で、玲燐たちが皇宮の庭を駆け回るのを必死に追い掛けた近衛騎士の二人。
リキャルドは玲燐付き近衛騎士の中での最年少。二十七歳で新婚ほやほやらしい。
「ニルスさんとオロフさんに私たちを捕まえられますかねぇ」
「あの日から俊敏性を鍛えておりますので」
「玲燐様のリボンを取るのは自分です」
にやにや笑う春に対して意気込みを語る二人は、あの追いかけっこの日から雅烙の三人と打ち解け、たまに会話を交わす間柄となっている。
リキャルドはまだ緊張した様子だが、訓練場にいる他の騎士たちよりは、玲燐たちの実力を把握していた。
訓練場の端へ玲燐が辿り着き、騎士たちも身構える。
騎士団長が開始を叫ぶと、玲燐が駆け出した。その後ろに、刃部分が短い木剣を両手に持った明明と春が続く。
数人で取り囲もうとした騎士の壁を軽々飛び越え、明明と春がガラ空きの首筋を木剣で撫でて敵の数を減らす。
個々で向かってきた相手はするりと交わし、追い越しざまに木剣が喉を斬った。
早々に連携が必要だと悟った者たちが作戦を立て挑むも、彼女たちの跳躍力の前に撃沈。
組手を挑み侍女たちの武器を奪おうとした者もいたが、三人の連携により死者となった。
「玲燐様も攻撃してくるんですか!?」
叫んだのは、オロフだ。
「当たり前だろう。戦での雅烙の座右の銘は『みんなで生き残ろう』だからな!」
「良いですね、それっ」
春が繰り出した木剣を避けながら、ニルスは雅烙の座右の銘へ賛同表明。
「いつも優しい明明さんが暗殺者みたいで怖いのですが!」
明明からの攻撃を必死に避け続けるリキャルドは、泣きそうな顔をしていた。
近衛騎士たちは木剣の攻撃を交わしつつ優雅に舞う純白のリボンへ手を伸ばすが、するする逃げられ続け、いつの間にやらゴールは目前。
陛下をお守りしろ! と生き残った騎士たちが筋肉の壁を作り、消耗戦になるかと思われた。
「明明! 春!」
主人に名を呼ばれただけで全てを察したらしい侍女二人。
イェルハルドの前で壁となる生き残りの騎士たちから距離を取り――三人が一斉に走り出す。
襲い来る敵を春が蹴り倒し、空いた空間へ滑り込んだ明明が筋肉の壁を背に両手の指を組んで構えた。
助走を付けた玲燐が明明の力を借りて高く、高く跳躍する。
両手を広げたイェルハルドが落ちて来た玲燐を受け止め、するりとリボンを抜き取った。
「俺の勝ちか?」
「なんだと! お前も敵か!」
「俺がここの大将だからな」
騎士団長が終了を宣言。追いかけっこは皇帝の一人勝ちという結果で幕を閉じた。
明明と春の周りに騎士たちが集まり、興奮した様子で何事かを話し掛けている。
「楽しかったか?」
「そうだな! 久しぶりに良い運動をした。彼らはとても優秀だ! 今回は不意打ちのようなものだったから良かったが、対策を立てられたら私も危ない」
「これだけ実力を見せつけておけば、訓練場に顔を出して煙たがられることもないだろう。組手も喜んで相手をしてくれるかもな」
「運動不足問題はこれで解決出来そうだ!」
言葉を交わす二人の頭上で、鳥が鳴いた。
パッと顔を上げた玲燐が目を眇め、指笛を吹く。音に反応した鳥が急降下して、イェルハルドが着ていた上着を借りて巻き付けた玲燐の腕に、大型の鳥が降り立った。
「天天。お帰り」
玲燐に頭を撫でられると、嬉しそうな鳴き声を上げる。
「ご苦労様。明明からご飯をもらいなさい。――明明!」
鳥の足に付いている筒から巻かれた紙を抜き取り、明明へ愛鳥を託した。
紙を開いて読んでから、玲燐はイェルハルドを見上げる。
「何と書いてあるんだ?」
イェルハルドも一緒に手紙を覗いたが、短い言葉だとしかわからない。手紙は、見覚えのない文字で書かれている。
「そうか。お前は黄家に入る前に姿を消したから、暗号を教えていなかったな。兄上からだ。『ちょっと俺もそっち行くわ』と書かれている」
それを聞いたイェルハルドは大きな声で嬉しそうに笑ったが、きっとガスパルは嫌な顔をするのだろうなと、いつでも頭痛を抱えていそうな気難しい表情ばかりの宰相の顔を思い浮かべ、玲燐は思った。
ガスパルと兄の相性は最悪だろう、と。
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