第九話 それからの婚約期間3

 東の宮の奥、衛兵が両側を守る大扉を抜けた先には控えの間があり、大扉とは反対側の扉を開くと季節の花が咲き乱れる東国式の中庭が広がる。玲燐とイェルハルドがお茶の時間を過ごすのは、中庭の東屋か、中庭に面した応接用の部屋。


 逃げた玲燐を追い、イェルハルドが近衛騎士とガスパルを引き連れ控えの間を抜けた先には、雅烙の侍女二人が待ち構えていた。

 横に並んだ二人は床に片膝を付き、両腕で作った輪の中に頭を入れている。

 周囲へ視線を走らせると、玲燐に付けている近衛騎士の姿があったから、彼女も近くにいるようだ。


「恐れながら、エスターニャ帝国皇帝陛下へ申し上げたき義がございます」

「雅烙国、伽家姫君、玲燐様に関わること。お聞き届けいただきたく存じまする」


 林明明と籐春が、順に言葉を述べた。

 何となくこうなるだろう予感がしていたイェルハルドは、口元へ苦笑を浮かべる。


「固くならなくて良い。言ってみろ」

「はっ」


 姿勢はそのままに、顔だけ上げた侍女たちは、イェルハルドの顔をまっすぐ見上げた。

 怯えた様子は欠片もない。恐らく、イェルハルドが彼女たちのよく知るシンと同一人物でなくとも、二人はこうして皇帝の前へ出て来ただろう。


「姫様ご本人の口から触れ合いを禁じるお言葉があり、説明を省いていたこちらの落ち度でございます。また、エスターニャ帝国の習わしについても最大限理解してゆく所存」

「禁を解かれた後も、貴方様は我等もよく知るシン君であるという油断から、このようなことにはなるまいと身勝手にも思うておりました」

「雅烙国王族、伽家は、我等雅烙の民にとって神に等しき存在」

「伽家姫君玲燐様が人の身へと落つるは、現し世の者との婚礼の義によって」

「婚礼の儀を経ずして、姫様の御身に現し世の者の唇が触れるは、禁忌」

「伽家を守護する山の神々の怒りに触れ、災いが降りかかります」


 玲燐の場合は女王にならない選択をしたため、婚礼の義は人の身に落ちるための儀式となる。

 王太子の場合は婚礼の義により、配偶者が人の身から神になるための儀式。意味合いのみならず、手順も大きく異なるのだ。


「昔見て見ぬふりをしてあげたのは、周りに誰もいなかったからですよ?」


 まとう空気を柔らかなものへと変え、明明がにっこり笑う。


「まぁ、そういう風な環境で大切に大切に育てられた御方なので、どうかお手柔らかにお願いしますよ。でないと玲燐様、あまりの恥ずかしさで死にかねません」


 緩い空気をまとい、春が苦く笑った。


「……髪も、ダメか」

「残念ながら」

「二人きりの場所なら私も先輩も目をつむりますが、エスターニャの城は静かなわりに人の目が多いようですから、難しいんじゃないですか」


 イェルハルドから立つように言われ、立ち上がった明明と春は裾を払う。

 侍女二人の様子を見守っていたイェルハルドが腕を組み、春を見下ろした。


「明明は昔から変わらんが、春は俺がシンだとわかった途端に態度を変え過ぎではないか? この前会った時には怯えていただろう」

「いやだなぁ、一緒に野山を駆け回った仲じゃないですか。それよりほらほら! 玲燐様が恥ずかし死する前に、フォローフォロー」

「どういう死に方だ」

「見ればわかります。襲っちゃダメですよ?」

「……善処する」


 春に背中を押し出され、イェルハルドは近衛騎士二人が立つ場所へ歩み寄る。

 近衛騎士から視線で示された場所――植木に、真紅の髪が絡まっていた。木と木の隙間に体を滑り込ませ、膝を抱えて座り込んでいるようだ。


「玲燐」


 名を呼ぶと細い両肩がビクリと跳ねる。そろそろと上げられた顔を見て、確かにこれは危険だと、思った。


「先ほどはすまなかった。君に触れられることに舞い上がっていたんだ」


 黄金色の、濡れた瞳。

 普段は勝気な性格を表す眉は頼りなく垂れ下がり、何かを言いたそうに微かに開かれた唇から覗く、赤い舌。魅入られ、誘い込まれてしまいそうだ。

 上気した顔からは、魔性の色香が漂っている。


「心臓が、痛い」

「……すまない」

「息も、苦しいんだ」

「それで、泣いているのか?」

「だって、あんなことっ、目に焼き付いてしまったじゃないか!」

「嫌だったか?」

「もっとされたいが、だめだ。だって心臓がっ、こわれてしまう」

「壊れそうか、確かめてやろうか」

「どうやって?」

「耳を押し当て、心臓の音を聞く」

「なっ、破廉恥な!」


 堪えきれなくなり、イェルハルドは喉の奥で低く笑った。

 普段は過ぎる程に積極的で、こちらが戸惑うような言葉も平気で吐く。だが、初心で可愛らしい一面も隠されている。


「もうしないと約束するから、出ておいで」


 素直に這い出てきた玲燐は、差し出されたイェルハルドの手を取り立ち上がる。

 服に付いた汚れを叩き、髪を手櫛で整えると、イェルハルドの胸元の服を両手で掴み軽く引いた。耳を貸せという意味だと理解したイェルハルドが腰を屈め、玲燐は爪先立ちでイェルハルドの耳元へ唇を寄せる。


「婚礼の義を終えれば、この身を暴く権利はイェルハルド様だけに与えられるのだ。私の内側を知るのは、あなただけの特権にして欲しい」


 耳を掠めた吐息。

 吹き込まれた言葉。

 顔を真っ赤に染めて崩れ落ちるのは、イェルハルドの番のようだ。


 赤い顔を片手で覆ったイェルハルドを見て機嫌良く笑い、玲燐は踊るような軽やかな足取りで離れて行く。


 仕返しされたイェルハルドは、その場でしゃがんで理性を掻き集める。今すぐに玲燐を追えば、今度こそ雅烙の侍女たちの怒りを買いかねない。


 両肩をぽんと叩かれたが、よく知る気配だったため看過する。


「明明は皇帝陛下を信じております」

「この光景も懐かしいですねぇ。また会えて嬉しいですよ、シン君」


 明明と春が玲燐を追い掛けてその場を去り、別の気配が近付くのを感じて、イェルハルドは立ち上がった。

 振り返った先にいたのはガスパルで、文句を言いたそうに眉をしかめている。どうやら彼も、イェルハルドの肩を叩いてみたかったようだ。


「消息不明の二年は陛下にとって、とても穏やかな時間だったようですね」


 ガスパルが知るイェルハルドは、面白みのない模範的な皇族だった。足をすくわれぬよう、忌み子の第一皇子はいつでも完璧でいなければならなかったのだ。

 ガスパルの父親の思惑により友人として引き合わされたが、ガスパルはイェルハルドと笑い合ったことなどない。友人というよりも、利害の一致で協力関係にあるだけと言ってしまった方が正確かもしれない。


「林檎姫の噂を聞きつけた性悪女が雅烙と玲燐を狙わなければ、俺はシンのまま、イェルハルドに戻るつもりはなかった」

「東国の中でも雅烙は神聖視されているようですからね。味方に出来れば頼もしいですが、怒りを買えば手酷い傷を負わされる諸刃の剣。故に歴代皇帝は、手を出しませんでした」


 イェルハルドが玲燐を皇后にと望むことを誰も反対しなかったのは、帝国にとっての利益が大きいと考えられたからだ。


 処刑された前皇太后は、武力により雅烙を手に入れようとしていた。神と崇められる美しい姫を己の息子に与え、大陸中の支配を目論んだ。

 雅烙を攻めるには地形的にも、東国の各国からの反発の面から考えても危険が大きく、多くの犠牲を生んだことだろう。そうなる前に止められて本当に良かったと、ガスパルは思う。


「イェルハルド様こそ皇帝に相応しいと信じた我々の判断は、正しかったようですね」


 ガスパルの言葉を、イェルハルドが鼻で笑い飛ばす。

 どうやら見解の相違があったようだが、何も言わずにイェルハルドは足を踏み出した。


 この日ガスパルがイェルハルドに同行して東の宮を訪れたのは、近衛騎士から、玲燐の突拍子もない行動について報告を受けたからだ。

 イェルハルド一人に任せるのは、不安だった。

 イェルハルドは、玲燐の言うことならば全てに首を縦に振ってしまうのではないかと、ガスパルは疑っている。


 イェルハルドを追って入った部屋では、既に茶の用意が整えられていた。イェルハルドが用意したエスターニャの甘味も、机に並んでいる。


「騎士たちは仕事中だからと断るのだが、ガスパル殿は一緒に茶は出来るのか?」

「陛下が、お許しくださるのなら」

「好きにしろ」


 玲燐からの誘いにより、ガスパルも共に机を囲むことが許された。

 イェルハルドと玲燐とガスパルは、茶と菓子を楽しみながら、本来話し合いたかったお転婆な姫の退屈しのぎの方法について相談したのだった。

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