第八話 それからの婚約期間2

 運動不足解消には程遠いが、退屈は紛れた。

 近衛騎士からの懇願を聞き入れ、歩いて東の宮まで戻った玲燐は、イェルハルドを迎えるため着替えて化粧を施す。


 そろそろ来る時間だ。

 待ち切れなくて、玲燐は宮の表へ向かう。


 奥と呼ばれる区画は生活スペースで、皇帝からの許可がある者しか入れない。

 表と呼ばれる区画は客を迎える場所で、皇后教育はそちらで受けている。表には玲燐専用の図書館もある。


 こうして軟禁のような生活を送ることになるとわかっていたら、皇宮に来る前にリスタニアの街をゆっくり観光したのにと、今更ながら後悔する。

 あの時は、エスターニャの皇帝がシンなのか、確かめることしか考えていなかった。


「玲燐? 浮かない顔だな」


 東の宮の入口の階段へ腰掛けぼんやり考え事をしていたら、イェルハルドの声が聞こえた。

 視線を向けた先にはイェルハルドがいて、階段をゆっくり上って来る。


 西国式の服を着たイェルハルドはとっても素敵だなと、玲燐は会う度に思う。

 清潔な白いシャツにタイを締め、丈の長い上着を着ている。いつも暗い色ばかりだが、彼が元々持つ色合いが淡いから、バランスが取れていた。


「会いたかった」


 階段を駆け下り抱き付けば、危なげなく受け止めてくれた。


「俺も、会いたかった」


 ためらうことなく抱き締められたのが嬉しくて、玲燐の顔には笑みが広がる。

 抱き上げられた状態で階段の上まで運ばれて、下ろされた所で気が付いた。近衛騎士とは別にもう一人、イェルハルドには連れがいるようだ。


「ガスパル殿、こんにちは」

「ご機嫌いかがですか、玲燐様」

「普通だ。いや、退屈している」

「そのことで騎士から報告を受け、私も陛下について参りました」

「退屈しのぎのすべを教えてくれるのか?」

「いえ。私は陛下の見張り役です」

「何を見張るというのだ」

「私のことはお気になさらず。必要であれば口を挟むだけなので、近衛騎士たちと同様に扱ってください」

「そうか。わかった」


 それならと意識の外へ追い出して、愛しい男の顔を見上げる。

 二人が会える時間は、あまりに短い。


「イェルハルド様は、今日も忙しいのか?」

「そうだな。処理すべきことが多くある」


 手を繋ぎ、ゆっくり歩く。

 お茶をするのが目的ではない。顔が見られるのなら、会話を交わせるのなら、なんだって構わないのだから。


「父上はサボってばかりいたぞ?」

慶燿ケイヨウ殿と翠嵐スイラン殿は、変わりないか?」

「過ぎる程に元気だ。父上と母上もお前を案じていた。兄上もだ。お前が姿を消して、雅烙の皆が心配していた。だから、エスターニャの皇帝がシンだったと雅烙へ手紙を出した」

「あの、すみません。早速で申し訳ないのですが、手紙など、いつお出しになったのです?」


 背後からの声に、玲燐は首だけで振り向いた。

 慌てた様子のガスパルに、首を傾げて見せる。


「イェルハルド様と和解した日の夕方に」

「どの様に、手紙を出されたのでしょう? 私に報告は上がってきておりませんが」

「普通にだが?」

「どうしましょうねぇ……。エスターニャと雅烙の文化の違いでしょうか? 同じ言語での会話なのに話が通じていない気がします!」


 苛立ちのこもったガスパルの叫びを聞いて堪えきれなくなったのか、イェルハルドが噴き出し、笑い始めた。

 皇帝が声を上げて笑う姿を初めて見た者たちは皆、目を丸くする。

 長年友人をしているガスパルですら、イェルハルドがこんなに楽しそうに笑う姿は見たことがない。


「天天か」

「天天だ。そろそろ返事を持って戻って来るかもな」

「陛下、私にもわかるようにお願いします」


 ガスパルの主張を受けたイェルハルドが足を止め、玲燐と向かい合う。穏やかな笑みを浮かべ、愛しい女性を見下ろした。


「雅烙の文化など、エスターニャの誰も知らないからな。皇后教育では手の届かないことが多く出て来るだろう。迷ったら俺に聞いて欲しい」

「迷わない場合は? 今回はどうやら、私の当然がガスパル殿にとっては問題なのだろう?」

「そうだな。今日、皇宮の庭を駆け回ったんだって?」

「笑うな!」


 玲燐に二の腕を叩かれたイェルハルドは、更に大きな声で、実に愉快だと言いたげな様子で笑う。

 一頻り笑った後で右手を持ち上げ、玲燐の頬に触れた。


「俺も見たかった」

「だが、庭師に怒られると言われたぞ?」

「そうだな。用途が違う。騎士の運動場は、玲燐を満足させられないだろう」

「それでは運動不足で肥えてしまう」

「丸い玲燐も可愛いだろうな」

「私は嫌だ!」

「運動の件は、後で一緒に考えよう。手紙のことだが……エスターニャでは、鳥が手紙を運ぶことはない」

「では、何に手紙を託す」

「玲燐の場合は、そば仕えの侍女にだな。明明と春の他に三人いるだろう? その誰かに頼めば良い」

「人間が運ぶのか? それでは何十日も掛かってしまうではないか。重要な国同士の書状なら仕方ないと理解出来るが、戦の時はどうする? 情報が遅ければ負けるぞ」

「伝令役の人間が馬に乗り、走る」

「遅い!」

「皇宮から外へ手紙を出すには、もっと遅いし面倒だ。ここは帝国の中枢。情報を外へ持ち出されては困る。手紙は入念に検査され、それからやっと皇宮の外へ出される。雅烙へ行く商隊などはないから、誰かが馬に乗り、北端からサージハルへ入り、山を越え、雅烙へ届けられる」

「なんて面倒な。だがわかった。私はまずいことをしたのだな?」


 しょんぼりうつむこうとした玲燐の動きを触れていた手で止め、イェルハルドの右手は滑らかな頬を撫で、耳を滑り、辿り着いた先で真紅の髪を一房取る。


「次から気を付けてくれれば良い。ガスパルがうるさいから、手紙を出す時には俺に教えてくれ。中身を確認することになるが、構わないか?」

「問題無い。イェルハルド様はいつも忙しいだろう? どうしても会う必要がある時には、どうすれば良い?」

「近衛騎士に伝えてくれ。報せを聞けば、会いに来る」

「イェルハルド様に会うのでさえ、人を頼らねばならんのか。……エスターニャは窮屈な場所だな」


 玲燐が不満げに唇を尖らせ、対峙しているイェルハルドはくすりと笑う。手に取った玲燐の髪を唇まで運び、自然な動作で、口付けた。


「後悔しても遅い。俺はもう、玲燐を逃がすつもりはない」


 紫の瞳に射抜かれた玲燐の顔は、みるみる内に、髪と同色に染まっていく。

 わなわなと唇を震わせ、瞳を潤ませ、叫んだ。


「か、かみ、髪、髪に、ひ、人前で、何を……っ、破廉恥だ!」


 真っ赤な顔を両手で隠し、踵を返した玲燐は宮の奥へと逃げて行く。

 逃げる彼女の足の速さにも驚いたが、ガスパルは皇帝の行動にも驚かされた。

 ガスパルとの会話はいつも、二言三言。命じる言葉は簡潔で、こんなに丁寧に説明してもらえたことなどあっただろうか。


「ガスパル」


 呼ばれ、視線を向けた先。ガスパルは見たことを後悔した。

 一つしかない紫の瞳に、獲物を狙う猛獣のような光が宿っている。


「明日にでも玲燐を妻に出来ないものか」

「無理ですよ。今組んである予定が最短です」

「雅烙では、口付けすら初夜まで許されんのだ」

「意外ですね。あんなにべたべた触れ合うのに」

「髪ならまだ許されるが、婚姻を結ぶ前に玲燐の肌へ唇で触れようとすれば、刃物が飛んで来る」

「は?」

「雅烙の侍女は、ただの侍女じゃない。お前たちも気を付けるんだな」


 玲燐を追い掛け宮の奥へ進むイェルハルドの背中を眺めながら、ガスパルは一つ、ため息を吐く。


「どこかに、雅烙の文化について記載された書物は存在するだろうか」


 エスターニャと雅烙では何がどう違うのか。現状正確に把握しているのは、イェルハルドただ一人。だが彼はきっと、ガスパルには丁寧に説明などしてくれない。


 あの赤髪の姫を皇后に迎えることは決定事項だ。


 また一つ仕事が増える予感を感じながら、近衛騎士に続き、ガスパルも皇帝の後を追った。

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