第七話 それからの婚約期間1

 人の気配を感じて、玲燐は目を開けた。

 窓へ歩み寄り、見えた人影。慌てて窓を開ける。


『シン? こんな時間にどうした? 夜這いか?』

『女の子がはしたないことを言うものじゃないよ、レイ』

『私は、シンなら構わない』


 いつものように軽口を叩き合おうとして、玲燐は気が付いた。

 シンの服装が、いつもと違う。


『遠出するのか?』

『レイに、お別れを言いに来たんだ』


 一瞬、まだここは夢の中なのだろうかと、玲燐は思った。だって、シンがそんなことを言うはずがない。

 二人は結婚の約束を交わしているのだ。

 玲燐が十六になったらすぐに、シンのもとへ嫁ぐ。先祖返りの姫である玲燐の嫁ぐ相手に身分が無いのは外聞が悪いから、代々武官として伽家に仕えている黄家へ、シンが養子として入ることが決まっている。


『私は、シンに嫌われるようなことをしただろうか』

『違うよ。僕はレイを愛しているから、行くんだ』

『愛しているなら、そばにいて欲しい』


 顔を見てわかった。既に彼は決めてしまっている。


 普段は玲燐の方が頑固だと言われるが、本当はシンだって頑固者なのだ。彼は、自分が納得して決めたことは、誰に何を言われたとしても曲げない。

 例外は玲燐で、シンは玲燐にはとことん甘かった。


『僕も、そばにいたい。レイが美しく成長する姿をすぐそばで見ていたい。他の男が近付かないように、僕が君を守りたい』

『それならっ』

『僕にしか、出来ないんだ』

『何を、しに行くんだ?』

『レイと雅烙を守りたいから、やると決めた』

『答えになってないぞ?』

『戻って来られるかも、いつ終わるのかもわからない。だから、僕を待たないで良いよ』

『嫌だ! どうしてそんなことを言うんだ? 帰って来るって、迎えに来るって、約束してくれ』


 開いた窓の向こうから伸ばされた手に、抱き寄せられた。

 大好きな人の腕の中、涙が止まらない。愛しているから行くなんてずるいじゃないかと、玲燐は心の中で、不満を漏らす。

 本当は、玲燐は気付いていたのだ。

 シンが本当は誰で、何をしに行こうとしているのかも、わかってしまったから――。


『この簪を、お前に預ける。私のお気に入りなんだ。死を感じた時は、必ず思い出して欲しい。……私は、シンを待つよ。雅烙の王族である私には、時間制限があるけれど。ギリギリまでお前を待つ。だからきっと、迎えに来て? 簪を、返しに来て? 次に会う時は、伽玲燐は、お前のものだから』

『約束はしない。でもこれは、貰って行くね』


 玲燐の手から簪が取られ、シンの気配も遠ざかる。

 追い掛けたくなるのを、必死で堪えた。

 嗚咽を噛み殺し、月夜に願う。


『どうか彼を、お守りください』


 月夜の別れから十年。月日は流れた――


 生まれ育った雅烙の城によく似た宮の中、愛する男の伴侶となるため、学ぶ日々。

 外を走り回る方が好きではあるが、勉強も嫌いではない玲燐は午前中の予定を問題無くこなし、明明と春が運んでくれた軽食を取る。

 衣装室には、イェルハルドから貰った西国式の衣装がたくさん収められているが、やはり着慣れた服の方が落ち着く。

 東の宮から出る時や教師から求められた時には西国の衣装に着替えるが、特に何もない時には東国の衣装をまとい、髪には簪を刺す。


「帝国は、土地も広い、城もでかい、そのせいで、民が遠いのだな」


 産まれてからずっと、多くの人に囲まれて生活していた。

 今も周りに人はたくさんいるが、距離感が違う。親しく言葉を交わすのは、明明と春、お茶の時間に玲燐を訪ねて来るイェルハルドとだけ。

 近衛騎士たちはいつでも玲燐のそばにいるが、彼らは無駄口を全く叩かない。唯一、玲燐といるイェルハルドの姿を見て泣いていたラーシュとはたまに世間話をするが、会話はあまり続かない。

 近衛騎士の他には、エスターニャ人の侍女が三人、明明と春を手助けしてくれている。彼女らも無駄口は叩かず、仕事だけをする。

 東の宮の表にいる女官たちも、世間話はしてくれない。声を掛けて怯えた様子を見せられては、申し訳なくて話し掛けるのを遠慮してしまう。


「エスターニャ人は皆真面目で、物静かなのだろうか」


 窓辺に座って頬杖をついた玲燐のぼやきに、近衛騎士たちは答えない。まるで置物のようだ。


「なぁ、春」

「はいはーい! お呼びでしょうか、玲燐様」


 衣装部屋で明明と共に装飾品の手入れをしていた籐春が、呼び掛けに応えて駆けて来る。


「退屈で、死ぬのかもしれない」

「お勉強でもなさったらいかがです?」

「読めと言われた物は全て読み終わった」

「あー、玲燐様って実は優秀ですもんね」

「兄上に譲らず女王になる道を選んでいれば、シンを王配として迎えられただろうか」

「いやぁ~、無理でしょう」

「まぁ、そうか」

「そんなにくだらないことを考える程、暇なんですね?」

「そう。暇なのだ!」


 雅烙にいた頃は城下を走り回り、手が足りない所で手伝いをしたり、兄と弟と遊んだり勉強したりと、やることはたくさんあった。

 だがここでは玲燐は、勉強以外にやることが無い。勉強も、雅烙で習った内容の復習に近いものばかりで飽きてしまう。

 皇后になれば皇后に与えられる仕事があるのだが、今はただの婚約者。帝国側からすれば玲燐はまだ、ただのお客様なのだ。


「お前たちも毎日そうやって私を眺めているだけで、退屈ではないのか?」


 閉じた扇で一人を指せば、仕事ですからという退屈な返答。

 内心では、こんなに美しい女性をすぐそばで見つめ続けられる仕事が退屈になる日など来るのだろうかと考えているが、表には全く出さない。


 常に二人の近衛騎士が玲燐のそばにいるが、護衛は五人の近衛騎士が交代で担当していて、同じ人物が一日中張り付いているわけではない。玲燐のそばにいない時には、彼らは別の仕事をしているのだ。


「午後は、イェルハルド様がいらっしゃるまで何も予定がないのだったな?」

「ないですね。散歩でもします?」


 ふむ、と呟き、玲燐は扇で顎に触れる。

 何かを思い付いたのか、赤い唇が弧を描いた。


「運動でもするかな」

「その服じゃダメですよー」

「着替える。明明!」

「はい。既に用意してございます」


 明明と共に着替えに向かう玲燐の後ろ姿を見守る近衛騎士たちへ、籐春が近付く。


「騎士様方は、足は速いですか?」

「遅くはないかと」

「それなら良かったです。皇宮のお庭って広いので、走りがいがありそうですよね!」

「え、庭を走るんですか?」

「はい! 平地ばかりで残念ですが、ここは他国ですもんね」


 我慢我慢と言いながら着替えを手伝いに向かう籐春の小さな背中を見つめてから、近衛騎士二人は顔を見合わせた。


「庭は歩く場所だと、お伝えした方が良いだろうか?」

「まぁ、少しなら良いんじゃないか?」


 国が違えば文化も違う。少し、の尺度も変わってくる。

 この時はまだ自分たちの身に降りかかることを、近衛騎士二人は想像出来ていなかった。


 動きやすい服に着替えた玲燐は、東国式のお仕着せ姿の明明と春を連れて東の宮の外へ出た。

 三人の背後には近衛騎士が二人、付き従う。


「では行くか」

「はい!」


 玲燐の掛け声に、二人分の元気な返事。

 近衛騎士たちは、余裕でついて行けると考えていた。


 予備動作も無く唐突に玲燐が走り出し、侍女二人は付かず離れず付いていく。近衛騎士二人も駆け出して、三人を追った。

 だが途中で、これはマズいかもしれないと気が付く。

 三人はただ走るだけではなく障害物を軽々飛び越え、飛び越えた後も速度が変わらない。剣を腰に下げ、重たいブーツを身に着けた近衛騎士二人にはつらい動作だ。


 皇宮の庭は、何代か前の皇帝の趣味で、生垣や花壇を使った迷路のような造りになっている。普通はゆったり歩きながら、咲き乱れる花々を観賞するための場所なのだ。

 そこすら玲燐たちは、入口など無視して生垣を飛び越え駆けて行く。

 さすがに、静止の声を上げた。


「玲燐様! いけません!」

「この庭は、皇宮で働く他の者たちも出入りする場所なのです!」


 近衛騎士二人の声に反応して、侍女二人を引き連れ玲燐が戻って来る。

 彼女たちの誰一人息が上がっていないことに、近衛騎士の二人は衝撃を受けた。


「お前たち、大丈夫か?」


 三人を必死に追い掛けた近衛騎士二人の息は、上がっている。


「運動されたいのでしたら、騎士の訓練用の運動場がございます」

「許可が下りれば、我々がご案内いたします」

「この庭とは別に運動場があるのか?」

「庭は、花を観賞するための場所で駆け回る場所ではありません」

「そうなのか? こんなにちょうど良い障害物がたくさんあるから、私はてっきりこうして使う場所なのかと思っていたのだが」

「違います。ここは歩く場所です」

「そして、道以外の場所を歩くと庭師に怒られます」

「庭師は怖いな。雅烙でもよく怒られた」


 顔をしかめた玲燐を見て、近衛騎士たちは、宰相から言われたことを思い出す。


――林檎姫とも、山猿の姫とも呼ばれる御方のようだから、何をしでかすか不安です。気を付けた方が良いかもしれません。


 可憐な容姿ばかりを見て「確かに林檎姫だ、可愛いな」などと考えていた。

 ダンスのステップもすぐに覚え、皇后教育を任された教師たちからの評価もかなり高い。皇帝に対する態度にはたまにハラハラさせられるが、優秀な女性を皇后として迎えられることに、皆で喜んでいたのだ。


 他にどんな一面があるのかも気になるが、この出来事は他の近衛騎士たちへ引き継ぎ必須だと、二人は脳内へ刻んだ。

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