第六話(過去) 林檎姫と忌み子の皇子
イェルハルドに、母の記憶はほとんどない。
覚えているのはいつも泣いていたことと、憎悪のこもった眼差しがイェルハルドを貫いていたことだけ。
彼女は、氷のような美貌を持った女性だった。
白銀の髪に、薄青の瞳。
もし、イェルハルドの瞳の色が父の色ではなかったら愛してもらえただろうかと、幼い彼は考えたことがある。
最初から最後まで、母は産み落とした皇子を己の子と認めぬまま。
皇族の血を引くイェルハルドを残して行くならどこへでも行けば良い、という父の言葉に従って、何の迷いもなく、母はイェルハルドを残して自国へ帰ってしまった。
イェルハルドは、父のことを軽蔑していた。
大陸の七割を支配する帝国の皇帝。
権力をほしいままに振るい、属国の一つだった小国から母を側妃に迎えた。母には許嫁がいて、愛する男と結婚間近だったらしい。
側妃として迎えられた母は、帝国の後宮で様々な辱めを受けた。
当時はまだ、正妃だった皇后に子はなく、皇后からの嫌がらせも受けていたようだ。
孕んだ子が他人の子では困るからと生娘かどうかを入念に検査され、孕む子が皇帝の子以外有り得ないと確定してから一度だけ、皇帝は母を抱いた。そのたった一度で、父は母に飽いた。
そうして授かったのがイェルハルドで、皇帝も、息子に興味がなかった。
皇帝の尻拭いをする人々が優秀だったお陰で母は自国へ帰ることが出来て、その後は許嫁と結ばれて幸せに暮らしているらしいと、お節介な大人から聞かされた。
一人後宮に取り残されたイェルハルドを育てたのは、後宮に閉じ込められていた、一部の良識ある人たちだった。
イェルハルドが産まれた一年後には皇后も皇子を授かり、継承権の順位が劣る忌み子の第一皇子など取るに足らないと判断していたようだ。
特に大きな問題もなく、平和で空虚な十三年だった。
後宮内の自室で眠っていたイェルハルドは、外が騒がしいことに気が付き目を覚ました。
皇帝が、毒を盛られて死んだらしい。犯人はその日寝屋を共にするはずだった側妃の一人で、犯人も同じ毒を含み死亡した。
だがイェルハルドは、知っていた。
自分の身を守るため、後宮内のことは把握するようにしていた。犯人である側妃が誰の手の者かも、誰が、皇帝の毒殺を企てていたのかも、知っていたのだ。
次に狙われるのはイェルハルドだろう。
後宮の外に出て皇子の役目を果たすようになったイェルハルドを、皇后はよく思っていなかった。たとえ小さくとも、憂いの種は潰しておきたいと、皇后は考えるはずだ。
新皇帝即位の混乱に紛れ、イェルハルドは、第一皇子派を名乗る者たちと共に皇宮を後にした。
亡命先は、祖父の代から友好関係を築いてきた東国の一つ、サージハル。第一皇子として、イェルハルド個人も親交を深めていた国だ。
エスターニャからサージハルに入国するための道は一つ。大陸の北端にあるソシエル山脈の切れ目に設置された関所を通るルートだ。
イェルハルドの不在に気が付けば、刺客がそこへ送られるだろう。だからまっすぐ東へ向かい、ソシエル山脈を横断して山側からサージハルへ入国するルートを選んだ。
大陸を縦に分断するようにそびえ立つソシエル山脈は、断崖絶壁の崖ばかりが続く険しい山々で、街道は通っていない。
西国と東国を行き来するには北端と南端に存在する山脈の切れ目を使うしかなく、ソシエル山脈を横断するのは命知らずの阿呆か訳あり者だけと言われている。
もし追っ手が来ても、山に入ってしまえば振り切れる。
長雨が続き、足元がぬかるんでいた。
山歩きに慣れていない連れの一人が足を滑らせ、イェルハルドは彼を助けた。
助けた後でイェルハルドが立っていた地面が崩れ、真っ逆さまに、谷底の川へ落ちた。
落ちながら、彼は思ったのだ。
誰かの命を救って死ぬ方が、毒殺だとか、邪魔だからという理由で殺されるより、何倍もマシだと――。
次に目が覚めた時、ここが死者の国かと、思った。
「起きた? 傷、いたい、いたい?」
可愛らしい声が、たどたどしいエスターニャ語で話し掛けて来た。
「お前、聞く、する?」
声の方へ顔を向けようとして、痛みに呻く。全身が痛い。
痛みで、己が生きているのだと知った。
「偉い人、呼ぶした。泣かないよ? しー。……良き子、良き子」
真っ赤な髪、黄金に輝く瞳。こんなに美しい人間がいる場所が生者の世界にあるとは思えない。だが、慌てた様子でイェルハルドの涙を拭った小さな手のひらは温かくて……安堵が胸に、広がっていく。
涙が、とめどなく溢れた。
「怖かった? 安心、平気、安全? そう! 安全! ここ安全。私、お前、守るする。だからね、良き子。安心で、ねんねんこ」
温かな小さい手は、温もりを分け与えるように何度も、何度も、イェルハルドの頬を撫でてくれていた。
大人が数人入って来て、その中の一人が流暢なエスターニャ語で教えてくれた。
イェルハルドが流れ着いたのは雅烙という国で、ここは王城の中の一室。イェルハルドを助けたのは、雅烙の第一王女なのだと。
王女という言葉を聞きつけたのか、先ほどの赤髪の少女が立ち上がり、片手を上げた。どうやら、自分がそうだと主張しているらしい。
「安心して、ねんねこして、健康、なる」
イェルハルドに向けてふんわり笑った直後、少女は大きなあくびをした。
「娘は、拾った責任だと言ってずっと看病をしていた。心配で、夜もあまり眠れなかったようだな。ここは安全だ。安心して、ゆっくり休みなさい」
大きな手が、イェルハルドの頭を撫でた。
エスターニャ語が堪能なその人は、赤銅色の髪と髭、少女と同じ黄金の瞳をしている。
少女が王女なら、この人は国王なのだろう。
大変なことに気付いてしまったが、先ほど飲んだ薬の副作用か……眠たくて、眠たくて……イェルハルドは、もしかしたら生まれて初めて、安心して、ぐっすり眠った。
目が覚める度、少女は必ず、そこにいた。
熱でうなされるイェルハルドの汗を拭い、水を飲ませ、動く気力のないイェルハルドの口元へ粥を押し付けて栄養を取らせた。
「汗、清潔、するよ」
いつも彼女と共にいる侍女が、湯の入った木桶と着替えを運んで来た。
寝台の上で上半身を起こされたイェルハルドはぼんやりと、湯に浸した布を絞る侍女の手元を眺める。
真紅の髪がすぐ目の前に来て、ふわり、甘い香りがした。
するりと帯が解かれ、気付く。
「君がやるのか? いい! やめてくれ! 君は王女なのだろう?」
「西国語、速い、わからない」
「俺は、自分で、出来る」
「いやよ」
「何がだ」
「私、やりたい」
「は?」
「声、良きね? 好き」
「んん?」
「もっと話す、する。私、嬉しい」
あまりにも笑顔が可愛くて、見惚れてしまう。
その間にもテキパキと服が剥ぎ取られ、侍女から温かな布を受け取った少女は、イェルハルドの体を拭き清めていく。
『今更抵抗したって遅いぞ。お前の意識が無い間、誰が世話をしていたと思っているのだ。服も何度も替えている』
すらすらと自国の言葉で事実を述べた彼女はどうやら、イェルハルドは東国語を話せないと思っているようだ。
確かにまだ勉強途中で、聞き取りは出来るが会話は苦手だ。文章であれば、問題無くやり取りが出来る。
『姫様、意識があるのとないのでは、違うと思いますよ』
『そういうものか。次からは考慮してやろう。あ、明明。爪を切ってやらないと。伸びているようだ』
『そちらは後で。まだ熱が下がったばかりなのですから、早く服を着せて差し上げてください』
『わかった』
何となく指摘する気が失せて、少女と侍女の会話に耳を傾けた。
服を着替え終わり、今度は寝具を替えると言うから、イェルハルドは窓辺の椅子へ腰掛ける。
乾いた風が、心地良い。
何かの花の香りがする。
子供たちの笑い声。誰かの話し声。ここは、民との距離が近い城のようだ。
気配を感じて、顔を向ける。侍女の手伝いを終えたらしい少女がにっこり笑い、手にした櫛を掲げて見せた。
「髪、触る。良い?」
東国語が話せることを伝えなかった、もう一つの理由。
少女の愛らしい唇が紡ぐ、たどたどしい言葉たち。それをもっと、聞きたいと思ったのだ。
「見る。美しい」
胸元まで伸びているイェルハルドの髪を梳いていた彼女が、楽しそうに言う。
開いた彼女の手のひらの上には、白銀と赤、二色の髪の毛。イェルハルドと少女の髪を混ぜて持ち、綺麗だと言って、彼女ははしゃいでいた。
「美しいのは、君だ」
本音を漏らしてから、彼女の反応がないことを訝しみ、イェルハルドは振り向いた。
身長差のせいで、思いの外近い場所にあった少女の顔が、ほんのり赤く色付いている。
平気な顔でイェルハルドの服を剥いで体を拭いていたくせに、可愛らしい反応を見せた少女。なんだかおかしくなって笑ってしまったら、彼女の顔が更に、赤くなった。
「笑う、良き。好き」
まっすぐな少女の言葉が、好きだと思った。
『お前は、熱に浮かされている間、ずっと何かを恐れていた。西国人がソシエル山脈へ分け入るなど、よほどのことがあったのだろう。私がもっと西国の言葉を上手く操れれば、安心させてやれただろうか……』
東国語で、少女は呟いた。
少しの間考える素振りを見せてから、少女はイェルハルドの手を取り、己の頬へと引き寄せる。
「愛しています。あー、あとは、守ります。安心、するの。好き、だから。怖い、ないのよ?」
正確な意味と使いどころを理解した上での言葉では、ないのだろう。
だけどその言葉は、これまで誰も、イェルハルドに与えてくれたことのない言葉。だからこそずっと、欲しかったもの。
みっともなく泣き出してしまったイェルハルドの頭を抱き締めて、泣き止むまでずっと、少女はイェルハルドの頭を撫で続けてくれた。
名前を聞かれ咄嗟に嘘を吐いたのは、何者でもない、まっさらな自分になりたいと思っていたからかもしれない。
「私、レイリン。レイも可」
「レイ?」
「良き良き。あなたは、誰?」
「俺は――シン」
名乗る名前はなんでも良かった。たまたま視界に入った東国の文字。それを音にしただけ。
それなのに彼女があまりにも嬉しそうに笑ったから――その名前は、特別なものになった。
雅烙での日々は、穏やかで、満ち足りていた。
元々東国語の勉強はしていたから、毎日使っていれば流暢に話せるようになるまで時間は掛からなかった。
彼女は毎日訪ねて来て、イェルハルドが全快してからは、城下へ連れ出されるようになった。
雅烙の二人の王子にも紹介されて、雅烙の王と王妃は、まるで自分たちの本当の子供のように、イェルハルドに接してくれた。
王子と王女と共に勉強させてもらい、第一王子の剣術の稽古相手も務めるようになった、ある日。
『帝国の第一皇子が死んだという噂が流れているらしい』
『エスターニャの良心と呼ばれていた御方だろう? 皇太后を止められる者はいなくなったということか』
『サージハルに亡命した連中だけでは、どうにも出来んかもしれんなぁ』
雅烙の城の兵士たちの、噂話。
『シン!』
突然木の上から何かが降って来て、愛らしい少女の姿をしたそれは、イェルハルドを見上げていたずらっぽく笑う。
『見ろ、林檎だ。私の髪と同じ色』
真っ赤な林檎を何個も抱えた楽しそうな彼女を見ていたら、腹の底で渦巻く不快感は、柔らかな幸福に包まれ、隠された。
『城下で君が何と呼ばれているか、知っている?』
『知ってるさ! 林檎姫だろう? だからか民たちは私を見ると林檎をくれるのだ。兄上からは、お前を見ると林檎が食べたくなると言われる。林檎、食べるか?』
『食べる』
彼女とはよく、林檎を丸かじりしながら並んで歩いた。
『シンの一口は大きいな?』
『レイの一口は、可愛いね』
『兄上の一口も大きいから、菓子を分けてやるとほとんど食われてしまうのだ』
『紅焔様は、レイの悔しげな顔を見るのが好きだとおっしゃっていたよ』
『たまに兄上が本気で憎らしくなるが、私が本気で怒る前に宥めるすべをよくご存じなのだ。だからたまにわざと怒って、兄上が隠し持っている菓子を持って来させ腹いせしている』
『レイは甘い物が大好きだよね』
『うむ。兄上から取り上げた菓子は、煉蒼と分けて食べる。今度はそれに、シンも加えてやろう。シンは何の菓子が好きなのだ?』
『この前食べた桃饅頭、とっても美味しかったな』
『私も好きだぞ。明明が作るのが抜群にうまい』
『明明は……黒髪の?』
『そうだ。黒髪に綺麗な青い瞳をしている。東国人は、髪も、肌も、瞳も多様な色があるのに、エスターニャはほとんど皆が同じなのは何故だろう?』
『諸説あるらしいけど、紫外線が関係しているみたいだよ』
『太陽が?』
くだらない話。勉強のこと。政治に軍事的な戦略など、本当に多くのことを、彼女と話した。
『シン、お前、玲燐を嫁にもらう気はあるか?』
剣術稽古の途中、唐突にそんなことを言い出したのは、雅烙第一王子伽紅焔。
『雅烙の王族は、十で許嫁を選ぶ習わしがある。まぁ、選んでも選ばなくてもどっちでも良いんだがな。その時決めた相手がいれば宣言する、程度のものだ。俺は
『レイが、僕を?』
『まぁ、お前の気持ちは聞かなくてもわかっていたが……おい、真っ赤だぞ? 大丈夫か?』
へなへなとその場に座り込んでしまったイェルハルドの背中を乱暴に叩きながら、伽紅焔は豪快に笑う。
『選ばれた側にも拒否する権利がある。互いに想い合っていた場合に、婚約は成立するんだ。事前に説明しておかないと、お前は、玲燐の言うことにはなんでも首を縦に振りかねないからな』
イェルハルドには、雅烙での後ろ盾がない。その身一つしかないイェルハルドが王女を嫁にするには問題がある。
もし本気で玲燐を望むなら、もし本気で雅烙で生きて行く覚悟があるのなら、名のある家の養子となる方法があるのだと教えてもらった。
『もし玲燐を選ばなくても、お前が望むなら雅烙で生きれば良い。俺もお前を気に入っているからな、俺の側近に取り立ててやっても良いぞ』
イェルハルドが本当にただの『シン』という人間だったのなら、黄家の養子となり、玲燐を嫁に貰い受け、武官として、王となる紅焔を支える。
そんな人生を、選びたかった――。
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