第五話 準備期間の約束事3

 イェルハルドが皇帝に即位してから真っ先に行われたのが、後宮の解体だった。

 帝国の長い歴史の中で、後宮には「帝国の病魔」とも言うべきものが巣食っていて、前皇太后は病巣の主だった。

 イェルハルドの父である前々皇帝暗殺の罪で、前皇太后とその一族が処刑され、彼女らの息が掛かった人間は一人残らず首をはねられた。

 前皇太后と関わりを持たなかった後宮の住人たちは、少なくない額の手当と共に故郷へと帰された。


 かつての後宮があった場所には新たに東国式の宮が建てられ、完成したのは二年前。

 東の宮と名付けられたそこは、皇帝が一人静かに過ごすためだけに使用されていた。

 女官たちは皇帝の逆鱗に触れぬよう気を付けながら職務をまっとうし、東の宮を美しく保つ努力を続けてきた。

 いつか皇帝の伴侶が迎えられるだろう日を、東の宮は静かに待ち続けてきたのだ。


 念願叶って迎えられた皇帝の婚約者は、この世の者とは思えない、たいそう美しい異国の姫君。


「イェルハルド様」


 皇帝の名を呼ぶ声は甘く、この建物は恐らく彼女のためだけに建てられた物だろうと、東の宮に務める女官たちは思う。

 それほどまでに、雅烙の衣装をまとった玲燐の姿が東の宮にあるのは、しっくりくるのだ。

 薄布が幾重にも重ねられた丈の長い衣装は袖も長く、玲燐のほっそりした体を足先、指先まで覆い隠している。微かに覗くデコルテ部分。首筋は華奢で、女から見てもうっとりしてしまう。

 特徴的な真紅の髪は背中へ垂らされ、複雑に編まれた頭頂部では、簪が揺れている。


「そんなに、エスターニャの菓子が好きか」


 美しい姫君の、嬉しそうな笑みに出迎えられた皇帝の顔は、傍目から見ても真っ赤に染まっていた。

 玲燐の姿に見惚れていたのをごまかそうとするかのように、咳払いまでしている。こんな皇帝の姿は、雅烙の姫君がやって来るまで皇宮内の誰一人として見たことがなかった。


「イェルハルド様がお持ちになる物は私好みの菓子ばかり。何故かしら?」

「姫の反応がわかりやすいからではないか?」

「イェルハルド様はわかりづらいわ。ですから私達、もっと言葉を交わさなくてはなりませんね?」

「姫」

「なんでしょう?」

「その話し方と、表情をやめてくれ。美し過ぎて直視出来ない」


 懇願の言葉を吐いた皇帝は、大きな手で口元を覆って真っ赤な顔を半分隠し、姫君から目をそらしている。

 だが見たくないわけではないようで、チラチラと視線をやっては、困ったように眉尻を下げていた。

 そんな表情も、いつも眉間に皺を寄せ次に首をはねる人間を探しているような表情ばかりの皇帝が浮かべるのは珍しく、むしろ他の表情も作れたのかと、女官たちは密かに驚く。


「私のせいでイェルハルド様の表情が変わるのが、楽しくてたまらないのに?」

「そうだろうとは思っていたが、やめて欲しい」

「命令ですか?」

「いや、依頼だ」

「可愛らしく『お願い』と言えたら考えよう」

「姫。俺で遊ぶのはやめてくれ」

「また違う依頼か。皇帝というものは欲張りだな」


 いつの間にやら話し方と表情の浮かべ方が変わった玲燐が、イェルハルドの右手を取った。


「玲燐と、呼んでくれるなら」


 いまや、作業の手を止め歩む足を止め、その場に居合わせた女官全員の視線が婚約者たちへと向けられている。


 玲燐がうつむいているせいで、イェルハルドからは彼女の表情は窺えない。

 ほっそりした玲燐の手が、感触を確かめるようにイェルハルドの右手を握っているせいで、鍛え上げられた体が硬直する。

 催促するように二本の親指が手の甲を撫で、覚悟を決めたイェルハルドは、咳払いをした。


「玲燐」


 ゆっくり、確かめるように、彼女の名前を舌へ乗せる。

 

「……はい、イェルハルド様」


 あまりにも嬉しそうな声で玲燐が返事をしたから、イェルハルドは泣いてしまいそうになった。それを悟られたくなくて顔をそらしたせいで、彼は気付かない。


 イェルハルドの横顔を見上げた黄金の瞳に、涙が浮かんでいたことに。


 イェルハルドに背を向けて、玲燐は歩きだす。彼女の左手はしっかりと、大きな右手を握ったまま。


「何故、手を繋ぐ必要が?」


 イェルハルドから触れてはいけないと言うくせに、玲燐は、迷わずイェルハルドに触れてくる。

 イェルハルドの疑問の声に、歩みを止めないまま玲燐が答えた。


「あなたが、逃げないように」

「俺がどこへ逃げると言うんだ?」

「どこへだろうか?」

「俺に聞くのか?」

「どこへ、はわからないが、誰からなら教えてやろう」

「いい。想像は付く」

「それなら答え合わせだ。誰からだと思う?」

「玲燐。君からだ」

「正解」

「また、何を企んでいるんだ?」

「何も。ただイェルハルド様は笑うのが不得手のようだから、今日は何をして笑わせてやろうかとは常々考えている」

「姫の行動はいつも突拍子もないからな。お手柔らかに頼む」


 言葉を交わしながら二人は、衛兵が守る大扉を潜り抜け、許可された者しか入れない宮の奥へと進む。


 仲睦まじい様子のイェルハルドと玲燐の姿を、誰よりも近くで見守る者たちがいた。

 皇帝付きと、皇帝が玲燐に付けた、それぞれの近衛騎士たちだ。

 職務中は気配を極限まで消している彼らだが、胸中は毎日大騒ぎ。護衛対象のプライベートを守らなければならない彼らは誰にも語ることは出来ないが、その分すぐそばで二人を見守り、毎日を楽しんでいる。

 玲燐が皇宮へ来る前の単調な日々には、もう戻りたくないとすら考えていた。


 何より皇帝が、血が通っているのかどうかも怪しかった、感情の欠片も見せようとしない強く凛々しい、エスターニャを守護する役目を担う男たち全員の憧れの的である皇帝がだ。

 玲燐を前にすると人間らしく戸惑い、頬を染め、微笑むのだ。


 特に玲燐に付けられている五人の近衛騎士たちは、皇帝であるイェルハルドと関係の深い者ばかり。年長の二人に関して言えば、東国亡命よりかなり前からイェルハルドに忠誠を誓い、幼い第一皇子の頃から護衛を務めてきた経緯がある。


 玲燐が桃饅頭を手土産に執務室へ特攻を仕掛けてから八日。


 午後のお茶の時間になると、イェルハルドは東の宮へ足を運ぶようになった。玲燐の要望通り毎日、茶菓子を持って玲燐に会いに来る。

 玲燐とイェルハルドは互いに、お茶の時間を楽しんでいるようだ。

 二人の仲睦まじい様子を見守り続け、ついにこの日、大の男が二人、突然涙をこぼし始めた。

 どちらが先かはわからない。

 だが真っ先に気が付いたのは二人の部下である年若い近衛騎士たちで、泣いているのは、玲燐側と皇帝側、それぞれの隊長だった。


「ロルフ、ラーシュ。お前たちは何故、突然泣き出したのだ?」


 イェルハルドは右手で額を押さえ、深いため息を吐き出した。

 近衛騎士たちのどよめきと鼻をすする音を訝しみ、音の発生源に視線を向ければ、見知ったオジサン騎士二人が泣いているではないか。

 こんな光景、誰も見たことがない。


「申し訳ございません、陛下! 陛下の憩いのひとときを邪魔するつもりはないのですが、しかしどうにも目から流れ出る汗が止まりませぬ。ラーシュ、お主も同じ気持ちか!」

「はい、ロルフ殿。自分もどうにも、もうダメです。幼い頃の陛下のお姿が目に浮かび、あんなにもお可愛らしかった陛下が笑顔を見せなくなりっ、今再び、穏やかな表情をしておられる。自分はずっと、こんな日がくればと夢見ておりました故ッ」


 騎士服の袖で涙を拭うオジサン二人のそばへエスターニャ人の侍女たちが駆け寄り、ハンカチを差し出した。

 雅烙側の二人の侍女はオジサンたちの豪快な泣き顔に目を丸くしている。


「ロルフ殿。ラーシュ殿」


 二人に下がるよう命令しようとしたイェルハルドを遮って、玲燐が騎士たちの名を呼んだ。


「これしきで泣かれては困る。イェルハルド様は、この伽玲燐を伴侶とするのだ。彼はこれからもっと、幸せになるのだぞ」

「あぁ……玲燐様!」

「有難き、まっこと有難きお言葉にございます!」


 涙は止まったが顔がひどいことになってしまい、皇帝命令により二人は顔を洗うために退出した。

 二人が戻るまで、イェルハルドはこの場から去れない。何故なら東の宮は、皇宮の中でも一番厳重に守られた場所だからだ。

 東の宮以外はたとえ皇宮内であろうと、危険が潜んでいる可能性が捨てきれない。

 そばを離れている間にイェルハルドに何かがあれば、騎士たちが己を責めることを経験上、知っている。


「姫」


 冷めたお茶を淹れ直している玲燐を、イェルハルドが呼んだ。


 玲燐が視線を向けた先、彼は何やら難しい表情で考え込んでいる。


「何を憂いている」


 彼女の声と気配が近付いて、うつむけていた視界の隅で真紅の髪が揺れた。

 イェルハルドから触れることを禁じているのだから、無防備にそばに来ないで欲しいと思ってしまう。

 触れたい。

 叶うなら、力の限り抱き締めたい。

 十年もの間焦がれ続けてきた女性が目の前にいるのに、まだ手に入らない。


「呼んだのはあなただろう? 黙ってうつむかれてしまっては、何もわからない」


 ためらいなく伸ばされた両手がイェルハルドの頬を包み、そっと顔を上向かせる。


 何故だ。

 心の中で、彼女に問う。


 玲燐はまるで、十年前の自分――シンへ向けるような笑みを浮かべている。まるで、愛しい、愛していると、言われているような錯覚に陥ってしまう。


「俺と姫は、政略結婚だろう。国同士の利益のため、姫は俺のもとへ来た」


 何故だ。

 再び心に浮かぶ、疑問の言葉。


「姫は今、何に傷付いたんだ?」

「私が傷付いたことはわかるのに、理由はわからない?」

「わからない」

「私にも、わからないんだ。教えて欲しい。あなたはずっと、何に傷付いているんだ?」

「俺が? 思い当たることはないが……」

「あなたは怒ってもいる。私に。……私は、あなたに何をした?」


 考えてみても、傷付いた覚えも怒った覚えもない。

 彼女の両手はいまだ頬を包んでいて、触れることが許されていない自分には、その手を解いてやることも出来ない。


「わからないなら、今は良い。続きは?」

「続きは……」


 途中で止めた言葉の先を思い出し、イェルハルドの一つしかない目が泳ぐ。


「つ~づ~き~」

「爪を立てるな」

「相変わらず面倒な男だな! 途中で止められると気になるんだ! さっさと吐け!」

「痛い。首が抜ける!」

「こんなに太い首が私の力で抜けるものか!」

「姫の馬鹿力なら可能だろう」

「なんだとッ」

「玲燐様、お止しなさい」

「はいはい~。お手々を離しましょうねー」


 明明と春がエスターニャ語で割って入り、なんとかイェルハルドの首は無事だった。

 近衛騎士たちは、手を出せなかったのだ。

 目の前で皇帝が傷付けられるのを黙って見過ごすわけにはいかないが、皇帝本人の視線が騎士たちに「玲燐に触れたらコロス」と告げていた。


 侍女二人に羽交い締めにされている玲燐の姿を瞳に映しながら、イェルハルドは己の首を擦る。爪を立てられた頬も、結構痛かった。


「先ほど、ロルフとラーシュに言っていた言葉。姫は誰にでもああいうことを言うのかと、聞こうとしただけだ。雅烙で嫁ぎ先が決まっていたのだろう? 好いた男との結婚を邪魔した相手に、何故あんなことが言える」

「好いた相手?」

「江栄翔のことだ。俺と違い、線の細い色男らしいな」

「……嫉妬か?」


 口をつぐみ、イェルハルドは顔をそらす。


 紅がひかれた玲燐の口から、豪快な笑い声が溢れ出した。

 大口を開けて笑いながら、腹まで抱えている。


 その場の誰もが、皇帝の吐いた言葉で玲燐は怒るか泣き出すだろうと考えたのに、真逆の反応には誰もが面食らう。


「なるほどな、そうか。江栄翔のことを気にしていたのか」


 明明と春には視線で放すよう命じ、自由の身となった玲燐は、座ったままでいたイェルハルドへ再び歩み寄る。


「私もお前に怒っていたんだ。だから、絶対に私からは折れてやるものかと思っていたが……可愛らしい嫉妬に免じて、今回は折れてやろう」


 髪と同色の紅が引かれた唇が、弧を描く。


「私が他の男のものになると聞き、黙っていられずに政略結婚を申し入れてきたのかと思っていた。きっとお前だと、お前であって欲しいと願いながら、私はここまで来たんだ。書状のやり取りなんて時間の掛かるもの、待ってなどいられるか。……十年待った迎えがやっと来るのかと、期待した。なのに」


 声に怒りが混じり、誰もが身構える。ただ一人、イェルハルドだけは呆然と、玲燐の美しい顔を見上げていた。


「私は期待していたんだ。会えばすぐに、抱き締めてもらえるものと思っていた。名を、お前のその声で名を呼ばれる日を、何度夢見たことかっ」


 東国式の化粧が施された眦から一筋、涙が頬を伝う。


「別人として接して来て、シンの名を出したが知らぬと言う。何か理由があるのかとも考えたが、腹が立って、腹いせに触れるなと命じた。昔と変わらず馬鹿みたいに真面目に、守って……ここでは私よりもお前の方が偉いのに。皇帝なのに。皇帝に、なったのに。誰にも邪魔されないで、この私を、手に入れたかったのではないのか?」


 涙は止まることなく流れ続け、顎の下で雫となり、落下した。


 玲燐は、言葉を吐き出し続ける。


「あげくにこの宮だ。ここは、雅烙だ。雅烙の城だ。雅烙の城と同じ造りの、私の部屋がある。お前とよく過ごした、中庭もあるじゃないか。お前は私のシンなのに、私はずっと、お前だけを想って生きてきたのに。姫などと……距離を取った呼び方は、やめてくれ」


 弱々しい声が懇願して、長い袖が泣き顔を隠した。

 近衛騎士と侍女たちの視線がイェルハルドへと集まり、彼はやっと、重い腰を上げる。

 長い脚で一歩分の距離を詰め、顔を隠している玲燐を見下ろした。


「玲燐」

「……なんだ?」

「気付かないと、思ったんだ。俺は、変わり過ぎた」

「十五が二十五にもなれば、変わって当然だ」

「線の細い男が、好みなのではなかったか?」

「私の好みは、好いた男だ」

「……どういう意味だ?」

「昔も今も、私はあなただけを愛しているという意味だよ、イェルハルド様」

「俺はあの時、待たなくて良いと言ったはずだ」

「私も言ったはずだ。王族としての立場が許すギリギリまで、待っていると」


 顔の全てを覆い隠していた長い袖が少しだけ下げられて、大きな双眸がイェルハルドを見上げる。黄金色の瞳が二つ、不安げに揺れていた。


「……迎えに来て、くれたのだろう?」


 イェルハルドが腰を屈めた次の瞬間、玲燐の体は抱き上げられ、太い腕の上に座るような体勢となった。バランスを取るため、慌ててたくましい肩へと触れる。


「愛している、玲燐。俺のものになってくれ」


 昔は長く伸ばされていた白銀の髪はばっさり短くなり、顔には大きな傷跡がある。一つだけになってしまった紫の瞳は、昔と変わらず優しい光を宿していた。

 線の細かった少年はすっかり大人の男となったが、面影は残っている。


 これでどうして気付かれないなどと思ったのかと心の中で文句を言いつつ、玲燐は満面に笑みを浮かべた。


「喜んで。私の全てを、イェルハルド様へ差し上げます」


 今度こそ本当に抱き締めてもらえて、玲燐は幸せの余韻に浸って、目を閉じた。


   ※


「いやぁ、小骨がやっと取れましたねぇ」

「小骨の正体は、声と言葉遣いだったのね」

「今思えば、あれはまんまシン君でしたもんねぇ。玲燐様は最初からご存じだったなんて、さすがです」

「皇帝陛下がシン君で、本当に良かったわ」

「先輩、そろそろ泣き止みません?」

「春だって泣いているじゃない」

「というか、泣いてないのは皇帝陛下だけですね」


 顔を洗いに行っていたロルフとラーシュは早い段階で戻ってきており、再び号泣していたのは、余談だ。

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