第四話 準備期間の約束事2
終業にはまだ遠いが、ちょうど小腹が空く時間。午後の一服を入れたくなるタイミングで、執務室の扉が叩かれた。
給仕がお茶を持ってきたのだろうとドアを開けたガスパルは、目をまぁるく見開いた。
「玲燐様が、何故こちらに?」
玲燐が暮らす宮から執務室の扉に辿り着くまでは、衛兵が守る場所をいくつも抜ける必要があるのだが、ガスパルのもとに前触れは来ていない。
衛兵の守りを全て突破した先には官吏たちが働く広間があり、そこから更に廊下を奥へと進んだ先に執務室がある。誰かしらが知らせに来ないとおかしいが、原因は玲燐の背後にあると、ガスパルは察した。
玲燐が来るまで、イェルハルドをそば近くで守っていた近衛騎士が二人、玲燐と彼女の侍女たちの背後に立っていたからだ。彼らはイェルハルドの腹心。皇子の頃から、イェルハルドに忠誠を誓っていた。
ガスパルと目が合うと、近衛騎士たちは満足そうな笑みを浮かべる。
「宰相閣下。中へ入れてくださらないかしら? 陛下へ良い物をお持ちしたの。冷めてしまうわ」
淑やかな笑みを浮かべた玲燐の唇から紡がれるのは、淑女が使うエスターニャ語。
西国式のドレス姿で真紅の髪はすっきりとまとめられていて、顔には薄い化粧も施されている。
「どうぞ、ガスパルとお呼びください。雅烙第一王女殿下」
皇后教育の賜物か、初めからこのように振る舞うことも可能だったのかはわからないが、一筋縄ではいかないお人なのだろうとガスパルは思う。
「承知しました。エスターニャの方々の姓は長過ぎて覚えられず、困っておりましたの」
堪えきれないため息と共に、ガスパルは玲燐たちを執務室へ招き入れた。
ぞろぞろと五人が新たに入室しても余裕がある執務室内。最奥のどっしりとした机で書類と格闘していたイェルハルドが、眉間に皺を寄せて玲燐を見つめている。
「働き過ぎという顔だな。桃饅頭を持ってきた」
扉が閉まった途端元の話し方に戻ってしまった玲燐が、遠慮の欠片もなく室内を歩く。
「姫がこちらへ立ち入るのを許可した覚えはない」
「私はあなた本人から、皇宮内で自由に過ごす権利をもらったと記憶している」
「皇宮内全てに出した覚えはない。許可したのは、東の宮と庭園だ」
「そうだったか? エスターニャ語は母国語ではない。許せ」
会話の間に玲燐が動作で指示を出し、侍女二人がテキパキと、応接用の机の上に茶の支度を整えた。
「移動の間に冷めてしまったか? 帝国の城は広過ぎるな」
侍女の一人から、桃の実を真似た形をした饅頭が乗った皿と箸を受け取り、玲燐は執務机を挟みイェルハルドと向かい合う。
「明明に作ってもらったんだ」
皿と箸を机に置くのかと思いきや、玲燐は箸で摘んだ饅頭をイェルハルドの口元へと差し出した。
「あぁ。もしかして毒味が必要か? 私がかじり、半分をあなたへ食わせれば良いのだろうか?」
「やめてくれ」
右手で頭を抱えたイェルハルド。
助け舟を出そうとガスパルが口を開いたのと同時、箸に摘まれた饅頭は、イェルハルドの口腔へ消えた。
「うまいか? 雅烙の茶もある」
「姫、机に座るんじゃない」
注意しながらも姫から茶器を受け取り、イェルハルドは茶をすする。
「この机、造りがしっかりしているな」
「それでも、座る場所ではない」
もう一つ、箸に摘まれた桃饅頭が差し出され、眉間に皺を寄せたままのイェルハルドが口を開けると、ほんのり温かい饅頭が舌の上へと乗せられた。
この二人は一体何を始めたのだと、ガスパルは口をあんぐり開けて凝視し、侍女二人は微笑を浮かべて静かに控えている。室内に複数人いる近衛騎士たちの表情は変わらない。
見守る人々の胸中など無視をして、玲燐とイェルハルドの会話は続いていた。
「あなたは表情を取り繕うのが上手いようだから、近くで観察する必要がある」
「俺の顔など見苦しいだけだ」
「戦士の顔だな。この傷はどうしたんだ?」
細い指先がイェルハルドの傷跡を撫で、大きな体が傍目から見てもわかる程、緊張する。
「指一体でも触れたら舌を噛み切るのではなかったのか?」
一つしかない紫の瞳が玲燐を見上げ、鋭い視線を受け止める玲燐は、新しいおもちゃを見つけた子供のような笑みを浮かべている。
「自分から触れておいて舌を噛み切ったら、私は自殺志願者ということになる」
「俺の方から、姫に触れるのは?」
「許さん」
「姫は自分勝手が過ぎる」
玲燐は、静かに笑った。
「それで、これは誰に斬られた?」
完全に塞がっている傷口を、玲燐の人差し指が労るように往復する。
「俺が殺した、弟に」
「命の代わりに目玉をくれてやったのか。……馬鹿め」
大きな音と共に、玲燐の右手がイェルハルドの額を叩いた。
かなり強い力だったのだろう。額が赤くなっている。
騎士たちが動こうとしたのを、イェルハルドが視線で止めた。
ガスパルは再び驚愕した。
皇帝の額を叩くとは正気の沙汰とは思えない。馬鹿はあなたの方だと、心の中で叫ぶ。
玲燐の目の前にいるのは、表情一つ変えずに多くの首をはねてきた男なのだから。
「骨は無事か?」
触れる許可がないからか、イェルハルドの両手は執務机の上に置かれたまま。紫の瞳が心配そうに、玲燐の右手を見分している。
「思いの外あなたの額が硬過ぎて手が痛いが、骨は無事だ」
ふてくされたような玲燐の声と表情。
ふ、と。イェルハルドの表情が和らいだ。
玲燐がまとう空気も穏やかなものへと変化する。
「私はあなたの妻になるんだ。離れた場所で見守る必要はない。心配なら、この距離で。茶を飲みながら言葉を交わそう」
二人の間にたゆたう空気の意味を、二人以外は誰も――いや。イェルハルドでさえも、理解出来ていない。
「さすがにこの距離は近いと思うがな」
冷静に指摘すれば、玲燐が楽しげに笑う。
「私は宝石よりも、食べ物が良い」
「俺が渡す物を、姫は食べようと思えるのか?」
「私は毎日、あなたから与えられた物を口にしている」
この皇宮の物は全て、皇帝であるイェルハルドの物。確かにその通りだが、イェルハルドが言いたいのはそういうことではない。
手を伸ばせば触れられる距離にある玲燐の顔を、イェルハルドがじっと見つめる。
玲燐は静かにその視線を受け止め、柔らかな微笑を浮かべていた。
「…………わかった。エスターニャの菓子を差し入れる」
「毎日だぞ」
「約束しよう」
イェルハルドが漏らした苦笑と共に、約束は交わされた。
「最後にもう一つ。私はあなたを何と呼べば良いのだろう?」
「イェルハルドと」
「承知した」
満足したのか、玲燐は執務机から飛び降りる。
残りの饅頭は皆で食べてくれと告げると、侍女と近衛騎士を引き連れ退室するようだ。
扉が閉まる直前、顔だけ覗かせた玲燐がイェルハルドに向かってはにかんだ笑みを見せた。
「イェルハルド様。また明日。東の宮で、お待ちしております」
音もなく閉じられた扉を呆然と見つめた後で、ガスパルは思い出したようにイェルハルドへ振り向いた。
執務机に倒れ込んでいる。
一瞬毒を疑い慌てて駆け寄ったが、耳と首筋を真っ赤に染めて唸っていたから、見てみぬふりをして仕事へ戻る。
冷めきる前につまんだ饅頭はかなり甘い物だったが、雅烙の茶と合わせると後味がすっきりして、美味だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます