第弐幕


 翌日。


 雲一つない青空で、久しぶりに夏のような日差しが降り注いでいた。教室も熱がこもり、袖をまくっていても汗が出るくらいだった。


 弁当をリュックにしまい、私は黒板の上にある時計を見る。


 あと五分ほどで昼休みは終わる。グランドでサッカーをしていた男子たちも校舎へと戻ってきていた。


「冴、私トイレ行ってくる」

「そんなこといちいち言わずに行きなよ」


 ペットボトルの紅茶をがぶ飲みしながら答える冴に手を振り、私はトイレへ向かった。


 紅茶はがぶ飲みすると、清楚感がなくなるので冴には似合わない飲み物だなと思ったが、本人に言ったらきっと怒るだろう。


 先日のこともあり、ちゃんとした、設備の整ったトイレに行けるという安心感はすさまじかった。もう二度とあんな経験はしたくない。したくないし、もうすることはないと信じたい。


 教室から十歩で着く場所にあるトイレは、誰もいなかった。昼間とはいえやはり学校のトイレは少し怖いものだ。独特の空気感と蛍光灯の薄暗さ、そしてピンクのタイルがそれを際立たせる。


 スリッパを履き替え、一番奥の個室の扉を開けた。少し黄ばんだ洋式のトイレだ。汚いなと思っていたが、あの一件以来、トイレのありがたみを身にしみて感じている。汚くてもいい。ちゃんとしたトイレを使えるのは幸せなことなのだ。


「ふぅ~」


 トイレというのは公共の場において唯一絶対にプライベートを侵されることのない聖域だ。トイレがなくなれば学校での安らぎの場所がなくなてしまう。そもそもトイレを安らぎの場所とするのが間違ってるかもしれない。しかし、聖域であることに変わりはないはずだ。


 ブルッと、体が震えた。


 寒さによるものではないと直感的にわかった。嫌な記憶が蘇る。この感覚は……。


 答えが出る前に奴がやって来た。冷たいヌメッとした物が私の尻を撫でた。


「きゃああああああああああああ!」


 私は、用を足し終えていないのに扉を開け飛び出る。後からトイレに来ていた女子は何事かと私に駆け寄ってくる。羞恥心と恐怖心が尋常じゃなかった。女子しかいない空間にしてもこれは恥ずかしすぎる。それに、なんでちゃんとしたトイレで尻を撫でられるのか。


「ちょ、華乃ちゃん? どうしたの、そんな大きな声あげて」

「何があったの?」

「あ、あう、あ……」


 呂律が回らなくなっていた。立ち上がることもできず、座り込んでいると、


「私、先生呼んでくるね!」


 と、一人の女子が立ち上がりトイレを出て行った。そこからは倒れてしまったらしく、記憶がない。




 ゆっくりと目を開ける。生暖かい空気と消毒液の匂い。そしてカーテンで囲まれている空間と少し硬いベッドから自分が保健室に運ばれたのだと悟った。


 服は上下体操服に着替えさせられており、汚れた制服の入ったビニール袋がベッドの下に置かれていた。下着も変えられている。保健室の物だろうな、と予測する。着心地も悪いし、なんだか気持ちが悪い。


 体を起こし、カーテンの隙間から壁掛け時計を見る。二時過ぎごろで、一時間近く寝ていたようだ。


 起きた私に気が付いたのか、養護教諭の三戸部先生がやって来た。かすかにコーヒーのほろ苦い香りが漂う。


「目が覚めたみたいね。具合はどう?」


 白衣を着た三戸部先生はにっこりと笑いながら、ベッドに腰をかける。三十代半ばとは思えない容姿に男子の仮病が増えるのも納得する。


「特に、何も感じません。問題ないようです」

「ならよかったわ。もうすぐ大会らしいわね。きっと練習のやりすぎで疲れてるのよ。今日は休んで早く家に帰ったらどう?」


 それはできなかった。今度の大会は、三年生の引退試合なのだ。一般的に夏に引退試合があるものだが、うちの県は特殊でどの運動部も冬前まで部活はあるのだ。


 そんな説明を三戸部先生にすると、


「赤坂さんがいいなら、私は構わないのだけれど。無理はしないようにね」


 と言われたので、ベッドから立ち上がった。


「どうする? ちょうど六時間目始まっちゃったけど、もう一時間サボってく?」

「はい! そうさせてください!」


 三戸部先生は、「これ言うと、みんな元気が出るのよね……保健室あるあるの決定版よ」とか言っていた。さらに「そんな本出したら売れるかもね」とも言っていた。先生の写真集を出した方が売れるだろうな、思ったけどそれは言わないでおいた。


「それで、華乃ちゃん。今彼氏とはどうなの?」

「は、はあ⁉」


 片手にコーヒーを持つ三戸部先生は、何かおかしいことでも言った? という顔で笑ってた。ちなみに私は三戸部先生に彼氏のことを話した記憶はない。


「……誰から聞いたんですか」


 大方予想がついていたが、念のため聞いてみる。


「宮永冴」

「やっぱり……あいつめ、殺す」

「百十番するわよ」


 で、どうなのよ。三戸部先生は意外にもしつこく聞いてきた。私自信、あいつの事について話すのが嫌なわけではないのだが……。


「なに、何かあったの?」

「あった、というか最近ちょっとだけ不満があって……」

「高校生カップルの癖に不満だなんてー。先生に聞かせなさいよ」


 はあ……、と私は溜息をつき始めながら彼氏の椎木了の話を始めた。了とは付き合い始めてもうすぐ四か月になる。向こうからの告白を受け、私も彼の優しさを知っていたし、顔も整っている方だったので、それを「お願いします」と返事をした。とはいえ、四か月もたつと、相手の本性もわかってくる頃。どうやら了は、少しばかり面倒くさい性格のようなのだ。優しいことに変わりはないのだが、思い込みが激しく、さらにネガティヴに物事を考える。それが真実と違う方向へ向かっていると話しても、耳を貸そうとしない。


「面倒くさいね」

「面倒くさいですよ」

「別れちゃえば?」

「えー……それは嫌かな」


 高校に入って初めての彼氏だった。彼氏がいるというのは私のステータスにもなっていた。クラス内でそこそこの地位でいられる。了は私にとって大切な存在なのだ。


「好きじゃないのに付き合っても、相手に失礼なだけだぞ。これはわかっておきな。罰当たるよ」

「いや、嫌いなわけではないですから」


 三戸部先生は何だか不満そうな顔をしたが、私は無理やりこの話をここで終わらせた。



 三回戦目で完敗し、ベスト16として無事に大会を終えた、次の日の夜。私は冴の家でお泊りをしていた。


 時刻は午後十一時を回り、シングルベッドに私たち二人は潜り込んだ。まるで修学旅行の夜みたいだ。今にも恋バナが始まりそうな雰囲気だが、それはない。なぜなら、私には了がいるし、冴の好きな人も知っているからだ。わざわざ、ここで恋バナをする必要はないのである。


 それに、今夜は冴がすぐにある話を始めた。


「華乃が言ってたことを基にね、私、少し調べてみたの」


 スマホのグーグルを起動し、ブックマークの「かいなで」という開く。


「……かいなで?」

「そう。お尻を触る妖怪」


 冴が画面をスクロールし、私に渡す。


「そこに書いてある通り、基本的には節分に現れる妖怪? みたいね。『赤い紙やろうか、白い紙やろうか』ってのもそのかいなでから来てるみたい」


 私はその文章を読んでいて疑問に思う。


『トイレに現れる』


 と書いてある。


 確かに私は、二回目はトイレで会った。しかし、初めて触られたのはトイレでもなんでもない場所だ。


 それにこの文章からだと、かいなでは悪質な妖怪ではなさそうなのだ。私は二回目も被害にあって迷惑しているのに。節分でないにも関わらず。


 本当にこの『かいなで』という妖怪の仕業なのだろうか。あまりに特徴が合致しないのではないだろうか。


「ねえ、冴。本当にこいつだと思う?」

「それは私にもわかんないよ。でもまあ、あんまり続くなら霊媒師とかにお願いした方がいいかもね」

「冴がそんなの信じるなんて以外」

「私こう見えてオカルトは好きよ」


 私の身に迫る危険が「かいなで」かどうかはさておき、少し気分を紛らわす事にした。今夜は冴と布団をかぶってふざけまくり、翌朝も昼から夕方までカラオケで歌いつくした。


 そして、週末には了とデートの約束をした。ここ最近は部活が毎日あったため、二人で会えていなかったから楽しみだ。


 私は駅ビルの一階のスタバで了を待った。


 この一週間、かいなで(仮)の被害にはあってなく、もしかしたらこのまま被害はないんじゃないだろうか、とも思っていた。


『窓際の席にいるから』


 とLINEをして、キャラメルマキアートをちょびちょび飲む。いくら冬とはいえど、熱いものを飲むのはちょびちょびでなければ舌が焼ける。


『あと五分くらいで着く』


 と了から返信があり、Twitterでも見て待とうとすると、聞き覚えのある声が私を呼ぶ。


「華乃?」


 反射的に顔を上げると、四つ上の従兄・佐々木智也がいた。


「ここいい?」

「彼氏があと五分で来るから、それまでならいいよ」

「おっけー。五分で充分」


 と、智也は私の前の席に腰をかけた。


 髪は赤く染められているが、チャラさは感じない落ち着いた赤で、服もかなりラフで着こなしている。何となくスタバの雰囲気になぜか馴染んでいた。ちなみに冴の好きな人はこいつのことである。


智也は隣県の大学に通っていて、一人暮らしをしているはずだったが、なぜこっちに戻ってきているのだろう。その事について尋ねてみる。


「ああ、友達の手伝いでちょっと戻ってるんだよ」

「手伝い? 何の」

「それはちょっと企業秘密」

「ケチだねー」

「そういう約束だから」


 智也が次の話題を振ってくる。


「学校どうよ」

「うっわ、ベタ」

「いいじゃん別に。聞きたいもん」


 子供みたいに顔を膨らませる智也。この顔で色んな女を落とすんだな……。確かにイケメンではあるが、私には魅力がわからない。


「それがねー、最近色々あったんだよ……」

「何があったのさ」

「大会ではボロ負けするし、学校では大恥かくし……」


 ぐたー、とテーブルの上に腕を伸ばす私を見て智也は笑う。


「大会はドンマイだな。大恥は何やらかしたんだよ」


 無論、あの一件である。しかし智也なんかに言いたくはなかった。


「言うわけないじゃん!」

「じゃあ、あとで冴にLINEで聞くよ」

「え、冴のLINEなんで持ってんの⁉」

「何かちょうだいって言われたから……」


 こいつ……無意識女垂らしだ……。どこぞの朝ドラヒロインの兄貴か。


 そんなツッコミを心の中でして苦笑すると、智也がチラチラ窓を見ているのに気が付いた。


「どしたの」

「いや、すっげえこっちをガン見してる人いるんだけど……」


 何だその変質者は、と智也の視線の先に目をやると……了だった。絶望とでもいいたげな表情で口を開けて棒立ちしている。そして、今アイツがどんな思考回路に至っているのか大方予想がついたので、慌てて店を飛び出して了の元を目指す。


 店を出ると了は私を避けるかのように走り出した。


「ちょっと了! 待って!」


 やむを得ず叫ぶと、周りの人々も一斉に振り返る。しかし了はちゃんと止まってくれた。私に顔は見せないようにしているが。


「了、あれは誤解だから!」

「誤解だって? どこが誤解なんだよ。僕はもう傷ついたさ。まさか君に浮気されるとは思ってなかったよ。最低な女だ」

「ちょっとそこまで言わなくていいじゃない! 違うの!」


 彼が思い込みが激しいのはわかっていた。いつも勘違いされないように注意を払って来た。今回は私の不注意だ。でも誤解は解かなければならない。了を失いたくはなかった。


「あれは、従兄だよ! たまたま会ったからお話してたの!」

「へえ、華乃、前に従兄は隣県の大学に通ってるって言ってたじゃん」

「友達の手伝いで帰って来てるのよ!」

「そんな都合のいい話……」


 まあ、確かにそれは言えてる。都合がよすぎる。でも事実だ。本当に智也は友達の手伝いでこちらに帰ってきているのだ。これ以上どう弁解すればいいのだろう。とりあえず、今の気持ちを言うしかない。


「私はちゃんと了が好きだよ!」


 私のその言葉に了は一度振り返ったが、また向き直った。


「ちゃんとって何だよ」


 そう言ったように聞こえた。


「ごめん。もう華乃とは付き合えない」


 了はそう吐き捨てると、再び走り出しどこかへ消えてしまった。なぜか涙も出なかった。その代わり、かいなでを憎んだ。あいつと遭遇してから何もかも上手くいかない。学校では恥をかかされるし、大会ではボロ負けするし、彼氏には浮気と勘違いされてフラれるし。最低最悪だ。


 少しイライラした気持ちが引いてから、スタバに戻る。智也が心配そうな顔で声をかけてくれた。


「悪い、誤解させたか」

「ううん、智也は悪くないよ。全部かいなでのせい」


 私はそう言って残っていたキャラメルマキアートを飲み干した。すると、目を丸くした智也が私の顔を見ていた。


「え、何」

「今、何て言った?」

「は、え、何、どういうことよ」

「もしかして『かいなで』って言わなかった?」


 あの初めてかいなでと遭遇した夜のように背中が冷え、ぶるっと震えた。


 どういうことだろう。智也はなぜ『かいなで』という言葉を知っているのだろう。


「知ってること、お前が経験したこと。全部話してくれ」

「何で」

「いいから」


 あまりにも智也の語調が強かったため、それ以上は言い返せなかった。話すべきだろうか。正直、こんな恥ずかしい話、いくら仲のいい従兄とはいえ、男子に話したくはない。でも、智也は話せと言う。


「お前を助けられるかもしれない」


 その言葉で腹を括った。


 私の話を聞いた智也はメモ紙を取り出し、何か書いてから私に渡してきた。


「何これ」

「明日のいつでもいい。ここに来てくれ」


 先ほどと打って変わって、険しい表情の智也はそう言ってスタバを出て行った。


 メモ用紙を見てみると、電話番号と住所が書かれていた。おそらく智也のものではないが、右下に書かれているものでそれはほぼ証明されたと言えた。


 右下には『小鳥遊麻友』という怪しい名前が書かれていた。



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