かいなで
雨瀬くらげ
第壱幕
ガシャン。
机から落ちたグラスがフローリングの床に破片をまき散らす。
誰かが不意に落としたわけじゃない。地震が来たわけでもない。
私はトイレから出て来ただけ。
ふと、何かの気配がして、さっきまでいたトイレを振り返る。
洋式便器の中へ、人の腕が消えていった。
「まったく、今回のもやっかいっぽいね」
しかし、気にすることはない。小鳥遊麻友がこの街に来た目的に早くも出会えた。
※ ※ ※
キュッキュッ。
バレーシューズの床を蹴る音がやたらと響く。
だけど、私はこの音が結構好きだった。安心感というものだろうか。自分がここにいてバレーをすることができているという感覚を実感できるものだと思っている。中学からバレーを始めてから今現在、JK生活に入ってもまだそう思う。
「集合!」
シューズの音を上回る音量で、キャプテンである栢山千里先輩が叫んだ。その声に私たち部員は女子特有の高い声で「はい!」と答える。足音が数を増やし、慌ただしくなり、顧問の先生の前に整列した。
「大会が近いからな。一番やっちゃダメなのはケガだ。いいな?」
野太い声で先生は言う。てっぺんがやや禿げた頭。ぽっちゃりした体に羊のような顔なので、部員からは『シャーリー』と言われて親しまれている。基本的に顧問と部員の仲がいい、理想的な部活なのだ。顧問と部員が、なのでコーチとの仲の良さについては言うまでもない。
周りの女子が熱心な目をしてシャーリー先生の話を聞いている中、私は少し上の空で聞いていた。先生にバレないようにこっそりと、壁掛け時計に目をやる。短針は七の数字にその先端を向けていた。続けて窓を見ると、体育館の中の方が明るいようだということがわかった。
秋ももう半ば。そろそろ冬のおもてなしの支度を始めなければいけない。部活でも長袖のジャージを使い始めた。
先生の話が終わり、一同は立ち上がる。
「気を付け! 礼! ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
再び千里先輩が一番大きな声。私たちはそれに続いた。
挨拶を終え、部員たちは更衣室へ移動する。部員十一名が使う部屋にしては少し狭い。もしも部員四十人みたいな巨大部活だったら絶対入りきれない。
そんなことを考えながら着替えていると、同じクラスであり小学校時代からの友達である宮永冴が話しかけてきた。なんともう着替え終わっている。こいつは早着替えの世界大会があったら優勝できるんじゃないだろうか。
冴は、サラサラな短い髪を揺らしながら話す。
「私、トイレ行って帰ろうと思うんだけど。華乃はどうする?」
「え、いいよ。冴ひとりで行ってきな」
私がぶっきらぼうに答えると、冴の目が鋭く光る。もとから釣り目なので怖い。
「ええ? 本当にいいの~?」
スカートを穿くために下を向いていたのに、冴は私の顔を覗き込んでまで話を続けた。
「先生が話してる時、華乃、外の方向いてたよねー? 華乃がトイレ我慢してる時の癖だよ。何年一緒に過ごしてると思ってんの」
図星でございます。私、さっきからトイレ我慢しています。
「……わかってたんだ」
隠しきれてると思ったんだけどなぁ……。どんなトリックでも長年の友人の方が探偵より早く暴けるんじゃないかと思う。
我慢していた理由は、この体育館のトイレが汚いからだ。それはまあ、超とかかなりとか付けても足りないレベルの汚さだ。トイレットペーパーも清潔感がなく見えるのだ。冴のような気にしない人はいいだろうが、私のような気にする人にとってはたまらない。
この体育館は、高校の体育館ではない。バレー部はコートを大きく使って練習するため、高校の体育館を使うと他の室内運動部が練習できないのだ。よってバレー部は少し高校から歩いたところにある市民体育館を使わせてもらっているのだ。本当、高校の体育館で練習したい……。
「トイレ行きたくなるもの飲まないように頑張ってたんだけどね」
私は着替えを終え、荷物をしまい始めた。
「あんた、昼がっつりコーヒー飲んでたくない?」
言われて思い出した。私は溜息をつきながら額を叩く。
「無意識だ……」
しかし、私の決心は固い。絶対に汚いトイレなんかに行きたくない。大丈夫。この調子なら家まで我慢できる。そう自分に言い聞かせる。入部してすぐの頃は、途中でコンビニにでも寄ればいいと思っていた。しかし、私たちの住むこの街はお世辞にも発展しているとは言えない。だがコンビニくらいはあると思うのは間違いだ。都会のようにコンビニとコンビニの間が徒歩一分という世界ではない。しかも私の家は山寄りの場所に位置し、通学路には見事にコンビニがないという事実。
運が悪い。
その一言で片づけるには随分と酷い内容に思える。
私はもう一度冴に言った。
「冴ひとりで行ってきなよ」
「ふーん、ほんとのほんとにいいんだね?」
「いいって! 早く行ってきなよ! ここで漏らさないでよ!」
「それはあんたのこと——」
「うるさい! 早く行け!」
私は物足りなそうな冴の背中をバレーで鍛えられた腕で叩いた。フルスイングでだ。「痛い!」と叫びながら冴はトイレへと逃げるように駆け込んでいった。
荷物を持ち、玄関で冴を待つことにした。一分ほどで帰って来た。
「おまたせ~」
「早く帰ろ」
冴の分の荷物を投げつけると、早歩きで帰路をたどり始めた。
冷たい秋風が吹きつけ、私はカーディガンの袖を少し伸ばし、手を隠した。男子はポケットに手を入れられるので羨ましい。ポケットのあるスカートもあるが、うちの高校のデザインは無駄に見た目がおしゃれなだけで機能性はゼロだ。短めなので足も寒い。
「着替えずに上下ジャージで帰った方がよかったかもね」
冴が体を震わせながら言う。私は丁重に突ツッコミを入れた。
「汗かいてるんだから。風邪ひくよ」
「バカは風邪ひかない!」
「自分で言わないでよ……。痛いから」
夜の土手を歩く。あるのは蛍光灯くらいだ。その蛍光灯に照らされた川の音を聞き、限界がすこし早まった。
我慢……。我慢……。
歩き方が変になり、ペースが遅くなっているのが自分でもわかった。
……もう歩けない。
バカを自称していた冴もうずくまる私の様子に気づいたようで、足を止めた。
「ちょっと、大丈夫?」
「限……界……」
一言でもしゃべったらちびりそうだったが、何とか堪えることができた。でも、もう本当に限界だ。
冴は溜息をつき、川原を指差した。
「野グソ?」
「はあ⁉」
自分から大声をあげてしまう。何で急に野グソとか言うの……。発言が意味不明過ぎるよ……。
「それしかないでしょ? 運のいいことに人いないし。私が見張っといてあげるから」
本当に何てこと言うんだ、この女は……。でももう歩けないし、ずっとここにうずくまっても、も……ああああ! っもう! 最悪! いくら人がいなくても、うん、もう駄目だ。
「……絶対に見張っといてよ」
蚊の鳴くどころかダニの鳴くような声で呟き、冴に支えてもらいながら川原まで下りた。数メートルのこの距離が万里の長城のように長く感じた。行ったことないけど、たぶんそのくらいだろうと思う。
雑草、じゃなくてススキの背の高い場所を見繕い、腰を下ろす。
スカートに手を伸ばしたところで、冴がこちらを見ていることに気がついた。
「ちよっと、ちゃんとあっち向いて見張っててよ!」
「えー、お互い女じゃん」
「そういう問題じゃないでしょ!」
何とか冴に背中を向けさせ、ススキの陰に体を、特に下半身が見えないように隠れた。
夜風が私の肌を冷やし、ぶるっと震えた。
だけどきっと顔は真っ赤だ。この年になってこんなことをするなんて思ってもなかった。今のところ人生最大の汚点になるだろう。
今日は少し川の流れが強い。そのため、音はあまり響かなかった。その点についてはリラックスできている。他の点はリラックスどころかパニックなのだが。
!
お尻に何か当たる。否、触った。触られた。何かが撫でるように私の尻を触ったのだ。
「きゃあああああああ!」
オペラ歌手に負けない高音で叫んだ。下着を上げないまま、立ち上がり冴に飛びつく。
「ちょ⁉ 華乃⁉ パンツ穿きなよ!」
「見張っててって言ったじゃん!」
「は、何が」
「お尻誰かに触られたよ!」
「虫じゃないの?」
「違う! 手っぽい感触だった。しっかり撫でられた!」
「はぁ……?」
私は涙越しにススキの中を捜索する冴を見る。
「誰もいないよ……。ただの虫だよ」
「もういるわけないじゃん! 私の尻触りに来る変態なんだから、触ったらすぐ消えるに決まってんじゃん!」
「んなこと言われても三百六十度ちゃんと監視してたし……。あと、パンツ穿きな?」
言われて気づく。これでは素っ裸で渋谷の交差点に立っているのと同じだ。
慌てて穿き、冴に文句をぶつける。
「なんですぐ言ってくれないの⁉」
「え? 言ったよ? 私言ったよね?」
もうほんとに最悪。今のところじゃなくてこれから死ぬまで人生最大の汚点であり続けるだろう。
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