十月十日の物語 ~いつか巡り合うその時には~

仕黒 頓(緋目 稔)

十月十日の物語 ~いつか巡り合うその時には~

 ガシャン!


 という音が、聞こえた気がした。

 直後には目が焼けるかと思う程に視界が白く染まり、今度は暗転して――


 そこで、私の意識は途切れた。


 音の直前に見えたのは、視界いっぱいに広がる鉄壁のような青いトラックのキャビン。つまりはそれが私の人生最後の景色、というわけだ。

 全く、何とも味気ない。




       ◆




「……の次は、今週の出来事を……さんと共に振り返って……」


 毎朝、決まった時間に流れ出すラジオ。その合間に、部屋の中を忙しそうに走り回るスリッパの音が聞こえる。


「……病院で『遷延性せんえんせい意識障害』、いわゆる植物状態の患者に延命治療の是非が問われ……」


 騒音は徐々に騒がしくなり、否応なく覚醒を促してくる。けれど私は、布団の中で抗うように瞼に力を込めた。


「――行ってきます」


 スリッパの音が途切れれば、次には録音再生でもしているかのような母さんの声が続く。それを追うように、玄関扉が閉まる音が最後。

 目の奥が沁みるような眠気が尾を引く中、私はやっと目を開ける。

 カーテンの隙間から射しこむ朝日に顔しかめながら、また終わりのない毎日が始まったことを嘆く。

 変化のない毎日。

 価値のない人生。

 川面にたゆたう枯れ葉のように、私は今日も、生きるしかない。





 観光名所なんか一つもない、小さな町の市営住宅。その駐輪場に辿り着く頃、やっと頭も覚醒し始める。朝も十時を回った今、ノーヘルノーネクタイで原付にまたがる私を咎めるようなお節介ババアもいない。いい時間帯だわ。


「……さむっ」


 十一月近い今、素手でハンドルを握るには少し冷たかった。スカートの下によれよれのジャージを着込んだのは正解だった。

 所々塗装の剥げた真っ赤な原付が、狭苦しい小道を大型犬みたいに車体を揺らして走る。高一の終わりに先輩から貰ったお下がりで、半年乗ってやっと癖を掴んできた気がする。

 今日はどこで時間を潰そう。とりあえずデパートで試供品を貰って、服を見て、新発売のCDを視聴して。

 昼はやっぱり学食一択かな。温かい素うどん食べたい。低価格なのもそうだけど、何より教室に行かなくても買えちゃうのが良い。


 昼前頃、近くのコンビニに原付を停めて、私は学校に入った。門は普通に乗り越えた。まだ授業中ということもあり、人気ひとけはない。

 急造のプレハブ校舎を通り過ぎ、一番奥の学食を目指す。


 ずずずっ


 と、出し抜けに間の抜けた音がした。思わず足を止めて職員棟を見てしまってから、見なかったことにして通り過ぎる。


「オイコラ」

「……何よ、イナ先」


 寒いのに窓を開け放ち、わざとらしく音を立ててうどんを啜る中年男――担任の稲垣先生に、私は律儀に返事をした。


「教室はとうに通り過ぎたぞ」

「そりゃご親切にドーモ」


 授業がなかったのか、教師のくせに生徒より先に学食でお昼を買ってきたらしい。他にも色々突っ込み所はあったけど、とりあえずその場から逃げようとしたら、また声が掛かった。


「お前、俺の授業だけでも出ろよ」

「……何で?」

「俺の評価が上がる」


 それが教師の吐く科白?

 思わず振り返ると、尚もうどんを啜るイナ先と目があった。

 やばい、あの目は。


「……あんまり、おっかさん、困らせるなよ」


 ……くっっだらない。迷わず引き返した。

 まただ。大人があの目をすると、十中八九私を責め立てる。マジでウザイ。

 それでも、イナ先はまだマシな方だ。

 中学なんか、そりゃもう酷かった。私の素行もだけど、それ以上に教師連中が。偏見と先入観で捏ね上げたような道徳理念が、親切と善意の皮を被って多感なお年頃の繊細デリケートな神経をがりごり痛めつけようとするのだ。


『付き合う友達は選べ』

『お母さんが一生懸命働いてお金を……』

『これだから片親は……』


 マジ煩い。問題児に構う教師っていう自己陶酔のためだけに近付いてるとしか思えない。

 小学校二年生の時に両親が離婚してから、確かに母さんは馬車馬のように働いた。中学に入ってからは正社員の仕事を始め、生活も落ち着いてきたけど、帰ってくる時間は相変わらず遅かった。

 周りの大人はいつも言う。


『お母さんは、君に苦労をさせたくなくて頑張って働いているんだからね』


 ふーん。じゃあ独りで晩ご飯作って待ってる私って苦労してないの?

 寂しいって言えない私は、思慮に欠けたただの穀潰ごくつぶしなんだ?


 そうやって言い返すと、大人は一様に顔をしかめた。一つの立場でしかモノを言えない奴に、小言なんて言われたくないんだよ。他人なんかに言われなくても分かってる。

 一方的で画一的な圧迫が私を歪ませる。するとその内、母さんとも折り合いを付けられなくなった。唯一一緒だった朝食の時間も、寝て過ごすようになった。今じゃ会話もろくにない。


 なんて、詰まらない。毎日が同じ朝で始まり、同じ夜に暮れていく。

 その日も同じだった。同じはず、だったのに。


 信号無視の原付事故。


 言葉にすれば、たったそれだけ。たった九文字に、私は殺された。まるで川が滝になった途端、川底に沈んで見えなくなる枯れ葉のように、呆気なく。

 けれど詰まらない毎日を送る私には、丁度良い死に方だと思った。


 ……はずなのに。


 おかしいことに、私の意識はまだ続いていた。

 なんで?

 理解は、周囲の喧噪と振動により訪れた。ガラガラと上下に揺れる音が、頭をかち割りそうに響く。手で押さえたいけど、それもできない。動かない。体中が鈍く、時に鋭く痛む。

 なんで? 私、死んだんじゃないの?


『植物状態の患者に……延命治療の是非が……』


 その時、今朝聞いたラジオのニュースが天啓のように頭をよぎった。

 まさか、救急車で運ばれてる?

 冗談! 延命治療なんて絶対止めてよね。痛みが長引くなんてただの拷問だって。

 大体、入院なんかしたらとんでもなくお金がかかるでしょ?

 やめて。絶対やだ。病院に捨てる金なんか持ち合わせてないのよ。うちは母子家庭で、母さんが夜遅くまで働かなきゃいけない程貧乏なんだから!

 そんなにしてまで助かりたくなんかない。無駄に体いじくらないで。これ以上母さんを働かせたら、朝も顔見れなくなっちゃう――。




       ◆




 ぼーっとしていた。

 いや、本当はただ寝てたのかも。どっちにしろ、目は開かず、口も動かないんだし、同じ事か。唯一機能しているのは両耳だけ。

 何かの気紛れでふっと浮上する意識の間、人の動く気配や一定のリズムで鳴り続ける電子音を拾う。指先よりも小さな鼓膜だけが、今の私をこの世に繋ぎ止めていた。


「脈も安定してきたし、そろそろ個室に……」


 時折聞こえる話し声。その内容を正確に聞き取るのは、やっぱり難しい。ただ分かったのは今まで集中治療室にいたことと、意に反して助かってしまったということだった。




       ◆




 あれから、何日が過ぎたのだろうか。

 次に意識が浮上した時には、また周りの気配が変わっていた。人のざわつきと生活の臭いがすぐ近くにこごり、意識がある時にはいつも一つの同じ気配が側にある。


「……稲垣先生が、お見舞いに来てくれたのよ」


 最初は偶然だと思った。人が来るから、それに反応して私の意識も浮上しているだけかと。

 でも、そうじゃなかった。機械的に往診してすぐに立ち去る医師や看護師とは違い、長時間そこにいて、時折優しく語り掛ける声。

 それが誰かは、考えずとも分かった。


「自分のせいだって、何度も謝罪していかれたわ。そんなこと、ないのにね」


 ……母さん? 何でいるの?

 確かに子供が事故に遭ったと聞けば、大抵の親は駆け付けるとは思う。けど女手一つで育ててきた母さんは、そう簡単に仕事を休めなかったはずだ。数日であればともかく、こんなに何日も。

 けど今の私に、それを問い質せるはずもない。返事も出来ずに、ただ声を聞く。


 ……返事? ナニソレ。


 ここ最近、まともに会話もしたことなかったくせに。大体、起きてる時にこんなに話しかけられた記憶だって、もう随分ない。


「部屋を掃除していたら、絵本が出てきたのよ。子供の頃に良く読んだ、古い本が幾つか」


 その絵本をめくっているのか、パラパラと擦過音を立てながら、母さんは喋り続ける。再び沈み始めた意識を満たすような母さんの声は、ひどく心地良かった。




       ◆




 意識が浮上する時には、必ず母さんが居た。そして決まって何かを話しかけている。反応なんかないのに、ずっと。そして私は、それを聞きながら夢とうつつとを行き来した。

 母さんは家事も裁縫も人並みにこなしたけど、それ以外の時間は全て仕事に使ったのか、殆ど無趣味の人間だった。娯楽もないこの空間で何時間も過ごすのは退屈だろうに。

 そう考えて、ふと気付いた。


 まさか、会社に行ってない?


 嫌な想像だった。看護ばかりして、会社から解雇されたとか? もし保険が出るとしても、入院費を全て賄えるはずがない。会社を辞めたら生活できなくなるじゃない。

 私は戦慄した。


 今すぐ死ななきゃ。


 生命維持装置があるなら、今すぐ切って!

 そう伝えたいのに、私の体は相変わらずびくともしない。

 母さんは喋り続ける。まるで今までのすれ違いを取り戻すように。

 あの生活が続いていれば一生聞かなかっただろう、興味のないラジオや本のこと。祖父母の様子。子供の頃の他愛もない思い出。

 懐かしいわね、という声はけれど、言葉ほどの楽しさはない。

 案の定、言葉が途切れればすぐ、いつものあの居心地の悪い空気がやってくる。


「……皮肉なものね。あなたがこんな事になってやっと、じっくり話が出来るなんて……」


 重苦しい鉛色の空のように、苦しそうな声だった。それはいつも聞く説教とも落胆とも違っていたけど、私は聞いていられなくて自分から意識を手放した。




       ◇




 意識を手放せば、全てが無に帰すように何もなくなる。

 あるのは、脆弱な矮躯を更に縮こませなきゃいけないくらいの、小さくて真っ暗な世界。

 それは時に自分の存在すら揺がすほどの不安を呼び起こすのに、無性に居心地が良かった。だから現実で嫌なことがあると、すぐにここに逃げ込んだ。耳を塞ぐ手の代わりに、闇の底を目指す。

 寝ているだけのはずなのに、現実はなおも煩わしいことでいっぱいだ。私はこのままでいいのに。このまま闇に沈み続けていたい。未練なんかない。

 目覚めたいなんて、少しも思わない。




       ◆




 かなりの月日が経った。と思う。

 それは聞こえる言葉から推測しただけで、私の状態に変化はいない。けど母さんには、少しずつだけど変化が出始めた。

 まず意識が浮上しても、母さんが居ない時が何度かあった。語りかける回数も減ったし、時に哀しそうな後悔の色が混じることもあった。


「やっぱり、寂しかったのかしら。いつもあなた一人で留守番ばかり……待っているのは辛いって、知ってたのに……」


 いつも仕事ばかりで、子供のことを全く省みない親。なんて思ってない。実際、母さんは私のことをいつも気に掛けてくれたし、話をすれば聞いてもくれた。だから別に母さんを恨んでなんかない。私の素行不良に、母さんの責任は一切ない。

 だから余計に、そんな頼りない声でそんな事を言われるのは腹が立った。見当違いすぎるその言葉が、今までどれだけ二人がすれ違っていたかを思い知らせるから。

 だから私はまた、あの狭くて小さな世界へと逃げ込む。




       ◇




 真っ暗な世界は、いつ頃からか少しずつ広がっている気がした。勿論、暗いことに変わりはない。けど何もない、と言うことはなくなった。

 耳を澄ますと、遠く淙々そうそうと流れる水声すいせいを拾った。それに紛れて、トットッという音も聞こえる。それは穏やかに一定のリズムを刻み、暗闇に安らぎを与える子守歌のようだった。

 水音は日に日に大きくなり、まるで川底で水のうねりを聞くようだった。それなのに体中は毛布で包まれたように暖かく、溺れる不安もない。それは味わったことのない奇妙な、けれどまさに「安心」を具現化したような空間だった。


 けど最近はどうしたことか、心地良いはずのベッドが嵐の海に放り出されたようにぐわんぐわんと揺れる事が度々あった。それが収まったかと思うと、次には強烈な吐き気が来る。その後には空腹感。

 安心して毛布にくるまれる時間の方が、ともすれば少ないくらいだ。


 ……ちょっと待って。それって変じゃない?


 空腹を感じるなら、現実の方のはずだ。けれど実際に私を襲う種々の感覚は、全て夢の中からもたらされた。あべこべだ。

 けど一番私の心を締め付けたのは、得体の知れない不安感だった。私を襲う輩も居ない、生活にも困らないそこで、しかし私は時に強い不安を感じることがあった。

 怖いような寂しいような、哀しいような虚しいような。言い知れない不安。

 まるで自分の感情ではないかのように、抑え方が分からない。


『ごめんね。苦しいよね。ごめん……もう少し、だから……』


 私の思考を遮って、微かな声が届く。この狭くて暗い空間に、それは優しく染み込んでいく。

 聞き取りにくい声で繰り返し謝る声は、決して穏やかとは言い難い。何かを堪えるように苦しげでもある。けれどその声は、不思議と私の全身に溶けてよく馴染んだ。

 まるで、私だけに効く魔法のように。




       ◆




 意識が浮上する。電子音の間に、人の気配を感じる。


「……お前、三月ギリまで寝てる気だろ」


 母さんじゃ、ない。誰?


「新学期に合わせて起きれば、留年しても平気だとでも思ってんだろ? 相変わらず、ずる賢い奴だ」


 知ってる声。でも、なぜだか思い出せない。


「仕方ねぇから、特別にまた俺のクラスに入れてやる。だから……」


 苦しそうな声。やだな。そんな声、聞きたくないんだって。




       ◇




 夢の中でも、聞こえる声が増えていた。

 少し鈍くさそうな響きの女の声。大人と他人と子供が嫌いな私でも、その声だけは嫌じゃなかった。それは母さん以外で初めてと言って良いくらいで。


 母さん……そうだ。


 その閃きに、私の密かな推測は確信に変わった。

 決定的だったのは、夢の世界に徐々に赤みが差し始めたことだ。

 あぁ、これ……母親のはらの中だ。

 理性ではあるはずがないと思いながらも、本能はそうと確信していた。流れる水音はきっと羊水で、穏やかに響くリズムは、母親の心音だ。

 これが心音なら、声は母親のものだろうか。とすると、最近の居心地の悪さや不安は悪阻つわりとか?

 苦しそうな声を整えて、子供を――私を心待ちにし、毎日愛おしむように言葉を注ぐ。

 それはむずむずするような感覚だった。抗いようもない優しい波が、私をそっと呑み込むような。高二の私なら絶対に鼻白む内容なのに、少しも鬱陶しさや重圧を感じない。むしろその声を聞くことが、私の唯一の使命とさえ思えた。


 けれども、この頃聞こえだした男――多分父親だろう――の言葉を聞くに、母親の悪阻は相当酷いようだった。特に人混みが苦手で、足下がふらつくのも度々だった。

 その度に父親は心配そうに声をかけ、母親は『大丈夫』と言って腹を撫でる。その優しく揺られる感覚に、私は安心してまた眠る。夢の中で更に眠るというのも変な話だけど、そうとしか言いようがなかった。




       ◆




 次に現実で拾った季節は、もう梅雨明けの頃だった。世間は私がいなくても勝手に季節が巡るし、入院費は着々と嵩む。

 けれど最初の頃のように、早く死ななきゃと思う回数は、減っていた。

 何故かは分からない。別に、未練が出来たワケじゃない。学校は元々進級が危なかったし、将来の夢もなかった。

 だからやっぱり、このまま死ぬのが嫌だとは思わない。

 ただ……ふと意識が現実に戻る時、ある考えが胸中を過ぎるのだ。


 あの夢、もしかして母さんの胎内……?


 でも、すぐにその考えは打ち消した。

 夢の中で母親は名前を呼ばれてたけど、それは母さんの名前じゃなかった。良く聞けば、声のトーンも夢の母親の方が幾分高いし、話し方もとろい。

 ……やっぱり、ただの妄想?

 いや、別に落胆した訳じゃないわよ。全然してない。全くもって、落胆なんて。


 どっちにしろ、もし実際にそんな女が居るとしても探しに行けないんだし確かめようもない。夢の中の母親が想像の産物に過ぎない可能性は限りなく高かった。




       ◇




 茜色が滲む闇の中、微睡みに身を委ねながら、私にはずっと解けない疑問があった。

 どうして、そんなに辛いのに産もうとするの?

 苦しいんなら、やめればいいのに。

 最近では食事もまともに摂れない上、胎児が栄養を奪い取るせいで母親はいつもふらふらだった。夜も眠気はあるのに、体が重くて目が覚める。そのせいで昼中うとうとと船を漕ぐらしい。胃液を吐くのも度々だ。

 それでも、調子が戻ると『ごめんね』と『安心して生まれてね』を繰り返す。その度に、私は込み上げる何かを必死に押し殺した。




       ◆




 夢の中がいつしか以前のような穏やかさを取り戻し始めた頃、現実での私は、逃げる、ということをあまりしなくなった。

 母さんの声から、後悔や懐郷の念が薄れてきたからだろうか。


「服を整理していたら、また別の絵本を見付けたのよ。今度は少し長めのお話」


 まるで夢の続きのように、私は母さんの声に全ての感覚を委ねる。

 相変わらずの、変化のない毎日。見えもしないそれらが、でもどこかきらきらと輝いて見えるのは、何故だろう。


「最近はね、本屋さんでもつい絵本を探しちゃうのよ。見てるだけでも楽しくてね……」


 まるで小さな子供でもいるかのように、母さんの声は楽しそうだ。


『何か趣味でも持ちなよ』


 昔、話しかけてくる母さんに何度かそう言ったっけ。

 どんな些細なことであれ楽しげに語ることが増えたのは、喜ばしいことだ。

 そしていつか、病室ここにも来なくなればいい。

 そう、ぼんやりと考えた。




       ◆




 その内、母さんは本当に来なくなった。意識がある時だけの話だから、タイミングが悪いだけなのかも知れない。でも、声を聞かなくなったのは事実だった。

 本当に、諦めた、のかな?

 望んでおきながら、現実になるとすぐに女々しくなる。全く、鬱陶しいったら。

 けど一方で、安堵したのも事実だった。

 母さんもまだ四十路を過ぎたばかりだ。寝たきりの私の世話なんかやめて、いい男を見付けて再婚でもしてくれた方がずっと良い。そうすれば私だって……。




       ◆




 次に意識が浮上したのは、どうも夜らしかった。パタンとドアが閉まる音の後に、滑るような靴音が続く。気配は、顔のすぐ横で止まった。


「……ねぇ」


 母さんだ。声が、少し掠れている?


「覚えている? あなたが、病院に運ばれた時のこと」


 珍しい。母さんがあの時のことを話題にするなんて。何かあったのかな。


「ずっと譫言うわごとのように繰り返していたそうよ。……『えんめい、やだ』『助かりたくない』って」


 ……そんなこと、言ってたんだ。

 確かにあの時は、ニュースのことを思い出して絶望してたけど。体中が痛くて動かなくて、何が声に出ていたかなんて、覚えていない。


「あなたは……死にたかったの? 治療されるのは嫌だった?」


 返事が出来ないことに、私は初めて感謝した。それが卑怯で狡いことだとは分かってたけど、でも、返す言葉がないんだから仕方ないじゃない。


「……ねえ。あなたがこのまま死ねば、生命保険が下りるのよ。そうすれば、母さん、もう働かなくても良くなるわ」


 青天の霹靂へきれきだった。母さんが、そんなことを考えているとは思いもしなかった。

 いや、でも……私だってそう考えたじゃない。

 そう……そうか。

 母さんに、私はもう必要じゃ、ないんだ。


 決めたはずの心が、どうしようもなく揺らぐ。それでも、私の道はひとつしか残されてはいなかった。


 ……死ななきゃ。


 死ななきゃ。

 死ななきゃ。

 死ぬ。

 死――――こわい。


 え、と思った。

 まさか、この私が、死ぬのが――独り死ぬのが怖い?


 ヒュ――!


 恐怖する私の耳元で、鋭利な物が風を裂く音がした。次には布が裂けるような音と、少しの振動。その後には、凍ってしまったように重く冷たい沈黙だけが満ちる。

 ぽたり、ぽたりと、水が滴るような音がして、私は理解した。


 母さんは、自分で引導を渡したんだ。

 私を終わらせて、私が望んだ通りに、新しい人生を始める。

 ……それでいい。それでいいんだ。こんなことになって今さら気付くとか、私って本当にバカ。

 死んだら、やっぱり何もなくなるのかな? もう、あの夢にも行けないのかな?

 あぁ、ダメだ。何も考えるな。考えたら、私、私は……。


 ぽたり、とまた水音が聞こえて、私は思考を中断した。

 何で? まだ死ねないの? 苦しいのは、もう嫌なのに。

 それとも、死後の世界にも水があるのかな。あるなら、あの温かい羊水のような世界がいい。母さんの、おなかの中がいい。次に母さんの子供として生まれたら、今度はきっと、悲しませたりしないから。


「……あなたが、死んで」


 声が、した。掠れて震えた、喘鳴ぜんめい混じりの涙声。絶対に聞き間違えたりしない、母さんの声。


「生きるために働く必要もなくて」


 ぽたりと、また雫が落ちる。私のすぐ耳元の、真っ白なシーツに吸い込まれていく。見えないはずなのに、見える。


「そもそも、あなたに必要とされていなかったというのなら……」


 母さんが、シーツに突き立てた果物ナイフから手を放して、泣いている。見えないはずなのに、その小さな背中が確かに見えた。耳から得た情報を脳が勝手に妄想してるのかな。けど、ぽたぽたと続く水音は私の血ではないし、母さんが私の枕元で声を押し殺して泣いている姿も、ただの想像にしてはあまりにリアルで。


「それなら」


 涙が止まらなくて呂律ろれつの回らない声で、母さんが言う。


「母さん……今まで何のために生きてきたの?」


 その子供のように拙い問いかけに、私は愕然とした。

 まさか、たった今私が感じた「必要とされない」恐怖を、母さんはあの事故の日からずっと感じ続けていたの?

 休日に一人で遊びに出かけることもしない、趣味もない母さんを、あの部屋に独り取り残して、ずっと。

 母さんが、それで清々すると言うとでも思ったの?

 バッカじゃないの。未練がないなんて、思考停止野郎のただの諦めじゃん!


 でも、事故に遭う前には労なく言えたはずの「違う」も「ごめん」も、今の私には思うに任せない。

 最初からずっと「生きたい」と願い続ければ、少しは動いたかもしれない。話せたかもしれない。けど自分のことしか考えていなかった私は、「生きたい」と願う意味にすら気付けなかった。

 奇跡っていうのは、最初から努力し続けている奴にしか訪れないんだ。


 夜の病室に、初めて聞く母さんの小さな嗚咽おえつが響く。それがどのくらいの時間かは知りようもないけれど、自由にならない意識も今だけはちゃんと私を現実ここに残してくれた。

 それだけでも、私には十分な奇跡なのかもしれない。


「……母さんね」


 少し掠れた、けれど気丈に振る舞うような声が、夜の静寂しじまを終わらせる。


「子供の頃は絵を描くのが好きでね、クレヨンを何種類も買って貰ったのを今でも覚えているわ。こんなことを言ったら、呆れられるかしら? でも……あなたが起きるのを待つ間、絵本を描いてみようと思うの」


『何か趣味でも持ちなよ』


 あの言葉は、母さんを追い払うためなんかじゃない。子供わたしなんか気にせず、もっと自分のために生きてほしいと思ったのだ。

 でも、それは少し見当違いな話だったかもしれない。何か特別な趣味を持たなくても、母さんは十分生きる目的を持っていた。それこそ、ただ毎日が無価値だと唾を吐くだけの私よりも、ずっと。


「出来上がったら、一番にあなたに見せるわ。だから……だから、早く、起きてね」


 語尾が小さく震えていた。その最後に零れた言葉こそが、誤魔化すことのない母さんの本音なのだと――情けないことに、私は初めて知ったのだ。




       ◇




 母さんは、看護師たちが私の譫言について話すのを、ずっと前に聞いていたようだ。それなのに今行動に出たのは、いよいよ私の死期が近いからだろうか。

 生きたいと願うには、あまりに遅すぎた。

 そして夢の中にもまた、終わりの時が近付いていた。

 それは周りの会話で知ったというよりも、最初から心の奥底に刻まれた約束のように、その時を理解していた。


 十月とつき十日とおか――それは愛しい胎内ゆりかごに別れを告げる刻限。


 私が想像の産物だと思い込もうとしていたあの夢は、それでも確かにひとつの生命として育まれていた。その最期の時を迎え、私は「私」という存在から、名もない別の人間へと生まれ変わる。

 それがいわゆる来世じゃなくても、ただの夢でも、構わない。

 神様も奇跡も、願ったりしない。

 もし本当にまた新しい命を貰えるのなら、私は今度こそちゃんと「生きたい」と願えるから。


 あぁ、暗い地平線から顔を出す旭日きょくじつのように、遠く小さな光が見える。最後に私の覚悟を試すように、息苦しさが、恐怖が、寂しさが体を包む。でも、もう怯んだりしない。安全で安心で、私を絶対的に守ってくる羊水の温もりは少しだけ名残惜しいけど。

 外の世界には、私を抱きしめてくれる「母さん」が、待っていてくれるから。


 でも願わくは、母さんの描いた物語を、新しい「私」が読めるといいな。

 それは奇跡を願っているだろうって?

 そうかもしれない。でもそのために、今度は最初から全力で頑張るんだ。

 その時には、ねぇ、母さん。伝えたいことがいっぱい、いっぱいあるの。

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十月十日の物語 ~いつか巡り合うその時には~ 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi

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