#4
遠い昔、雪の花が窓辺にちらついていた冬。暖炉に火を入れ、十分に温めた部屋に設えた広い寝台の上で、アルヴィンは軽く咳き込んだ。空気が乾くこの時期は、心なしか咳も多くなる気がする。アルヴィンは上半身を起こした状態で、膝の上に広げた本に唾がかからないよう、口元を押さえた。
「アルヴィン、入るぞ」
軽く扉が叩かれ、アルレクスが顔を出した。最近、アルレクスは前髪を上げて後ろに流し、そのせいか年齢よりも大人っぽく見えるようになった。アルヴィンは、なんだか兄が遠くなってしまったように感じられて、それがあまり好きではなかったのだが、アルレクスは次期公王としての自覚を新たにしていたために、言えなかった。
「具合はどうだ。何か欲しいものはあるか」
返事をしようとしたアルヴィンが咳き込んだので、アルレクスは慌てて、サイドテーブルに置かれた水差しからコップに水を注いだ。差し出されたそれを両手で受け取り、アルヴィンは喉を潤す。
「熱はないから、大丈夫だよ」
「……そうか。何を読んでいるんだ?」
アルレクスが寝台の端に腰掛ける。アルヴィンが表題を見せると、アルレクスはうっと呻いた。
「占星術か。私は苦手だ」
「兄さんにも、苦手なものがあるの?」
アルヴィンは驚いて訊ねた。政治、経済、歴史、文学。あらゆる学問に秀でる兄は、〈王の槍〉であるイスルから槍を教わり始め、めきめきと頭角を表しているという。さらに王に仕える騎士たちとの交流も深め、軍略を学び、来年には小隊を預かることになっていると、使用人たちの会話から漏れ聞いたばかりだ。そんな何でもできる兄でも苦手なものがあるなんて、とアルヴィンは目を丸くする。
「人間には向き不向きがある。だから当然、私にも苦手なものはある。特に
「に、兄さん。そんなこと言ったら、イゼルエルドに怒られてしまうよ」
星の意思を汲み、それを「予言」として民にもたらす
「怒ればいい。彼らは自分たちの感情さえも、星の御心のままにと律してしまう。それは……生きていると言えるのか? 星が定めた運命とやらをただ受け入れて、その通りにすれば幸せになれるのなら……人の歴史は、ここまで残酷ではないだろう」
「それは……兄さん、逆だと思う。人の歴史が残酷なものだからこそ、人々は予言を求めたんじゃないかな……」
「では、もし、誰か親しい人間の死が予言されたら?」
アルヴィンは首を振った。
「人の死を予言することは禁じられているよ」
「それは、見たくないものを見ないふりをしているのと何が違う? 都合のいい部分だけを切り取っているのと……それは、『星の意思にかなう』ことなのか?」
アルレクスは、予言に支配され、人々の意志が剥奪されているのを問題視しているのだ。アルヴィンはしかし、俯く。
「兄さん、それは、強い人の言い分だよ。僕みたいなのは、兄さんみたいには生きられないんだ」
アルレクスなら、運命などばきばきに踏み潰して進んでいけるかもしれない。だが、アルヴィンは違う。立ち上がって歩き出すための足も、細くて弱い。起き上がっている時間よりも、こうして横たわっている時間の方が長いのだ。
「兄さんにとっては、僕みたいなのは、軟弱で、頼りない弟かもしれないけど……」
「そんなことはない! 何か言われたのか、アルヴィン」
アルレクスは眉を釣り上げる。それに、アルヴィンは首を横に振った。
「何も。でも、それは……僕がこうして生きていて、感じることなんだ」
「アルヴィン……」
アルレクスは腕を広げて、アルヴィンを強く抱きしめた。どんどん背がのび、逞しくなっていく兄の体は、やはり力強い。その腕の中にいると、なんだかほっとした。
「頼りないだなんて思ったことはない。お前は優しいし、勉強もできて、少し体が弱くたってそれはお前の責任じゃない。むしろ……そうだ、アルヴィン。私が苦手なことは、お前が支えてくれないか」
「僕が? 兄さんを?」
アルヴィンは目を瞬いた。この優秀な兄の力に、自分などがなれるのだろうか。そんな疑問を払拭するように、アルレクスは強く頷く。
「私にしか見えないもの。お前にしか見えないもの。それらを重ね合わせていけば、きっと良い統治になるはずだ。私は……強いものも弱いものも、善きも悪しきも、皆、涙を流さずにすむ国を作りたい。それは、儚い夢想かもしれない……だが、お前となら、叶えられる気がする」
「兄さんと、僕で……」
「そうだ。お前と、私で」
アルヴィンはアルレクスの腕をぎゅっと握った。分け合う体温は暖かい。この温もりを、絶対に手放してなるものか、とアルヴィンは思った。
他でもない、憧れの兄が、自分を必要としてくれている。それは、アルヴィンの生きる意味になった。
兄が苦手とする分野だけではなく、適切な助言を行えるように同じだけ学んだ。体力をつけ、剣の修行にも勤しんだ。もしもの時、兄を守れるように、兄の足を引っ張らないように。兄の手を煩わせることもないと、政治的な搦手も身につけた。自分たちが目指す国づくりのためには、この国には膿が多すぎる。兄の即位の前に、それら全てを綺麗にしておかねばならない。
ああ、でも、運命は兄を奪っていってしまう。
そんなことはさせない。約束したんだ。兄さんと僕で、理想を実現すると。
ぱちん、と炎が爆ぜた。
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