第4章 楔

#1

 ばしゃっと冷たい水をかけられて、泥のような微睡みから強制的に引き上げられる。レネットは大変粗暴なやり方で起こされ、気怠げに瞼を持ち上げた。

「起きろ」

 浴びせられた水よりも冷たい声の主を探して、視線を彷徨わせる。天井は高く、周囲は薄暗い。手は背に回されて縛り付けられていた。ゾラは上手く隠れているようで、近くに気配は感じられない。赤い髪の青年が、空になった桶を放り出すと踵を鳴らして近づいてくる。

 嗅がされた薬のせいか、まだ頭がくらくらする。前髪を掴まれて顔を引き上げられ、レネットは痛みに表情を歪めた。

 青年は、どこかアルレクスと似通った雰囲気がある。ということはつまり、彼がこのフォルドラの公王——アルレクスの弟のアルヴィンに違いない。アルヴィンは心底不思議そうに首を捻った。

「兄さんは、こんな小娘のどこがいいんだろう?」

 視界の端には、イスルの姿も見える。だが、アルヴィンの所業を止めはしない。

「〈塔〉のことは兄さんがなんとかしてくれるんだっけ。うまくいくといいけどな。そうしたらあとは兄さんを説得するだけだもの」

「アルルは、あなたの言いなりになんてならない」

 レネットがアルヴィンを睨みつけると、氷蒼アイスブルーの瞳がすっと不機嫌そうに細められた。

「誰が口を利いていいと言った」

 殴られる、と思ってレネットは反射的に目を瞑る。だが衝撃がいつまでたっても襲ってこないので恐る恐る目を開けると、アルヴィンは不気味なほど穏やかな笑みを浮かべて、レネットのおとがいに指をかけた。

「そういえば、お前、子供が欲しいんだとか?」

「……は?」

 突然突拍子もないことを聞かれて、頭の中が疑問符でいっぱいになる。だが白く細い手がするりと濡れた服の中に入ってきて、腹を撫でた時、アルヴィンが考えていることに思い至りさっと血の気が引いた。

 この青年は、レネットを屈服させるのに、殴打ではなく凌辱を選ぶつもりなのだ。

「陛下」

 流石に見かねてか、それまで沈黙を貫いていたイスルが口を挟む。

「一国の主がするようなことではございませぬ」

「……そうだね。流石に兄さんも許してはくれないだろうな」

 言葉とは裏腹に気にした風もなく、アルヴィンはレネットから手を引いた。それに内心胸を撫で下ろす。

「兄さんは間に合うかな」

 だが、アルヴィンが腰の剣を抜いたのを見て、思わず生唾を飲み込んだ。蝋燭の光が鋭利な剣身に反射する。アルヴィンはレネットの首元から、足の爪先まで撫でるように剣先を動かした。

「あなたは……死が怖くないの?」

 レネットがそう問いかけると、ぴたり、とアルヴィンの動きが止まった。

「恐ろしい。恐ろしいに決まっている。だから僕は兄さんを生かすし、僕自身が滅びるまで、兄さんにそばにいて欲しいんだ」

「あなたには……あなたには愛してくれる人がたくさんいたじゃない。アルルを巻き込まないでよ」

「それはある意味では真実で、でも、違う。本当に必要とされているのは兄さんなんだ。僕じゃない」

 どんな時でも、とアルヴィンは口の中でつぶやく。

「だから、僕は、僕は……兄さんに必要とされる弟じゃないと」

 どこか遠くを見つめるアルヴィンの瞳を見て、レネットは確信した。正気だろうが狂気だろうがいずれにせよ、アルヴィンの思考はすでに支離滅裂だ。

 兄を救いたい。そんな純粋な思いで禁忌の書を紐解いた。しかし意識の外では、「皆から必要とされている兄から求められる」ことに自身の価値を見出し——依存を信仰で覆い隠している。

(アルル……早く来て!)

 レネットは目を瞑って祈った。彼を救えるのは、兄であるアルレクス以外にいない。このままでは、アルヴィンは完全に壊れてしまう。それが彼のいう「滅び」なのだとしても。

 白刃が振り上げられる。が、それが振り下ろされることはなかった。

 レネットは恐る恐る目を開ける。すると、ヴェールを被った黒髪の女が、レネットを庇うように覆い被さっていた。

「エステラ? ここには入ってきてはいけないと言ったよね」

 アルヴィンの咎めにエステラは小さく体を震わせるが、気丈にも顔を上げた。

「おやめください、陛下。このようなか弱い娘に何をなさるおつもりですか」

 エステラはどうやら、何も知らされていないらしい。レネットは二人が言い合うのを見て、袖に仕込んだ剃刀を探り当てる。そして気づかれないように、縄を少しずつ切っていった。

「まあ、君もそろそろ用済みだとは思っていた」

 アルヴィンはつまらなそうにエステラを見る。そんな目で見下ろされたことがないエステラは、思わず言葉を飲み込んだ。

「用、済み……?」

 エステラが呆然と繰り返す。レネットもまた、アルヴィンを見つめた。

「兄さんは三年後、マルキアの外遊中に毒殺される。だからそれにつながる要因は全て排除してきた。君の嘘は、利用できると思ったんだ」

 アルヴィンは魔術で剣に炎を纏わせる。ぱっと一帯が明るくなった。

「兄さんは王であってはいけない。兄さんと僕は、離れちゃいけない。なのに……嫌になるよ、本当に」

 ゆらめく炎に照らされた表情は、作り物のように美しい。アルヴィンは今度こそ剣を振り下ろし——レネットは自由になった手でエステラを突き飛ばした。

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