第2章 狼たちの目覚め
#1
フォルドラの南方に広がるマルキアは、商業取引に伴う契約から生まれた宗教世界の名前で、国家の名称でも、宗教の名称でもない。マルキアの内に小国が興ることもあるが、外交的には流動的な隊商の集合体とみなされている。シュガルは、そんなマルキアの傭兵だ。
フォルドラとマルキア間で小競り合いがあった時、シュガルは二十二歳だった。すっかり戦いに慣れた熟練の傭兵として成長していたシュガルは、この戦も楽に制してやろうと自前の傭兵団を率いて戦った。その時、齢十六となるフォルドラの公子、アルレクスと出会ったのだ。
初陣であるアルレクスの采配は「ややぎこちなかった」と、そばに居たイスルは評しているが、シュガルはそのぎこちない采配にすっかりしてやられ、傭兵団はまるまる捕虜となった。シュガルは実際にアルレクスと刃を交え、この身なりのいい貴族の子息らしい少年が繰り出す苛烈な槍捌きに圧倒された。
それから、シュガルとその仲間たちはアルレクスのもとで働くことになった。
フォルドラに限らず、戦時に自国の兵ではなく傭兵を雇い入れることは珍しくない。武装の値段より人の命のほうが安いことさえあるという。だがアルレクスはシュガルたちを重用し、「名誉騎士」という一代限りの騎士身分を与えて遇した。
それが民を守る兵を率いることなのだと、アルレクスはわざわざ言葉にこそしないが、日々の態度で示す。ともすれば国内の貴族たちとの摩擦を生みかねないぎりぎりのところで、シュガルたちを最大限気遣った。シュガルたちはそんなアルレクスの私兵として編成され、彼の成長とともに歩んできた。
だが、あの吹雪の夜、シュガルたちは頼られることなく、フォルドラに置き去りにされた。
巻き込むまいとしたのだろう。シュガルたちは宮廷に出仕するよう命じられていて、逃亡を手助けすることもできず、そのおかげでまるでお咎めなしだった。頼られることもなく置いていかれることがどれほどの屈辱だったか——シュガルの前に現れたその男は、知るはずもないのだろう。
「今更戻ってきて、力を貸せだと?」
男の胸ぐらを掴んで壁に叩きつける。感情の消えた顔が、僅かに痛みに歪んだ。
「たしかにあんたには返せないほどの恩があるがな、その前に言うべきことがあるだろうがよ」
「……すまなかった」
男は短く謝罪を述べた。もし、言い訳のひとつやふたつでもしてくれたら、シュガルの怒りは収まったかもしれない。だがそれをしないのがこの男の生き方なのだ。それが、シュガルにはひどく腹立たしい。
「俺たちに何をさせるつもりかは知らねえが、お断りだ。二度とその
「シュガルさん! せっかくまた会えたのになんてことを。こうしてご無事だったんですよ」
部下の一人がシュガルを男からなんとか引き剥がす。シュガルは部下たちの手前、なんとか気を落ち着かせて、椅子を引いてどっかりと座った。
「……だからなんなんだよ。なんで戻ってきた!」
「そう、イスルにも言われたな」
シュガルはフォルドラの慣習には疎い。が、この男が追われる身であることくらいはわかる。
「自分が公王になるつもりか?」
騎士たちの中には、アルヴィンを王とは認めていない者も多い。シュガルたちにしてもそうだ。主人がこうして戻って来て、その剣として戦えというのなら——やぶさかではない。だが、男は首を振ってそれを否定した。
「私は王になるつもりはない。ことが済めばまた出て行く」
「……どういうことだ? あんたには理想があったはずだ。この国と民のために尽くすと、あんたはそう言ったよな。それが王になるべくして生まれついたものの責務だと。それを放り出すのか?」
「すでに私は放り出した。自分の傷しか見えず、ただ彷徨った」
男は一旦言葉を切る。そして何やら言いにくそうにしているその表情が珍しく、シュガルは首をかしげた。
「なんだよ、さっさと言え」
「……添い遂げたいものがいる」
その瞬間、部屋に集まっていた全員が固まった。うち一人が用意していた茶をひっくり返し、もう一人が水を飲み損ねて激しく咳き込んだ。神に祈りを捧げるものまでいる始末に、男は眉根を寄せる。
「愉快なことを言ったつもりはないんだが」
「いや……愉快っつか……大丈夫か? そいつはあんたのことちゃんと……愛してるのか? ほら、つまりだ、俺たちが言いたいことは、あんたがまた傷つかないか、ってことだ」
男には愛した婚約者がいたはずだ。それは何故か今公妃の位についている。その意味が分からぬシュガルではない。
「それは心配には及ばない」
至極真面目にそういうので、シュガルは鼻の上の向こう傷を撫でた。動揺した時の癖だが、あの理想に人生を捧げたと言わんばかりの献身を示していた主人の変容ぶりに理解が追いつかない。
「いや待て待て。ちょっと待て今までどんな流れだったか思い出すから……。……つまり、女のために、理想は諦めるのか」
「……やはりお前たちを失望させてしまうか」
小さくため息をついた男に、シュガルは慌てて言葉を継ぐ。
「いや言ってねえだろそこまでは。俺たちはあんたの言う理想にはついていけなかったんだから。上に立つ人間としてはまあ立派なもんだと思ったさ、だが……」
人間らしい生き方を選べないことを、当然のように受け入れているあの日の少年の横顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「どっちかっていうと、安心してる」
愛するものと責務とを天秤にかけて、愛を選べるその愚かさを、この男が持ち合わせていることに。
「そうか、女が理由か……」
「何度も言わないでくれ、気恥ずかしい」
あまりにもしみじみと言ってしまったせいか、男は目を伏せて視線を逸らした。シュガルは安酒を注いだ器を軽く揺らして、少しの間考え込む。
「……で、俺たちは何をすればいいんだ? 大将」
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