#3
二人は同時に声をあげて固まった。開け放された窓から入ってくるそよ風が、二人の髪を揺らす。
「……アルレクス? 誰かいるの?」
女が不思議そうに訊ねると、アルレクスははっと我に返った様子で女の方を振り向いた。
「い、いいえ。ここには私一人です。さあ、母上、もう休みましょう。……」
アルレクスが窓を閉め、女の寝台を整える。女はゆっくりと目を閉じて、静かに眠りの中へと沈んでいった。
その様子を見守っていたアルレクスは、ふうと小さく息をついてから、レネットを振り返るとその手を掴んで部屋の隅まで連れていき、声を潜めた。
「誰だか知らないが、大声を出すな。公妃の御身に障る」
「ご、ごめんなさい」
声変わり前の高い声に、背はレネットより少し低い。しかし堂々としている分、成長後の彼の面影がある。そうレネットがアルレクスの顔をまじまじと見ている間に、アルレクスもレネットのことを観察していたらしい。
「……見ない顔だな。使用人ではないようだし、出入りの者か?」
どうして記憶に干渉できているのかは分からないが、下手な行動に出て彼の記憶に影響を及ぼしてはまずい。レネットは話を合わせるためにこくこくと頷いた。
「ここは公妃の寝所だ。どこから迷い込んだか知らないが、普通なら首が飛んでいるぞ。知らない場所でうろうろするんじゃない」
「う、うん」
確かに、状況からしてレネットは不届きものと突き出されておかしくない。しかしアルレクスはそのようなことをせず、まるで弟妹を叱るようにレネットを嗜めると、こっちだ、と手を引いて歩き出した。
寝室は中庭に面していたらしい。扉を開けると、先ほど大人のアルレクスとエステラが話していた場所へと戻ってくる。なんだか複雑な気持ちでいると、アルレクスはレネットを振り返った。
「真っ直ぐいって、あの扉を抜けると大広間に出られる。お前の姿が見えなくて心配しているものもいるだろう。さっさと行け」
アルレクスがレネットの手を放し、軽く背中を押した。レネットは数歩進んで、しかし、ぴたりと足が止まってしまう。
このままで良いのだろうか。
レネットはアルレクスを振り返った。アルレクスの緑色の瞳が、不思議そうにレネットを見る。
「どうした?」
「……つらくない?」
「何がだ」
レネットの質問の意図が読めず、アルレクスは眉根を寄せる。彼が、考え事をするときの癖だ。
「お母さんのこと、とか、弟さんのこと……とか」
起き上がることもできない母親は、ただ弟を頼むと懇願する。婚約者は自分を見ることもない。周囲の人間ですら——顧みられないことが、つらくはないのか、と。
しかし、アルレクスはため息をついただけだった。
「つらいといって何かが変わるのか? 私はこのフォルドラを、民の安寧を背負って立つ身なのだ。軟弱ではいられない」
それは、自分自身に言い聞かせているようでもあり、彼の高潔な精神から生まれた言葉なのだろう。
だが、その言葉のために彼は、多くを諦めてきたのではないだろうか。
そう思うとたまらなくなって、レネットはアルレクスに歩み寄り、手を伸ばして——つん、とアルレクスの頬を突っついた。
「な、何をする?」
「あなたには笑っていて欲しいけど、辛い時は、それを伝えてもらえる人間になりたいなって」
アルレクスはきょとんとして、突っつかれた頬に触れた。そしてやはり困惑した表情でレネットを見やる。
「お前とは、先程初めて出会ったのに」
「うん」
「……知っている、気がする」
レネットは曖昧に笑った。すると、またも周囲の景色が変わる。石の柱も彫像も噴水も消え、白い花が咲き乱れる夜の花畑の真ん中に、二人は佇んでいた。アルレクスは困惑して辺りを見回した後、レネットを振り返る。
「……お前は、魔女なのか?」
魔女——かつて忌々しいものとして口にされたそれを、アルレクスは賢者に会ったように相対する。アルヴィンが火の魔術を使いこなしていたところから見るに、彼の国では、魔術は身近なものなのだろう。敬うべきものとして存在しているのかもしれない。レネットは少し得意な気持ちになって、すんと胸を張った。
「そうです。私はレネット、かつて誘いの魔女と呼ばれた女」
でも今は、その力も失われてしまった。他の誰でもない、アルレクスが自分を愛してくれた、そのために。
「そして、あなただけの魔女」
ゆえに、レネットはそう続けた。目を瞬くアルレクスの手を取って、レネットはその甲に優しく口付けた。
「私、レネットは、あなたを一生をかけて愛すると誓います。あなたとともに喜びも、悲しみも分かち合い、死が二人を分かつとしても、この誓いは永遠であり、私たちを結びつけるでしょう」
結婚の誓いの文言などはっきり覚えていないため、レネットはアルレクスに捧げるにふさわしい誓いを立てる。
この夢が目覚めたら、きっと忘れてしまうかもしれない。アルレクスも、覚えていないかもしれない。それでも、言葉を重ねることに意味があるのだ。
「レネット……」
アルレクスは、その名前を刻みつけるように呟く。
「私に
「はい。愛という名の魔女の祝福を」
「愛……」
アルレクスは照れたように目を伏せる。その表情がなんだか新鮮で、レネットは少しうずうずした。ここで少年を抱きしめたら、頭を撫でてあげたら、どんな反応をしてくれるだろう。しかし、相手は王族の矜持ある嫡男である。レネットは相手を甘やかしてやりたい衝動をぐっとこらえて、こほんとわざとらしく咳払いした。
「忘れちゃってもいいの。でもあなたにかけたおまじないはずっと有効なんだから、覚悟してよね」
「レネット」
アルレクスが神妙な面持ちでレネットの名を呼ぶ。そしてその場に跪くと、繋いだ手の甲に恭しく口付けた。
「あなたに感謝を。この契約が、私たちをふたたび結びつけてくれることを祈りましょう」
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