#2
さわさわと葉の擦れ合う音が聞こえる。暖かな木漏れ日を頬に感じて、レネットは目を覚ました。
そこは宿の寝台ではなく、青々とした芝生の上だった。寝台も、荷物も、先ほどまで手を繋いでいたアルレクスの姿もない。
(夢……?)
身を起こして、きょろきょろとあたりを見回す。どうやら庭のようだが、彫刻や噴水、整えられた草花など、故郷の村にはないものばかりだ。おとぎ話に出てくるお城の中庭、とでも言うべきだろうか。
と、レネットの膝上に、呼んでもいないのに妖精のゾラが現れた。ゾラはもっふりとした尻尾を揺らして、とっと駆け出してしまう。
「ゾラ?」
待って、とレネットは立ち上がってゾラの後を追った。
夢にしてはずいぶん色鮮やかな光景だ。頬を撫でる風の感触は、夢と現実の境界を曖昧にしている。
屋根のついた歩廊があるところまでたどり着くと、ふと見慣れた横顔が目に入った。
背中に流れる赤い髪。緑色の切長の瞳。仕立ての良い服を身に纏っているその人物は、レネットが恋する青年その人だ。
いつも感情を押し込めて口を引き結んでいるその表情は、レネットを見ればふっと緩む。控えめだが優しい微笑みが、レネットは大好きなのだ。
しかしその瞬間だけは、彼のその柔らかな微笑みは、レネットではなく別の人物に向けられていた。
純白のヴェールを被り、白い絹のドレスに身を包んだ黒髪の少女——それを認めた瞬間、レネットはきゅっと胸が締め付けられて、思わず駆け出していた。
「アルル!——」
駆け寄って、アルレクスの手を取る——しかし、それはするりとすり抜けてしまい、レネットは勢い余って転んでしまった。
膝が痛む。レネットは面食らったまま二人を振り返った。二人はレネットの姿が見えていないのか、そのまま何事か会話を続けている。声は、水の中にいるようにくぐもって聞き取りづらい。
だが少女を見つめるアルレクスの表情は、とても——幸せそうだった。また、レネットの胸が軋む。
自分以外に、そんな顔をしないでほしい。
そんな欲望が胸の内を支配して、息が詰まる。
少女は、微笑むアルレクスとは対照的に、微動だにしない。表情はヴェールに隠れて読み取れないが、声の調子は冷たく、事務的なやりとりに終始しているように思えた。
やがて会話は終わり、少女は貴き血を敬う礼をして、その場を去った。その背中を、アルレクスはすこし寂しげに見送る。
ああ。私なら、そんな顔させないのに。
抱きしめたくて何度腕を伸ばしても甲斐なく、アルレクスに触れることはできない。
「アルル、ねえ、気づいて」
泣き出しそうな思いでいると、歩廊の向こうから、騎士らしい身なりの人物が歩いてきた。
「殿下、こちらにいらっしゃったのですね。アルヴィン様のことでお耳に入れたいことが」
先ほどよりも、少し声がはっきりと聞こえる。アルレクスは表情を消して振り返った。
「すまない、すぐに戻る」
「いえ。……エステラ様とお話を?」
「姿が見えたので、少しな。さあ、行こう」
アルレクスと騎士が去り、レネットは取り残された。
エステラ。好きな人の婚約者だった人で、好きな人が愛した人。
これは、過去だ。
レネットはとぼとぼと歩き出した。夢にしては自分の体以外は何もかもがはっきりしていて、まるで記憶の中を巡っているようだ。妖精の悪戯だろうか。そういえば、ゾラはどこに行ったのだろう?
「ゾラ! どこにいるの? 出ておいで」
呼びかけても、ゾラはレネットの前には現れない。自分の姿が他人に認識されないのを良いことに、レネットは城の中を歩き回る。すると玉座の間に続く廊下で、先ほど去ったエステラの姿を見つけた。
エステラは、赤い髪の少年と何やら楽しげに会話をしていた。声を弾ませ、小さく笑って——その一欠片でも、アルレクスに向けることはしなかったのに。
なんだかむかむかとしてきて、レネットは自分が彼らに干渉できないことも忘れて、エステラにつかつかと歩み寄る。
「ちょっと、あなたね——」
細い手首を取ろうとして、触れる直前、天地がぐるりとひっくり返った。
「えっ!?」
ふわりとした浮遊感のあと、景色が暗転する。レネットは思わず目を瞑り、そして空気が変わったことを感じ取ると、おそるおそる瞼を開いた。
そこは、寝室だった。
天蓋つきの寝台には、青白い肌の痩せた女が横たわっている。鮮やかな赤い髪はまとめられ肩の前に流され、そのそばには、彼女と同じ赤い髪の少年が寄り添っていた。先ほど廊下でエステラと話していた人物とはまた、別人のようである。
「アルレクス……」
女が弱々しい声をあげる。それに、少年が小さく頷いた。
「私はこちらにおります。母上」
レネットはそろそろと二人の近くへ歩み寄り、少年の顔を覗き込んだ。自分と同じくらいの年齢だろうか。アルレクスと呼ばれたからには、この少年は過去の彼なのだろう。まだ幼さの残る顔立ちは、長い髪も相まって少女のようにも見える。美形って恐ろしいな、などと思いながら、レネットは二人の様子を見守った。
「ねえ、アルレクス……アルヴィンのことを……恨まないで欲しいの……」
罪を告白するような、思い詰めた様子に、アルレクスは女の手を握って語りかける。
「承知しております、母上。私は、兄ですから」
「アルヴィンのことを……お願い……」
熱に魘されるように、女はアルヴィンのことばかりを口にする。アルヴィンとは確か、アルレクスの弟のことだ。その身を「お願い」と任されるアルレクスの瞳は、静かで、凍っている。
なんだ、これは。
誰も彼もアルヴィンアルヴィンと、誰も、アルレクスのことなど気にかけもしない。
「アルル!」
こんなところにアルレクスを置いておけないと、レネットは思わず強く名前を呼んで、少年の肩を掴んだ。
すり抜けない。確かに、感触があった。少年が驚いたようにレネットを見て、レネットもまた目を見開く。
「えっ?」
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