幕間 魔女のおまじない

#1

 逞しい大きな手が優しく頬を撫でる。武器を握り慣れた、武人の手だ。節くれだっていて硬く、少しざらついている。だからか、普段あまり彼はレネットに触れない。胸に灯る火の温もりを確かめたいと思う時以外は。

 蝋燭の淡い光が綺麗な緑色の瞳に反射している。指先がレネットのおとがいを辿り、薄い唇がそっと耳殻じかくをなぞる。レネットはぞわぞわと背筋を這い上がる奇妙な感覚に身を震わせた。

「ア、アルル……」

 自分のものとは思えないほどか細い声が漏れた。彼は微笑み、そのまま顔を近づけ——


「待って心の準備がーっ!」


 レネットは大声をあげて飛び起きた。視界の端で、床に座り込み寝台に背を預けて眠っていた影がびくりと震える。抱え込んだ槍を反射的に握ってあたりを見回したあと、敵襲ではないと気づくとレネットを振り返った。

「……どうした?」

「えっ、あ、ゆ……、夢っ?」

 夢の中で元の赤い色をしていたアルレクスの髪は、今は黒っぽく染められている。その怪訝そうな表情を見て、今しがた見た夢の内容を思い返し、レネットは勢いよく首を横に振った。

「な、なんでもない!」

 乙女にあるまじき破廉恥な夢だった。アルレクスがあんな風に色っぽい目や仕草をしたことは一度たりとてない。彼は常に高潔で気高く、清廉である。つまり全てレネットの妄想ということだ。これは気まずい。穢してはいけないものを穢した気分になって、一方で少し期待した自分が恥ずかしくなり、レネットは熱を持った頬を隠すように頭から毛布をかぶった。

 季節は十二月。アルレクスとレネットはミュールの街に滞在していた。旅支度を整え、シルヴァンデールに向かうか、フォルドラに戻るかを決めねばならない。アルレクスは悩んでいるようで、レネットは彼の中で答えが出るまで待つつもりでいた。今日中に決めると言って眠ったのが昨晩のことである。

 時刻は早朝のようで肌寒く、アルレクスは毛布の上からレネットの頭を撫でる。そして自分が羽織っていた毛布でレネットの体を包んだ。

「それじゃ、アルルが寒いんじゃ……」

 毛布から顔を出すと、アルレクスはなんでもないように首を振った。

「君はこういう場所で眠るのには慣れていないだろう? 暖かくして、少しでもゆっくり眠れ」

 アルレクスは、優しい。初めて出会った時も、心を閉ざしながらも、助けが必要な人々に手を差し伸べていた。心根が優しいのだ。そういうところを、好きになった。

 温もりに包まれてレネットはうとうとしはじめたが、はっと我に返る。今寝てしまったら、またあの恥ずかしい夢を見てしまいそうだった。本人を穢しているようで罪悪感がひどい。寝落ちないようにと耐えるレネットを見て、アルレクスは首を傾げる。

「どうした」

「あっ……いや……夢を……」

「怖い夢でも見たのか」

 そういうことにしておこう。レネットがうんうんと頷くと、アルレクスはレネットの手を握った。

「では、こうしていよう。これなら安心か?」

 小さい子供をあやすように、優しい声で囁かれる。確かに、こうして温もりを分かち合えるのはほっとするが、子供扱いされているのがなんとも言えない。そんな思いが顔に出ていたのか、アルレクスはふっと微笑んだ。

(笑った、)

 アルレクスはあまり笑わない。レネットにはこうして穏やかな表情を見せてくれるが、普段は仏頂面で、考え事をしていると眉根が寄る癖のせいで近寄り難い雰囲気を放っている。そのアルレクスが表情を崩したので目を瞬くと、アルレクスはそのままレネットの指に自分の指を絡めて握り込んだ。

「レネット、」

「そういうの良くないと思います!!」

 普段清廉潔白な態度を取っておいて、突然仲睦まじい恋人のように振る舞われると心臓が持たない。もしかして夢の続きを見ているのかと思ったほどだ。これではまた危ない夢を見てしまう。

「驚かせたようですまない」

「ほんとだよ。こ、こういうのは……段階を踏むべきっていつもアルルが言ってるんだよ」

「過程をすっ飛ばして突然口づけてくるような乙女への仕返しということにしておいてくれ」

「あーあーあー! 無効って言ったじゃない!」

 思い出すだけで恥ずかしいことを言われて、レネットは再び毛布を被った。確かに、以前彼に対してヴェール越しにちゅっとやったのを覚えている。我ながらはしたない真似をしたものだ。

 あの時は、呪いを解くことで頭がいっぱいだった。もちろん好意もあったが、打算の方が多く割合を占めていたと思う。だから仕返しと言われると何も文句が言えない。

 指を絡めて繋がれた手から、小さく鼓動が伝わってくる。その音を聞いていると、また微睡み始めた。

「おやすみ、レネット」

 低く落ち着いた声が耳朶に触れる。その声に引き込まれるように、レネットは眠りに落ちていった。

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