#2

  飲め、と注がれた酒を、アルレクスは飲むふりをして、さりげなくジョシュアの方に回した。酒は飲めないわけではないし、むしろ強い方だが、酔って足元や判断が鈍らないよう控える癖をつけていた。向こうのテーブルではロイクがマルスランに好き嫌いをしないようにと教えている。広場に並べられた大机の上にある食事は豪勢とは言い難いが、この小さな村なりに、新たに生まれた命を歓迎していた。

「レネットは凄いな。俺の息子なんか、真っ赤な布の山見ただけで気絶しちまったよ」

 酒が入って口の滑りが良くなった面々が、口々にレネットを讃える。中には気まずそうな顔色の者もいるが、村全体を覆っていた"魔女"への忌避感は薄らいでいた。そのことに、少し安堵する。

「今回はレネットが取り上げたんだろ。もう立派な大人だな。大したもんだ」

 ぴくっとフォークを持つ手が止まった。

 大人と子供。彼らは、守るべき子供を排除していたということを、きっと忘れていくのだろう。

 ——そんな場所に、レネットを取り残して行っていいのか?

 いや、無責任な人間ばかりではないことは、ロイクやマルスランを見ていれば分かる。モニカも今回の件でレネットへの態度を和らげていたし、きっとうまく暮らしていくはずだ。レネットを愛するものも現れ、呪いもいつか、解ける。自分という異邦人を孕んだ非日常は、在るべき形に、戻る。

「アルル? 腹でも痛いのか?」

 ジョシュアが「胃薬ならノーラ婆から貰ってきたぞ」と、懐をまさぐる。

「いや、なんでもない。ところで、これからのことなんだが」

 明日はレネットと過ごす約束をしている。それを果たせば、この村を去る。突然姿を消しては驚くだろうから伝えておこうと顔を上げたところで、ふと、視界に違和感を覚えた。

 それは、マルスランとロイクのテーブルのそばに立っていた。旅装だが、帯剣している。この宴の喧騒の端で起こっていることに、大人たちは気づかない。ロイクがやや警戒しながら対応しているのを見て、アルレクスも食器を置いて腰を浮かせた。

 するとそれに気づいたのか、旅装の男がアルレクスの方を見た。

 青い瞳が細まり、柔らかな笑みを浮かべる。それが良く見知った顔を思い起こさせ——その正体に思い至った瞬間、アルレクスは椅子を蹴って立ち上がっていた。

 同時に男がロイクの襟を掴み、テーブルに押し付けて首元に剣を突き立てた。突然のことに声も出せないマルスランと、大きな物音に村人たちが振り返る。

「さすが、兄さん。ちゃんと僕だって分かるんだね、嬉しいよ。髪は染めてるの? やだな、せっかくお揃いなのに……それしか、僕と兄さんが同じものはないんだから」

 喉がからからに乾く。信じられない思いで、言葉もなく男を見つめる。

 自分のことを、兄と呼ぶ人間は一人しかいない。アルヴィン=エル=フォルドラ。現フォルドラ公王であり、アルレクスから全てを奪った男だ。

「アルヴィン——」

「動かないで。手が滑るかもしれないよ」

 ロイクの細首に刃が薄く食い込む。その場は静まり返り、緊張が走った。

 男の姿形は、瞳の色以外アルヴィンとは似ても似つかないが、話し方や表情の作り方はアルヴィンそのものだ。何か、魔術的な憑依をしているのだろう。

「こんなところまで追ってきて、わざわざお前自ら出迎えとは」

「だってこれが最後の機会だと思ったから。さあ、兄さん、フォルドラに帰ろう」

「帰る? 殺すのではなく?」

「殺す? 僕が兄さんを? どうして?」

 アルヴィンは不思議そうに小首を傾げる。無邪気なその仕草に、アルレクスは目を細めて真意を探ろうと試みる。

 ずっと、分からなかった。今でも分からないままだ。なぜ、権力欲とは無縁の弟が、公王の位を求めたのか。アルレクスの支持者が叛乱を起こす可能性を鑑みれば、アルレクスが生きているのは都合が悪いと考えるのが普通だが、アルヴィンはそんなつもりはないという。そういえばあの時も、アルヴィンはアルレクスを離宮に閉じ込めただけで、害なそうとはしなかった。当時のアルレクスはそのまま処刑されるものと思い込み、逃げ出したのだが。

「ようやく二人だけの家族になれたのに。兄さんが僕の目の前からいなくなるなんてだめだ。兄さんと僕はずっと一緒に暮らすんだから」

 アルヴィンは幼い頃から、他人を虜にしてきた。儚く華奢な出立ち、病弱な体、花が綻ぶような笑顔。三年経っても変わらぬそれに、呑まれそうになる。

 だが——弟はこんな執着をするような人間だっただろうか。正気とは思えない主張をしているのに、その瞳は一切の狂気を孕んでいない。兄さん、とアルレクスの後をついて回って歩いていた時と変わらない、人懐っこい笑みで。

「ね、兄さん。一緒に帰るなら、この村、燃やさないでおいてあげる。この子もこれ以上傷つけないよ」

「アルル……?」

 ジョシュアが怖々とアルレクスを見上げる。ころころと少年のように無邪気に笑うこの男が、本気だということを肌で感じたのだろう。そして、アルレクスは知っている。アルヴィンほどの卓越した魔術師ならば、村ひとつ灰塵にすることなどわけもないことを。

「……私の知る、弟は。そのように無闇に命を奪うことを嫌っていた」

「だって、そんなことしたら兄さんに嫌われちゃうから。内緒にしてたんだよ。で、兄さん。答えは?」

 是非も及ばず、だ。アルヴィンを拒めばロイクの首が飛び、村は地図の上から消える。

「……分かった。帰ろう、アルヴィン」

 声を絞り出す。その答えに、アルヴィンは満足そうに微笑んだ。

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